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tartaros  ―タルタロス―

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こうず2608

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2008.05.30
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カテゴリ:与太話
 帝政ロシア末期、ロシア帝室に一人の「怪人」が出現した。その名はグリゴーリ・イェフィモヴィチ・ラスプーチン。この男は、ロシア革命の遠因にもなったという怪僧である。

 ラスプーチンは1872年、シベリアの貧農の家に生まれた。彼の家は貧しく学校に行くことは出来なかったが、生まれつき知恵に恵まれ、よく気がつく少年であったようだ。
 彼はこの頃より聖母マリアの姿を幻視するようになった。しかし特に宗教活動をする訳でもなく、妻を娶ってごく普通の生活を営んでいた。
 20歳のある日、彼は「農作業中に聖母マリアの姿を見た」と言うきっかけで、家族を置いて巡礼の旅に出掛けてしまう。だがこれは「過酷な生活に嫌気がさしたため、口実を設けて逃げ出しただけ」といわれている。
 ともあれラスプーチンは数年の間修行に励み、生まれ故郷の村に戻って自分の教団を設立した。

 ラスプーチンはその説法で多くの信者を集め、同時に呪術師としても名声を得ていった。
 やがてラスプーチンは34歳の時(1905年)、ロシア帝国の首都ペテルブルク(現サンクト・ペテルブルク)へと入る。
 やがて彼はロシア社交界へ巧みに進入し、その占術・呪術・雄弁術でたちまち貴婦人たちの人気を獲得した。
 そして彼にとって最大のチャンスが訪れた。皇帝ニコライ2世夫婦が「皇太子アレクセイを病から救ってくれ」と懇願してきたのである。

 アレクセイの病は血友病であった。この病気は血中に含まれる血小板・凝固因子の欠如、あるいは異常のために血が固まりにくく、出血が止まらなくなる病である。十分な医療技術が確立されていない当時にあっては、まさに「不治の病」であった。
 ラスプーチンは、なんと加持祈祷によってアレクセイの命を助けたという。この話の真偽は定かではない。しかしこの一件によって、彼は帝室内での権威を飛躍的に拡大した。
 皇帝ニコライ二世の皇后アレクサンドラなどラスプーチンに全幅の信頼を寄せ、私的な事柄から政治・人事に至るまでラスプーチンに相談し、その進言をもとに政治を行うようになっていった。ロシア帝国は実質ラスプーチンに牛耳られていたのだった。

 だが、ラスプーチンの栄華もそう長くは続かない。有力貴族のユスポフ公らがラスプーチン抹殺に向けて動き始めたのだ。
 ラスプーチンは第一次世界大戦の時、徹底的非戦論・対独講和を主張していたが、ユスポフ公の側からしてみれば敗北主義的・売国的な主張であったのだ。それが影響した考えであった。
 おまけに民衆も、宮廷内におけるラスプーチンの専横を快く思っていなかった。

 1916年12月17日、ラスプーチンはユスポフ公に招待され、彼の屋敷へ向かった。実はラスプーチンとユスポフ公は親しい仲だったのだが、まさか友人に殺されるとは露ほども思わなかっただろう。
 ユスポフ公は、暗殺用に用意しておいた青酸カリ入りの菓子とワインでラスプーチンをもてなした。だがいくら菓子とワインを食べても、ラスプーチンには死ぬ気配すらない。(一説によると、胃拡張にかかって胃の内壁が肥大しており、毒が効くのに時間がかかったともいわれている)
 激昂した暗殺者たちは拳銃で目の前の怪僧を射殺しようとした。しかし心臓に銃弾が命中してもまだ死なない。さらに背中に4発撃ち込んだがまだ動いている。
 いよいよ恐怖したユスポフ公は、側にあった銀の燭台でラスプーチンの身体を滅多打ちにした。殴られたラスプーチンの頭部は頭蓋骨が陥没し、顔面は見分けがつかないほど破壊された。
 ようやく動かなくなったラスプーチンは、ネヴァ川へ投げ込まれた。
 19日早朝、川から引き上げられたラスプーチンの死体は、指を三本胸のところに置いた状態で発見された。なんと川に投げ込まれた段階では彼はまだ生きており、最後の力を振り絞って十字を切ったのだ。死因は溺死であったという。驚くべき生命力である。
 彼の遺体はアレクサンドラ皇后の命令によって手厚く葬られた。
 その三ヵ月後、ロシア革命が勃発。
 ラスプーチンの死体は無残にも焼き捨てられ、彼の熱心な信者だった皇后アレクサンドラも、投獄の後射殺された。


 ツァーリズムの時代はここに終わりを告げ、世界初の共産主義国家「ソビエト社会主義共和国連邦」が誕生する。


―――――――

フリーページの文章を、執筆……という程の事もないが、ともかくブログで公開してから3年近く経った今、改めて読み返してみた。なお、上に挙げた文章は行間を詰めた以外は何らの手入れも行っていない。
当時、高1。まだ大量に有るんだから始末に負えない。よくこんなに量産したもんだよ。
現在よりも重篤な中二病に罹患していたというのがよく判る。

まるで、なるべく見ないように見ないようにとしていた部屋の奥に溜まりに溜まった大量の固まったティッシュを数年振りに目にして、自身のキモさを自覚したような感じだ(正直に書くと規制に引っ掛かるので、何を言わんとしているかは察してください)。


……っていうか、元々このブログ自体が「自己顕示欲」と「ナルシズム」という二本の柱に支えられながら造られたものだったという事実を、いま思い出した。





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Last updated  2008.05.30 21:55:27
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