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カテゴリ:与太話
砂浜に立つ。 当然の事ながら、目に入る物、見る物は眼前に存在する広大な海だ。 波が打ち寄せて砂を攫って行く。海に両足を浸していると、砂と同時に自らの身体さえも攫われて行くかのように感じる事がある。 足を付けていた地面の砂が波の動きに翻弄される、という物理的な現象のみならず、意識さえもが不思議な浮遊感を覚えてしまうのだ。 外部から導かれるのか、内なる何かに突き動かされるのか。それはボンヤリとしか感じ得ないが、波という現象がその引き金になっているのは間違い無いはずだ。 それは平生、俺が普通に地面に立っていても決して知る事の無い感覚であるが、海岸で砂浜に立ち、波に足を浸す度にその浮遊感はやって来る。 フワリとも何もせずにしっかりと地上に立つ時には決して有り得ない事が。 海が「母」に例えられるように、全ての生物は海から誕生した。 初めはごくちっぽけな細胞や微生物でしか無かった者たちが、複雑な進化と何度かの滅びの危機を乗り越えて、彼らは何億何万と言う歳月を重ねて、その繁栄を伸張させていった。 「母」から離れた彼らは陸地に上がり、ようやく独り立ちをしたのである。 海も母であった。そして大地もまた母だった。 限りの無い恵みを産み育て、その子供たちを育てる役目を果たしたのは大地、「彼女」は養母のようなものであろう。 先に「独り立ち」という言葉を使用したが、海の母親である大海から離れての彼ら――我々の祖先たちを育んだのはまさしく大地に他ならない。海という生母からの独立を果たした祖先たちは、大地という第二の母へは寄り掛からずに生きていく事ができない。 この地上に住まう全ての生き物は、海と大地という二人の母によってその誕生と生存を与えられている。 だが、自らの故郷に無条件の愛着を感じ、望郷の願いを無性に発する事があるように、人間は大地に立ち育てられると同時に、海をもまた意識しなければならない。 この地球上におけるあらゆる生命存在の生母であると同時に揺籃であった海。人間はそれを忘れてしまう程、薄情には出来ていないに違いないのではないかと思う。 数億の長きに渡って連綿と受け継がれ続けてきた全ての生物の記憶・記録はまた、次代の生物へと引き継がれていく。いずれ種が滅びを迎えて断絶するまで――それはある日突然訪れるのか、緩やかに進行していくのは判らないが――それらの物は決して途切れる事無く、「母と子」という基点から連続していくはずだ。生母という事は、その体内に子を宿すという事だ。その点において海は、卵であり子宮なのである。羊水で満たされた生物の子宮はきっと、とても古い古い時代の海の再現なのだろう。 連続する記憶・記録は代替わりを繰り返す度に新しく上書きされていく。しかし、その全てに共通しているのはたった一つの「母」から生み出されたという事。あたかも血縁上の繋がりある母の子宮から生まれて来たという事が確固たる事実であるように、これもまた太古に在った一つの事実だ。 そうして、人々が母の子宮にかつて居た事を意識しないように、大地という養母に育まれている我々は、海からの子であるという事実を普段は考えない。 それでも、意識や精神の遥か奥底、自己にも他者にも覗き見る事すらできない非常に古い領域には、確かに海という「母」であり「卵」であり「子宮」から生まれ、それから数えられないほどの代替わりを繰り返してきたという記憶が存在しているような考えを抱いてしまう。 きっとそれは、何世代も受け継がれてきた全生物共通の記憶。 砂浜に立つ。 当然の事ながら、目に入る物、見る物は眼前に存在する広大な海だ。 波が打ち寄せて砂を攫って行く。海に両足を浸していると、砂と同時に自らの身体さえも攫われて行くかのように感じる事がある。 足を付けていた地面の砂が波の動きに翻弄される、という物理的な現象のみならず、意識さえもが不思議な浮遊感を覚えてしまうのだ。 外部から導かれるのか、内なる何かに突き動かされるのか。それはボンヤリとしか感じ得ないが、波という現象がその引き金になっているのは間違い無いはずだ。 それは平生、俺が普通に地面に立っていても決して知る事の無い感覚であるが、海岸で砂浜に立ち、波に足を浸す度にその浮遊感はやって来る。 フワリとも何もせずにしっかりと地上に立つ時には決して有り得ない事が。 それはきっと、遥か昔に生まれ出でた母―――海に対する、不可思議な望郷と憧憬の念の故であるのかもしれない。 ――――――― 「胎児の夢」っぽく書いてみようとしたんだけどやっぱり無理でした。 あと、やっぱり俺は長文が書けない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.07.26 22:48:12
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