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カテゴリ:与太話
ふたりは、かたく、やくそくをかわしました。イワンがいいました。
「もし、ぼくがさきにおよめさんをもらうことになったら、結婚式には、たとえ、きみが死んでいても、きっとよぶからね。」 「ぼくだって、もちろん、そうするよ。」 と、ふたりは、かたいやくそくをかわしたのでした。 ――――――― これは、十年近く前に親戚から譲り受けたとある児童書に収録されている「墓場の友だち」という怪奇譚の一場面である。 著者はロシアの民俗学者アファナーシェフであり、ロシアに伝わる民話や伝説を蒐集した「ロシア民話集」からに収められた一編がこの物語であるという。 少々長くなってしまうが、この物語のあらすじは、こうである。 ――――――― ロシアのある村にイワンとアレクセイという二人の少年が住んでおり、無二の親友同士だった。 やがて二人は、「どちらが先に結婚しても、先に結婚した方は必ずもう一人を結婚式に招待する」という固い約束を取り交わす。 しかし数年後、アレクセイは病み付いて急逝してしまう。 親友を失ったイワンはひどく悲しむが、好きな村娘との結婚が決まり、元気を回復する。 結婚式の日。 イワンは家族と共に馬車に乗った。花嫁を迎えに行くためだ。 その途中、彼は墓場の傍を通りかかったときに、今は亡き親友との約束を思い出す。 彼は馬車を停めると、アレクセイの墓に参って結婚の報告をした。 すると、墓が開き、その中からアレクセイの亡霊が現れたではないか! 亡霊はイワンの結婚を祝う為に墓の中に彼を招待し、二人は酒を酌み交わした。 イワンは、勧められるままにコップで三杯の酒を飲んだのである。 ……彼が墓から地上に戻ってくると、墓場は跡形も無く消え去って、村の様子もすっかり様変わりしている。 何が起こったのか理解できないイワンは、とりあえず教会へ行って神父さんに何があったのかを訊こうとするが、神父さんも、彼の見慣れた老神父ではなく、まだ若い神父だった。 イワンから事情を聞いた神父さんは、とりあえず「教会の倉庫に残っている古い記録を虱潰しに調査してみよう」と提案する。村の代々の様子が載っているはずだからだ。 やがて神父さんは驚くべき記述を発見してイワンに見せる。 曰く、「結婚式の日に花婿が墓場で行方不明になり、いくら探しても見つからない。そのうち“悪魔に連れ去られたのだろう”という事になり、花嫁は別の人と結婚した」と言うのである。 さらに神父さんは、言う。 「いま読んだきろくは、三百年まえに書かれたものです。あなたはお墓の舌で、あなたの友だちの幽霊と、お酒を三ばいのんだといいましたね。そのいっぱいごとに、百年がたっていたのです……。」 ――――――― 異界に足を踏み入れた者が再びもと居た場所に帰ってくると、数百年が経過していた。 一見して判るように、我が国の「浦島太郎」とよく似た物語である。 実はケルト神話においてもよく似た物語が存在しており、その筋は 「海神の娘に誘われて常若の国“ティール・ナ・ノーグ”で享楽の限りを尽くした騎士が故郷に戻ると、自分の所属していた騎士団が既に伝説になっているのを知る。そして禁を破って馬から降りて地に足を付けたとたん、たちまち老人になってしまう」 というものである。 どちらかといえばケルト神話の方が浦島太郎との類似点は多い。 よく知られたように、浦島太郎は玉手箱を開けて中の煙を浴びると老人になってしまう(元々はその後に鶴に変身するという展開が存在したようだが)。ケルト神話でも、禁を破ると老人になってしまう。 さて、では何故「墓場の友だち」において、同じく異界に足を踏み入れたにも関わらず主人公イワンは年老いる事がなかったのだろう? 恐らくそれは、彼が入り込んでしまった場所が、浦島太郎やケルトの物語とは全く別種のものだった事に起因しているのではないだろうか。 浦島太郎は乙姫らの歓待を受けて楽しい時を過ごす。騎士はティール・ナ・ノーグで享楽の限りを尽くす。共通しているのは、そのどちらもが「楽園」だった事である。 一方、イワンが入ったのは楽園ではなく「墓場」なのだ。いくら親友の眠っている場所とはいえ、暗く陰鬱なイメージから免れる事は不可能だ。そしてそこに在るのは、凄まじいまでの「死」のパワーであろう。 イワンは、すなわち「死の世界」に足を踏み入れたのである。 言うまでも無く、生者が死の世界に足を踏み入れる事など不可能だし、本来ならば許される事ではない。しかし、イワンはアレクセイの亡霊に導かれて濃密な死という空気の内部へと入り込んだ。つまりそれは、生者が死者へと転化される……「死する」という事実を暗示しているのではないだろうか? 翻って浦島太郎とケルト神話を考えてみよう。 先にも記したように、この二つの物語の主人公が辿り着いたのは楽園である。 楽園に至る道を歩くのには、死者である必要は無い。生者であっても(容易という訳にはいかないだろうが)可能である。少なくともこの二つの物語においては、「楽園に入る」ということに生死は関係ないのであろう。 二人の主人公は、現実の世界とは時の流れの違う理想郷の中に入り、物語の初めから終わりまで生きていた。 そして、楽園から離れた二人に共通して課せられたのは禁忌である。浦島太郎は「玉手箱」、騎士は「馬から降りるな」。それを破ったとたんに、彼らはたちまち老化してしまう。 この禁忌とは、現実と楽園の境に立って非常に曖昧な存在と化している者を、今しばらく楽園側の世界へと繋ぎ止めようとしているものであるように考えられる。この禁忌を守り続けている限りは、まだ楽園の住人としてかろうじて認められているのだ。 だが、一度禁忌を破ってしまうと、時間の流れの遅い楽園からは追放されるのである。急速な老化という現象は、破戒者が現実を流れる時の流れに再び取り込まれる事を意味しているように思われる。 まさしく「老化」という現象を以って、二人は楽園から現実世界への帰還を完全なる形で果たしたとも言える。 けれども、イワンはどうであったか。 彼に対して、アレクセイは何らの禁忌ももたらす事は無かった。イワンはもはや、生きながらにして死するという奇妙な現象を体験した人間だ。つまり、その本質においては既に「死者」と言う他は無いのではないだろうか。 人間とは本来、有限の存在であるから、いずれ時間の経過と共に死の世界へと赴かなければならない。だが、亡霊の誘いによって死の内部へと突き進んだイワンは、自らも死者と化したのだ。既に死しているものに対しては、幻想と現実の境で繋ぎ止めるための禁忌など必要ではない。何故ならば、決して死者が蘇ることはできないからだ。 ギリシャ神話へと目を転ずれば、オルフェウスは死んだ妻を恋いうるあまりに生者でありながら冥界へと降りている。しかし、それは彼の非凡な音楽の才能によって成功した特例であった。山河木石・山川草木をも感動させる彼の音楽は、冥界を支配するハデス神の心をも動かし、妻たるエウリュディケを特別に地上へと復帰させる許可を得る。 だが、それは「道中、一度も後ろを歩く妻を振り返ってはいけない」という禁忌を課せられた上での事である。結局、彼が禁忌を破ったためにエウリュディケは冥界に戻ってしまう。 これは上記とは矛盾するようだが、自ら死した者と、生きたままに死の世界へと入った者 の違い……とでも考えればいいのだろうか。 いずれこの場合に重要なのは禁忌の存在であろう。禁忌を守っている間は、今だ帰還を企図している者は禁忌を課された側の世界の住人なのである。 そして、死の世界へと入るのは何も人間だけではない。 オーディンはバルドルを蘇らせるために冥府の女王ヘルの元へ自らの息子ヘルモドを派遣しているし、女神イシュタルもまた冥界へと降っている。 彼ら神々が死の世界に入り込んで死に侵食されないのは、ひとえに神々だけが持ち得る「不滅性」に拠る所が大きいとは言えないだろうか。完全に不滅とは言えない場合までも、彼らが持っている頑健さ・存在の普遍さは人間とは比較にならない。 だから、彼らは死者にしか入ることを許されない場所でも死に侵されなかったのだ。 だが、人間は神とは違う。ちっぽけで脆弱な存在である。肉体・精神の不滅性など望むべくも無い。墓場から出てきたイワンはアレクセイに禁忌を課されなかったし、歳をとっている様子も無かった。 それは、彼が人間という有限の存在でありながらも「生きながら死んだ」特殊な死者だからだ 。既に死んでいる彼が歳をとる道理は無い。だからこそ繋ぎ止めるための禁忌を課される事も無かったであろう事は、先にも記した通りだ。 そして、彼がアレクセイの導きによって死者となったそもそもの要因とは何か? 墓に入ったから? それもあるだろう。 しかし、イワンは墓場の中でただ親友の亡霊と再会しただけではない。 彼は、亡霊に勧められるままに「お酒を三ばいのんだ」。 死者が勧める死の世界の酒……生者である限りは決して、口にする事のかなわない酒。 きっと、それこそがイワンを死の世界に引きずり込んだ鎖だったのだ。 あたかも冥界の柘榴を口にしたペルセポネが、ハデス神の妻として冥界の住人となったように――。 イワンはこうして、生きたまま死の世界に囚われて、死者となっていったのだ。 ――――――― 追記 読書会の本を読み終わった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.08.11 00:24:08
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