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カテゴリ:与太話
富士の樹海って死体沢山あるん?
どうなんだろうか、実際。 俺は死体よりも白骨が散乱してるイメージだ。 そういえば稲川淳二の怖い話だったように記憶しているが、かつて怪談を扱ったテレビ番組の収録で富士の樹海に行った際に原因不明の怪奇現象が多発、何とか撮影を終えて東京まで帰って来たものの、番組収録と同時にカメラで撮影していた写真に幽霊のような不気味なモノが大量に写り込み、とても公共の電波に乗せられるような代物ではなかった。 そのため番組自体がお蔵入りに……という話があった。 本当に自殺者が多発しているのか、それとも世間的なイメージが先行しているのかは知らんが、かくも負のイメージが樹海には満ち満ちているらしい。 そのイメージが恐怖の想念と結びついた時にこそ幽霊は“出る”のかもね。 って、まあこの結論だと「幽霊は脳内現象だ」って決め付けてるようなもんだけど。 そうそう、「富士の樹海」で思い出した。 俺の地元である地方都市は海沿いの街で、日本のナントカ百選にも選ばれているとかいないとかの、結構大規模な防砂林がある。 その防砂林の中では市民が楽しめるようにと広場や遊具や東屋が有るんだよ。 それで、問題はその「東屋」だ。 昔、この東屋の梁で首を吊って死んだ人が居るっていう話。 噂程度の話だけど。 それと、これもかつて小耳に挟んだ話なんだが、パチンコ屋のトイレで自殺する人っていうのが結構多いらしいんだ、これが。表沙汰になってないだけで。 いずれも信憑性に関しては何とも言えないけれど。 しかしよく考えてみれば、日本一国だけでも日々たくさんの人々が死んでいる。 その中には「大衆の興味を惹くことはできまじ」とマスコミに判断されて、世間に公表されないまま(=報道されないまま)黙殺されていく者たちが居る。 いや、そうした顧みられぬ死者たちの方が圧倒的に多数なのだ。 病院で天寿を全うする人もいれば、交通事故で若い命を散らす人も居るし、殺人事件に巻き込まれて不本意な形で死ぬ人も居る。もちろん自殺者も。 だから我々が気が付いていないだけで、わざわざ「富士の樹海」というたった一か所に負のイメージを背負わせる必要なんてないのだ。 「死」はまさしくこの世界に満ち満ちていて、今まさに隣人が苦悶に喘ぎながら一生を終えているのかもしれないのだから。 けれども、現代社会は死を厭う。 現代文明は、死を隠蔽したくてたまらない。 平和な時代を安穏と生きるためには、生命の要素に直結するネガティブな存在を少しでも廃さなければならないのだ。だから社会は死を忘れようとする。 しかし、生き物の宿命である以上、やはり死というのは逃れ難い。否、逃れてはならない。死からの逃避は現実世界からの精神的逃避に他ならない。 恐らく、その事実を再認識するために機能しているのが「富士の樹海」に代表される自殺の名所であり、全国に点在する心霊スポットなのではないだろうか。 生のエネルギーに溢れた日常生活とは明らかにかけ離れているそれらの空間は、見る者に絶対的な死のイメージを抱かせる。人の内なる死への想念を一か所に凝縮し、眩い光に照らされることによって巧みに隠蔽された拭いがたい闇を人々に見せつけるのだ。 その無秩序の恐怖を味わうことによって、光の中を生きる人々は秩序づけられた自らの生活を懐かしみ、逆説的に生への愛着を新たにする。 死を忘れかけた社会というのは、病んでいる。 死を忘れかけたが故に病んだ社会には、死を思い出させる事によって健全な形に立ち返らせるためのシステムがどこかに必要になるのである。 だから、「富士の樹海に死体がたくさん転がっている」という話自体の信憑性についてはそれほど問題視される必要はない。 「自殺者がよく行く場所」という、ただ一点のみの知識がこの社会には必要で、そのイメージがあるからこそ現代社会から排斥される死のモチーフが健全に、あるいは些か大袈裟に機能し続けている。 そういった、ある意味での社会全体のガス抜きに使用される場所――それこそが「富士の樹海」であり、種々の心霊スポットなのだと思う。それらの場所についての噂話を我々が取り交わす時、日蔭者だった「死」は俄かに現実味を帯びて立ち現れては呑気な生を謳歌する人々を叱咤する。 そうした生の延長に在る死という事実が現代社会で隠蔽され続ける限り、「富士の樹海」に眠ると思われる死者たちは忘れ去られる事が無いし、また忘れ去られてはならないのだろう。 彼らの存在が人々の意識の片隅からでも完全に消滅してしまった時、そんな時がいずれやって来るとしたら、今度こそ人間は「人間」から「人形」へと成り下がってしまうに違いない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.10.19 18:06:04
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