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tartaros  ―タルタロス―

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こうず2608

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2008.11.17
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カテゴリ:与太話
中学生「なぜ、わざわざ学校で国語を学ばないといけないの?」


谷崎潤一郎「痴人の愛」(新潮文庫)を読み始めたのだが、その中にこんな箇所があった。
国語の話ではないが、相通ずる何かがあるような気がするので引用。

「男の児が中学で幾何や代数を習うのは何の為めか、必ずしも実用に供するのが主眼ではなく、頭脳の働きを緻密にし、錬磨するのが目的ではないか。」(p67)

この「なぜわざわざ学校で国語を……」という質問を、若者によくある権威への反抗(要するに中二病の一側面)と斬って捨ててしまう事は簡単だろうが、こんな質問が飛び出してしまうという、それ自体が日本の国語教育の衰退を表しているのか。
「実用的」か否か、というか、個人的には国語教育というのは国民や民族としてのアイデンティティの問題と少なからず関わっているような気がしてならない。
マキャヴェリが「君主論」の中で「違う文化・慣習を持った国を征服し続けるのは難しい」という旨のことを記していたような記憶があるのだが、日本語に関わらず世界各国の言語には、「その言語を使用している民族を定義する」という重要な役割が備わっているんじゃなかろうか。つまり、その民族は彼らの使用する言語によって、民族固有のアイデンティティを獲得するのだ。そして各国の文化・慣習というものは、その国ごとの母語によって先代から現代、現代から次代へと伝えられていく。民族・国家の文化や慣習の類のそもそもの発生がその民族の使用する言語に拠るのだから、マキャヴェリが言うように、異国の言語による異文化の自国への侵入は、時には激しい拒否反応を引き起こすのかもしれない。
それこそ明治時代以降、西洋の文化が次々と輸入されてくるに連れて、一部で反対の意見が表明される事が度々あったように……?
国家に属する民衆をその国家の成員たらしめる第一の要因が「言語」だとすると、国家における国民の統一性を維持するための国語教育というのはどうしても必要になるに違いない。
太平洋戦争中、日本が統治下の国々で子供たちに国語教育を施して、日本人への同化を図ったことを(ひとまずは左右のイデオロギーは棚上げして)思い出して欲しい。
日本語で読み書きし、日本語で思考し、日本の文化・慣習によく慣れている人々を統治するのは、相も変わらず異国の言語を使用する人々を統治するよりも遥かに簡単だろう(実際はそう単純な話でもないでしょうけど)。
昨今、グローバル化だ何だと叫ばれているが、ネットやら交通網やらの発達で「世界が狭くなった」と称され、故国を違える人々同士が頻繁に交わるようになった現代こそ、日本人を日本人たらしめる国語教育をする必要がある。
もちろん言語というのは時代とともに全く違った姿へと移り変わっていくものだが、国民・民族としてのまとまりを重視するという観点においては、母語がどんな形に変形しようとあまり問題にはならないのだと思う。そこに存在するのはどの国のどの時代にも存在したであろう世代間対立だが、「国家の統一性維持のための国語教育」というのは多分に近代的な考え方のような気がする。いわゆる「国民国家」というモデルが登場したのはフランス革命以降だったか?
だとすると(いつの時代でも構わないのだが)、それ以前の時代には、いったい人々は何を考えて言葉を学んでいたのであろうか? 少なくとも国家の成員として当然あるべき国語教育を施すという考え方が或る時代を境にして誕生し、それが現代まで続いているのだとすると、それ以前を生きた人々は「民族」はともかくとして「国民」を定義づけるアイデンティティとしての役割を言語・国語に見出さなかったことになる。そもそも自分たちは一国家に属する国民だという意識が未だ存在していなかったのだから。
江戸時代の日本は世界でもトップクラスの識字率の高さだったというが、それはあくまで「実用的」知識であって、「国民としての誇りが」云々という堅苦しいことを当時の人間が考えていたのかどうかは甚だ疑問ではある。
一方、ヨーロッパでは話し言葉は各地の現地語、書き言葉がラテン語という奇態を呈していたため、一般民衆はおろか上流階級の人々でも、それどころか聖職者(ただし下級の人々)ですら識字率が低かったという。これは宗教的権威が幅を利かせていた時代の話だが、言語に対してアイデンティティの創出という役割を見出していなかったのだとすると、わざわざ異言語を学ばなければものが書けなかったという事実はやはり見過ごせないような気がする。
そして再び近代へと目を転ずると、フィンランドがロシアへの抵抗にあたって大きなエネルギーを得たのはは国民的文学である「カレワラ」であったのだという。言うまでもなく文学はその国の言語によって編まれる芸術作品だ。
「国民国家」の概念が誕生する以前においてはその限りではないが、そうした概念が定着した時代にあって言語・国語の教育は、やはり国民を国民たらしめるうえで大きな要素を占めているのだとも思う。













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あー、でもまあ。
俺みたいに余計なことゴチャゴチャ考えんでも、ちゃんと国語も勉強しとかないと、ムカつく教師に↑みたいなこと言われなかねないよという事にしておいてください(笑)







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Last updated  2008.11.17 23:22:59
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