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tartaros  ―タルタロス―

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2009.01.01
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カテゴリ:与太話
08年度朝日賞、水木しげる氏ら4氏に決まる



ランプやあんどんんのあたたかな光を包む闇には、妖怪の気配がひそむ奥行きがある。
「だけど今の日本はドライな電気の光だらけ。妖怪を死滅させているんですよ」
 自然に包まれた時、あるいは共同体に伝わる古いものや習俗にふれた時に感じる、畏怖と親しみの混じった何か奇妙なもの」。それを伝えることが「祖先の意思であり、妖怪のメッセージ」という。

(※朝日新聞本紙に掲載された、水木しげる氏のインタビューより引用)






 御代の言葉を信じるなら現在に流布している「妖怪」観は、かつての、それこそ共同体内部の習俗であるとか自然の畏敬とか、そういう一切を抜きにした状態において成立していると言うことができるだろう。
 行燈による灯火、ランプによる明かり。それらは人間の手によって造り出された能動的な炎である。見える範囲の限定という条件付けの中にこそ、昔日の人間たちは闇の中に何が有るか、何者が居るのかという事に精一杯の想像力と恐怖を働かせて時には妖怪の姿を想像した。それらの明かりは人間の思考を妨げないものであり、人間が知りうる限りにおいての世界と未だ見えない未知の暗闇との間に見えない「壁」のような境界を与える、どこか秩序めいたものであった。
 だが、時代に下るに連れてどうであろう。現代の都市という空間は?
 それはただひたすらに利便性を追求した結果であり、旧時代の無知蒙昧と暗闇を理性の光によって照らさんとする目論見が次々と結実した姿である。街を歩けばあちこちに光り輝く派手で華美な電気に拠る明々とした光、光、光! 未だ暗闇に囚われていた世界を、物理的にも精神的にも照らそうとする試みの結果は、しかし同時に人間と闇との間に無秩序をももたらしたと言える。かつて弱々しい素朴な光に守られて、人々は自らの周辺をよくよく見まわした。そうして闇の中に何某かの、認識の埒外に立ったものを感じた。人間にとって視認できない暗黒の内部は不可知の領域に他ならず、だからこそ持てる限りの想像力を発揮した解釈が必要だったのだ。そこにあるには自分達の力の及ばぬ存在に対する恐怖と畏敬だったのだ。暗闇の存在において、恐怖と畏敬は不可分だった。けれども人工的な電気の光は、かつて照らされることの無かった人間の知らない領域までをも暴き出し、闇の中には「何も無い」という真実をあからさまに白日の下に、あるいは闇を消滅させる眩いばかりの人工の光の内部に現出させてしまったのである。
 そのようなあまりにも明るすぎる時代では、伝統的な形の「妖怪」はまさしく死滅していく。ところが、いくら科学が発達しても人間が闇の中に恐怖を見出してしまうように、「妖怪」それ自体は決して完全に滅亡することは有り得ない。「妖怪」そのものを含めた「怪異」という一カテゴリーはまだまだ命脈を保つに違いない。
 妖怪の存在は、行燈やランプの光では見通すことの出来ない暗闇の内部について、決して入り込むことの出来ない外部の存在である外部の存在である人間が唯一成し得る行為に拠るところが大きいのではないだろうか。すなわち、人々は暗闇を「解釈」するのである。見えないことは一種の不条理であり、解らないならば解らないなりに考えをはたらかせ続けるしか出来ることは無い。暗闇の不条理は依然として不条理ではあったが、妖怪という具体的で明確な定義づけを与えられることで幾分かは薄らいでいく。
 相も変わらず夜は暗いし見えもしない。だが、妖怪という姿に自らの解釈を仮託・投影することで、人々は入り込めない暗闇の世界を覗き見るくらいは行うことが出来たのだ……かつては。
 暗闇の不条理を条理へと変換する作業に、現代の人々は昔ほど頭を悩ます(=想像力を使う)必要は無くなった。わざわざ先の見えない闇の中を凝視しなくとも、街灯が、懐中電灯が、コンビニの明かりが、ネオンサインが。ありとあらゆる科学と技術の結婚によって生まれた子供たちが、我々人間の代わりに働いてくれるのだ。これほどラクなことは無い。同時に、それは古い時代を生きてきた妖怪達の衰退を招く事態でもあった。誰が今や暗闇の先にいる恐ろしくも、時には愛嬌すら湛えた妖怪を認め得よう―――だが、伝統的な妖怪が否定される一方で、迷信に支配された迷妄の時代を暗闇ごと駆逐・消滅せしめたハズの現代社会において、都市的な不条理に基づく怪異は新たに量産され続けている。
 水木しげる御代の仰る妖怪のメッセージとは、少々ネガティブな考え方をすれば地縁・血縁で結び付けられた伝統的な古い共同体の内部でしか誕生しないし、受け継がれない。たびたびニュースとなるのを見ることがあるだろう、都市のど真ん中での孤独死事件を。時には死者の隣室に住む住人でさえその死には気が付かず、何年も経過してから骨と化した遺体が発見されることもある。哀しい。確かに哀しい。しかし、これは少々極端な例かもしれないとはいえど、現代的な都市における人間関係の緩さ・希薄さをよくよく浮き彫りにしかねないと言えるのではないだろうか。怪異の発生とは、禁忌・タブーに基づくことがある。共同体内部での禁忌を破った・犯した者に科せられる一種の罰である。共同体の平和を保ち、無用の騒乱を起こさないための、それが先祖伝来の知恵であった。
 だが、現代の都市は各方面から集まった多種多様の人々で構成されている(とりわけ、日本は歴史上そうした傾向が強いともいう)。知らぬ者・初めて会う者同士であるが故に言うまでも無く共同体的な意識は希薄であり、良くも悪くも過干渉気味な田舎の空気は皆無なのだ。そのような場所にあるのはウルサくすると近所迷惑になりますから静かにしましょう、とか、ゴミは決められた日にキチンと出しましょうなどといった、最低限の秩序を守るための極めて現実的な決まりごとである。破ったからとても抗議を受けるくらい。何ぞ怪異の受け皿とは成りそうも無い。
 そして突き詰めていけば、すべて怪異なるモノには因果関係が付きまとう。「禁忌を破ったから」怪異に見舞われるのであり、「人を殺したから」恨みを抱いた幽霊に悩まされる羽目になる。それが伝統的な「妖怪」観の紛れも無い一側面であり、いわば彼ら人工の光に侵犯されるより以前の時代を生きた闇の世界の住人達とは、恐怖と畏怖を以って共同体の道徳を守護する存在でもあったのだ。だが、既に述べたように、現代的な都市のような地縁も血縁も無い人間関係の希薄な場所では、破れば怪異に遭遇するような禁忌の類は生まれ難い。
 そうした場所に生まれる怪異の形とは、「不条理」である。電気の光によって照らされて一度は消滅したはずの「不条理」は、実に奇妙なことだが、現代の都市の中に再生してしまったのである。共同体意識の希薄な場所で、人間は、帰属する社会の存在を漠然と意識しながらも、基本的には人間関係の希薄な個人として生きるしかない。そのような人間に対しては共同体内部の秩序を維持するための禁忌は意味を成さない(人殺しは個人的な行為である場合が多いので、現代でも幽霊の恐怖は生きている)。具体的な境界線の規定を失った恐怖という存在は、やがて「誰でも良いのだ」という、通り魔的な性質へと変貌していく。むしろ、具体的な発生条件である禁忌・タブーの存在が失われてしまったが故に、行き場を失った妖怪達はあちこち好き勝手に跋扈するようになったし、誰も彼も見境無く襲い掛かるようになった。
 かつて「○○という行為をしたから××が起きた」と、明確に因果関係の定義が在った怪異の発生は今や場所を選ばずに起こるようになった。暗闇を破壊するために無秩序化した人工的な電気の光の下、誰をも選ぶこと無しに怪異は襲い掛かる。もはや人間が想像力を使って暗闇を解釈する必要がなくなった以上、電灯に照らされた夜道を誰はばかること無しに現代の「妖怪」たちは闊歩しているのである。
 「不条理」的な怪異の恐ろしさとは理由も解らない(判らない)ままにこちらにやって来る、あるいは怪異の姿そのものが余りにも不可解に過ぎて理解不能、そうした二つの要素に拠る部分が大きいのではないかと思われる。そうした、いわば途中で理解も解釈も不可能なぶつ切りの状態に置かれた思考が覚える恐怖とは、昔ながらの伝統的な恐怖とも畏怖とも違う。
 そして、それらの感情を喚起する怪異、そして「妖怪」も、昔とは違った姿形になっている。誰でも良いからと通行人に襲い掛かる通り魔は恐ろしい。同じように、「不条理」という破壊されたはずの外衣を身に纏って無差別な襲撃を繰り返す現代の「妖怪」たちもまた、ご先祖様たちが生きた時代とは様相を異にしているのである。








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Last updated  2009.01.02 19:04:36
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