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カテゴリ:与太話
完全に主観・宗教と日本人
Hatenaの方でシコシコ書いてた記事が数日前に完成したので。 ちゅーか、長過ぎだ(当社比)。個人的な思い出話から始めてるせいもあるんだろうけど。 そして果てしも無くズレる論点。 しかし、大多数の日本人の「宗教」と「カルト」をイコールで結ぶ思考は一体どの辺りに由来しているというのか。やはり最大の原因はオウム真理教の存在なのだろうが、記事を書き終わって改めて考えてみると科学技術の発展に一端の理由があるような気がするという思いにも駆られる。 「宗教」か、それとも「科学」か――というのは、この相反する二者が世界をどのように視て解釈するかの対立だと俺は考えた。 一つの例え話をしてみよう。ある自然災害が毎年発生していたとする。それは非常に大規模で、人間が持つ知識や技術ではどうにも防ぎようが無いものだった。そこで、人間たちは人知を超えた何らかの神意に拠る現象がその自然災害であると「宗教」に頼った解釈を行い、神を鎮める祭儀を行っていた。けれども科学技術の発展は、その災害の原因を非常に合理的に解き明かして、さらには鎮めもしてしまった。こうなると、もはや宗教の出る幕は無い。次第に信仰は忘れ去られていく。 これは幾分か原始宗教的というか土着宗教的な例えだと思うが、要するに、科学技術の発展は人間のそれまで保有していた、世界への宗教的解釈の中に存在する「畏れ」の感情を衰退させたのだ。つまり宗教の役割は、今や周辺現象への解釈ではなく人間の内面に関する問題を引き受ける事だ……と考える事もできる。人間の内面に不安を生じさせる原因の一つは、紛れも無く外界で発生する現象への恐れであろう。かつてならば神様を信じて必死に祈るしかなかった訳だが、現代は科学が神様を信じる代わりに疑問を解決して不安の解消に一役買っている。そもそも「畏れ」る必要が無くなってしまったのだ。 そうして、「科学があるのに神様なんかを信じている奴らはバカだぜ」という気運が生まれて来る。けれども彼らの中には今もなお科学では解決しきれないメンタル面の苦悩が存在しているのであって、今度はそれを解決するために超自然的な存在への求めが残存する。この二者が併存しているのが現代の日本人の大多数を占める「無宗教」な人々の考えではないか、と勝手に俺は思っている訳である(そのうえ生活文化と分かち難く結びついている宗教発祥の行事は切り捨てられる事はない。これも俗化の所以だろうか……)。 すなわち、時代遅れになりかけてしまった神様・宗教を熱狂的に信仰する人々への異質感ゆえの恐れが宗教への恐れの入口である。そして、宗教が時として持つその破壊的な側面を最も醜悪な形でこの国に顕現させているのが所謂「カルト」と称される連中であり、彼らこそが持つ異質感が宗教一般に対するものへと誤解され変質したのが、日本人の宗教アレルギーの根本原因だというのが、今現在の俺の結論である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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