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カテゴリ:与太話
かつてのヨーロッパ人が志向していた「ユートピア」像が現代的な観点からすると共産主義的な「ディストピア」にしか映らないのは、やはり人権という概念そのものが未発達な時代の思想だったからなのだろうか。
人間的な衝動とは、それを野放しにすると共同体の秩序崩壊に繋がりかねない場合が多々ある。社会というのはヒトの衝動を理性で抑え込むことに拠って成立する面がある。そして、より衝動を抑え込んで理性に基づく共同体を建設することは、万人が平等な、不気味すぎるほど秩序だった世界が出来上がる事である。 衝動における理性の勝利への全幅の信頼とは、それが共同体の内部で許される限り個人の共同体への奉仕を規範として設定しかねない。社会に属するということは衝動の抑制を義務付けられる事であり、また生産活動に従事するという事でもあるからだ。むろん、現代でも「勤労・教育・納税」が日本国民の三大義務として掲げられているように、社会への奉仕という点の重要性では何も変わっていない。 けれども、それは近代的な「人権」という概念と対を成すものでなければならず、完全なる理性の勝利に基づく共同体への奉仕とは、個人の権利を容易く奪い去る危険をも孕んでいる。それこそ、労働や生産活動に協力できない病人の安楽死が許容されてしまう社会だ。 そうした社会では個人の権利なる衝動こそは悪であり、無条件の奉仕こそが善となる。労働のための労働、生産のための生産、維持のための維持、国家のための国家。 全体主義に支配された、ユートピアという名のディストピアだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.06.10 18:16:16
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