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カテゴリ:与太話
かつて特権階級市民に課せられた兵役の義務が同時に権利たり得たのは、それを持つ者が国政の参加者と同義であったからだろうか。だからこそ祖国防衛の意志というものを持ち易かった。言うなれば、共同体への強い帰属意識がなさしめる現象である。共同体を成員の共有財産と捉えるのであれば、それを守るために、あるいはさらなる発展がために血を流す事すらも厭わなかったに違いない。 しかし、これが最上位に王を戴く場合はこうはいかない。そうした国家は「統治者の国家」でしかない。国民が真に自らの生命を投げ打っても良いと思うには、それが「国民の国家」であらねばならない。自分たちが、本当に同じ国に属しているのだという有形無形の連帯こそが「愛国心」における一側面であり、かつまた前提でもある。 けれども現代的な国家では、ことはそう単純ではないというのは言うまでも無かろう。かつての都市国家における参政権を有する市民の意識が兵役を肯定したのは、ひとえに政治参加の自覚と自負があったからではないだろうか。共同体という存在を成立させるには成員である各々が、自分たちこそがそれを創り上げているという信仰にも似た意識が根底に存在していなければならない。全ての人々が共同体より下賜される兵役という現象を受容するための意識的基盤を精神の内に整備するには、そもそも政治参加の自負という信仰のうえでの手段が必要で……云々。 単純化してしまえば……都市国家のような小規模な共同体に比べると、現代を生きる我々が共有している「国家」と言う場所は、あまりにも茫漠とし過ぎて実体が見え辛くなっているのではないだろうか。都市国家への愛国心とは、その面積の小ささ故に愛郷心とも重なるところがあるように思う。だからこそ自覚しつつも故郷がある一つの故郷たることが見えていた。けれども、多くの面積を包含する現代の国家は、言語・政策・インフラ・マスコミなど、多様な仕掛けを打ち出しつつ有形無形のうちに一個の国であるということをアピールし続けなければならず…………云々。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.06.25 23:58:20
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