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カテゴリ:与太話
俺が通っている自動車学校の途中の道には、S精神病院が立っている。
地域においては、ガキ共の間で「お前、S病院で診てもらえよ!」などという悪辣な冗談にも使われるくらいには、有名な所である。爾来、精神病院という存在、精神病者、精神病というのは排斥される傾向にあるらしい。今日のような精神病院が整備されるより以前、精神病者などというのは一族の恥・一家の恥・地域の恥と考えられていたようだし、一度瘋癲病院に入れられると一生、出ては来られないものだったようだ。経済力のある家庭は家屋に設えた座敷牢に幽閉するという手段も存在したそうだが、いずれ常態の道を生きる人々にとって、突如として狂気に捕まった者は理解不能の恐ろしい獣と同然であったかもしれない。 ハンセン病者の隔離政策もそうだが、どうしても解決できない問題に対しては「臭い物に蓋」的な対応しかできないというのが現実なのだろう。 俺の実家には、ハンセン病の項目に「国が隔離政策を実施していますので問題はありません」などと平気の平左で記載されている古い“家庭の医学”が未だに残っていたりするが、こういう常識が未だに罷り通っていた時代の上を先人たちが苦悩と共に歩んできたのかと思うと、別に感動もしないし涙も出ないけれどもただただ凄いなァと思わざるを得ない。 そんな、とても素晴らしい理想郷に住んでいると思い込んでいる我々「常人」にとって、殊更に遠ざけようとする対象とは常に狂気に満ち、薄汚れ、制御し難い情欲を常にたぎらせた異形の怪物じみた存在でなければならないのかもしれない。少なくとも人里はなれた郊外の山中にポツリと、まるでそうしなければ害悪の飛散を防げぬといった風情でもって建てられている隔離施設――そんなイメージが、少なからず思考の片隅には、“彼ら”を思い起こすときには共に迫ってくる。 何故ならば、自称・健常者である我々にとっての“彼ら”とは常にマイナスの存在でなければならないから。遠ざけるだけの根拠が必要なのだし、同時に我々を我々として認め得るための保障が欲しいから。そして、“彼ら”は我々の手の届く範囲に居てはならない。道を歩くだけで狂気と恐怖を撒き散らし、平穏さの片隅を侵犯する“彼ら”は、いつでも「遠くて近いどこか」というおぼろげな場所に押し留められていなければならないのである。 だからこそ「精神病院から患者が逃げ出した」「精神病患者は黄色い救急車が迎えに来る」という、よく解らないエピソードが生まれてくる。 狂気と、不幸にして狂気に捕まった人々というのは、それだけ見るならば単なる現象に過ぎない。 だが、私たちは彼らを恐れるためにあえて「悲劇」譚というエピソードに仕立て上げてしまう。語られ得るためには単なる情報では足りないのだ。ただもう一歩、情念を揺り動かす だけの力を獲得するには、それに強烈な属性を付与しなければならない。 それがたとえ欺瞞性に満ちたものでしかなかったとしても……大丈夫、人間社会というものは、内側の安定を維持するためにはどんな努力も惜しまない。排斥も軽蔑も嘲弄も、ありとあらゆる手段が言外に正当化される可能性がある。 ただ、もっとも厄介なのは、それを住人達が気付かないことだ。ただに無邪気な悪意という矛盾した状態の連続こそが、もしかしたらこの平穏を維持し続けるひとつの要素なのかもしれない。
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