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カテゴリ:与太話
それは「憎悪」ではなく「無関心」であると言った人があった。
確かに何らの繋がりも存在しない状態であるよりは、憎しみに満ちた劣悪な関係性でしかなかったとしても、枯れ木も山の賑わい的な怪我の功名と成り得る事もあるだろう。 しかし、時に集団化された「憎悪」は、「無関心」をすら突き抜けて「狂気」の領域へと入り込んでしまうのではないだろうか。 とりわけ集団の内部において“善き人”であるためには、彼らが求める規範や倫理に則った行動を続けなければならない。たとえそれが傍目には暴挙としか映じる事が無かったとしても、意識下では確かに彼らの精神が生み出した「理性」の産物なのである。 果たして集団化された「憎悪」が「狂気」へと変じるのに比べ、「無関心」はただひたすらに後味の悪さのみが息を潜め続ける。一瞬の爆発か、疼きを伴う積年の古傷か。いずれどちらを選択しても、ろくな事にはなるまいが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.08.24 22:26:26
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