|
テーマ:鬱病(2269)
カテゴリ:お仕事
先日の30日,私は教員生活21年の幕を閉じました。 辞令交付式(転退職者)では,退職者については一人一人辞令が手渡されます。会場には知り合いの先生が多く,私の退職にびっくりしていた方も多くいました。多くの方と握手をし,私は「これからの教育界を頼むね」なんて大きなことを言って別れを告げました。 夜は学校の送別会でした。私は今の学校に来てわずか1ヵ月あまりで急性鬱状態。復職を果たすも再休職,2年間の在籍で通算5ヵ月あまりの勤務に終わりました。職場って”苦楽をともにする”場だと思っていましたので,皆さんがどんな反応を示すかちょっと不安でしたが,ほんと,細かいことを覚えていてくれて,「あんな時にこう言ってくれた」とか「あの子にこんなアドバイスをしたらこんな風に変わっていったよね」とか,結構覚えていてくれました。まあ,お世辞でも「一緒の学年を組みたかった」なんて言ってくれたりして別れを惜しんでくださいました。私は,挨拶の中で,「第1の人生はただひたすら突っ走ってきた。これから始まる第2の人生は,まだ決まっていないけれど鬱を経験したからこそやれることをしてみたい。そして,私には第3の人生(いわゆる第2の人生)までも神様は与えてくれた,と思っている」と述べました。
-こうやって書いているのは,後でこの日記を見た時に,あのときこんなことを考えていたんだ,っていうのを忘れないために記録しています。-読んだ方は,何を自慢して知るんだ,なんて思っているかもしれませんが,今日は自分のための記録として書いています。
わずかな日々を過ごした今の職場でのお別れ会,接する時間は短かったけれど,みんなで盛り上げてくれました。これには感謝感謝……。願わくば鬱を克服して,(こんなに長く鬱で休んでいる人は周囲にはいないらしい)私が休職後もつとめはできるんだぞ,って先陣を切りたかった夢は果たせなかったけれど,これからは,将来管理職になりそうな偉くなりそうな人たちに,是非ともわが県でも(鬱だけじゃなくても)復職プログラム制度を導入してくれ,と言い続けることが私の使命かな,なんてことを思っています。他の都道府県では導入されている復職プログラム,わが県ではなし。この後進状態を打破していければ,いいと思います。まあ,早速何人か捕まえて,その話をしましたが。
で,私は1次会で帰ってきました。ほんとは楽しかったので2次会にとも思ったのですが,やはり次の日鬱鬱に落ちたくありませんでしたから。 そういえば,退職辞令をもらう前の日,朝,ベッドの中で妻が涙。そのわけは「私が海外駐在に行くために辞めることになっていまい,申し訳ない」と。いえいえ,私は第3の人生までもらえた男。こんな私の所に嫁に来てくれたことに,まず感謝している」と答えました。 退職を決意した時。私の恩師(とは言ってもこの間退職したばかりの先輩)からはじめて「○○ちゃん(私のこと)は,教職が天職なんだよな」と言われました。いつも仕事で怒られてばかりで,常に高い目標を与えられ,でも,よ~く面倒を見てくれてきた方から,最大の讃辞の言葉を戴き,その方に相談をしながら,今回退職ができたことは,ある意味幸せだったかもしれません。私はその方に見出されて,特別な研修,海外派遣,県の仕事などを任されてきました。もともといわゆる教員の世界で言えば,私は”外様(とざま)”でした。しがない一教員だった私に,いろんな経験をさせてくれました。私もそれに応えようとしてきました。荒れた中学校へ配属したのも,そこで修行してこい,との仰せ。いわゆる私は”教員バカ”だったのですが,それが生きがいでもありました。その方から,はじめて最大の讃辞をもらいました。鞄持ちをして,なんの力もない先輩教員が偉くなっていくのを見ていて,(もしポストを与えられたら)絶対に改革して,そんな奴をえらくなんかできない組織を作ってやる。と思っていました。
でも,今は肩の荷が下りた感じです。 さあ,今日から第2の人生の出発です。まだ,目標や夢はありません。ああ,まずは鬱から回復することかな。今の私には帰れる港=妻がいますので,安心して出航できそうです。
本日は絵文字もない,淡々とした日記をここまでお読みくださりましてありがとうございました お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[お仕事] カテゴリの最新記事
|
|