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カテゴリ:社会
街角で自転車が倒れて往来の邪魔になっていたら、持ち上げて元に戻しますか?
それともそのまま跨いで通り過ぎますか? 私はなるべく戻したいとは思っているのですが、その行動に踏み切れない事が多々あります。 それは多分他の人と同様なのではと思います。 そしてその理由も同じく『人目が気になる』からなのではないでしょうか。 善を行うことを否定する人はいないでしょう。 が、その行動を善と知っていてあえて人前でする人がいれば、『なんだこいつ』と思ってしまうわけです。 私も自転車のサドルを片手に持つ時、ふと周りの視線がなります気になります。 そしてそれ以上に、『自分がなぜそういう行動に出ているのか』が気がかりです。 『自分が善を行おうとしているのは、人から良く思われたいからであって、純粋な動機によるものでないのでは?』と考えると、途端に自分がやっていることが情けなく思えてきてしまいます。 『偽善者は町のにぎやかなところで大声で神に祈りを捧げ、本当の善人は家の奥でひそやかに祈りを捧げる。』のような内容をイエス・キリストが言ったらしいですが、まさにそれです。 こういうことを本気で悩める時点で私はすでに善人なのか、それとも自分が偽善者であるのを隠す為にこういうことを考えているふりをしているだけなのか。 善人でありたいと思うだけでそれはすでに偽善者なのか。 ここまでくると堂堂巡りでわけがわからなくなってきます。 ただ、例えば小さな子供がお母さんに誉められたいから普段やらない部屋の片づけをしたとすれば、これは実にほほえましいですよね。 ところがその子供が大きくなって中学生にでもなってくれば、片付けなんて当然のことです。 社会人にもなって、会社の自分の机が無意味に汚ければ怒られる(のかな・・・・)。 こう考えると、周りの視線が気になるというのは、実は、当たり前の事が出来ていない大人たちが互いに牽制しあっているだけなのではないでしょうか。 『そんなことしないのが当然になりつつあるのに、どうしてそんなことを今更ぶり返すんだ・・・・』と。 (『大人』という表現を使ったことをお許し下さい。) そういった『当然のハードル』というのを上げていかなければ、あらゆるモラルは下がっていく一方なのではないかと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006/04/05 08:37:39 PM
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