古い日記のメモから、思わず、すごい人間ドラマとメロディを想起した”モンテンルパの夜はふけて”でした。
渡辺はまこ女史は、歌手ながらすごい勇気のある女性です。感動して当時のことを調べさせて頂きました。
戦後7年、サンフランシスコ条約締結1年後、A級戦犯も免責されむとしてる、1952年(昭和27)1月のこと。渡辺はま子は、来日したフィリッピン国会議員、ピオデュランより、衝撃的事実を知らされました。モンテンルパ市、ニュービリオット刑務所に多数の元日軍兵士が収監されていて、14人が処刑されたという。そして後の者は、処刑をまつだけだということを。
はま子は、銀座の鳩居堂から香をニュービリオット刑務所宛てに送った。
1952年(昭和27年)6月、鎌倉の渡辺はま子の自宅に一通の封書が届いた。
その中には、楽譜と短い手紙がはいっていた。
楽譜の題名は、「モンテンルパの歌」作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康。作詞はB級戦犯・元憲兵大尉。作曲はB級戦犯・元陸軍大尉の経歴だった。
封書を受け取った渡辺はま子は、早速ビクターレコードに持っていきほとんど無修正で吹き込んでもらった。題名には色付けされて「ああモンテンルパの夜は更けて」の誕生である。2人の死刑囚と収監された111名の日本兵の望郷の念をこめた曲だった。
渡辺はま子と宇津美清の歌ったレコードは、20万枚のヒット曲となった。
同年12月25日。渡辺はま子は、ニュービリビット刑務所を訪問した。国交のないフィリッピン政府に戦犯訪問の渡航嘆願続けて半年の事でした。
渡辺はまこ来訪時、開演前対面した代田銀太郎、伊藤正康は丁寧に礼を述べている。
慰問のステージは、蘇州夜曲・往年のヒット曲などを歌い、後半に「ああモンテンルパの夜は更けて」を披露した。一同は、死刑執行された戦犯のことを思い、又ある者は日本への望郷の思いに、皆感極まって涙し、最後は大合唱した。作詞の代田、作曲の伊藤も涙を流していた。
その後、この歌を収めたオルゴールのをもって、昭和24年から戦犯死刑囚教誨師として日本政府の命で派遣され、「モンエンルパの父」と慕われいろいろ、尽力された加賀尾秀忍真言宗僧侶が、時のフィリッピン共和国エルピディオ・キリノ大統領に面会がやっと許されました。
この曲を聴いた大統領は、「この曲はなにかね」と聞きました。
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最終更新日
2020年04月29日 17時35分20秒
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