伯耆民談記より
慶長5年の秋、石田治部少輔三成に輿し羽衣石滅亡に及びしにより、元清も倉吉に居住し難く、再び漂白流浪の身となり、夫婦に7歳の子息、家来1両人を召し連れ倉吉を忍び出でぬ。
梅翁山曹源寺は先祖の族縁あるにより此の寺に滞留したり。
元清の最後
元清此の寺に滞留せるなか、内室ふと病悩に罹りけるが、医薬効験しなく、遂に此の寺にて亡命ぬ。その墓所は寺より下なる山の谷にありて、今に石塔ありと言えり。
明くる慶長6年の春、元清一子亀若丸を伴いて、當寺を立出て、潜かに上方へと志し、作州に入り大町村に旅宿しけるに、亭主夫婦大いに労り其の風情浅からずして、元清の氏名を尋ねける故、我は伯州岩倉の城主たりし小鴨左衛門尉元清なりとて、事の始終を包まず物語りければ、夫婦は涙を流し容を改めて拝復して申す様、某も元は伯州の生まれにてしかも御領分の百姓なりしが、永禄の乱に居村を退転して、今此の里に住し僅かに身命をつなぐまでなり。
幸いに御宿を仕る事の有り難さよとて、種々に馳走しけるが、殿様の御在所安堵あらんまでは、若君を我等夫婦預かり御養育仕るべしとて、懇ろに申せしかば、元清大いに喜び、亀若を預け置き、其身は大町村を立ち出で、同国才原村に止宿せり。
然るに此の宿の亭主心善しからぬ者にて、つくづく思うよう、此の人の容顔言語、尋常の人に非ず、必ず伯州崩れの貴人なるべし。然らば帯するところの腰のもの丈にても、さぞ効果ならん。又、金銀の蓄えも有るべし、奪いとらばやと悪心を発し、密かに隣家の者と計り近郷に忍び居る強盗山賊を招き、夜更け人静まりて左衛門尉主従の寝所へ忍び入り、熟睡を窺い先ず主従の腰の物を奪う。
元清主従目を覚まし起き上がらんとする所を、強盗ども左右前後より一度に切りつけ、追に此処にて空しく亡命せり。浅ましかりし身の果てなり。
その怨念残りしにや件の亭主隣家山賊の者共、間もなく病み悩み、子孫跡方もなく耐えはてたりとかや。しかのみならず、元清横死の後、其の祟りにや一村人馬病悩奇怪の事共多いかりける故、村老とも是を恐れ、彼の霊を慰んとて才原村に新八幡の小社を建て尊崇したりけるが、其れより病悩の憂いもなく事に霊験あらたにして、今に祭礼おこたらずという。
小鴨元清は、上才原で強盗により、差後をとげた
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最終更新日
2021年02月24日 23時45分55秒
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