議論にならない反論
「だったらどうしたら良かったんですか?」 という質問が、FH司祭の事件に対する京都教区の対応の過ちに対する批判への質問として投げかけられることがあるようですね。全く議論にならない反論です。私が見ている範囲では、「糾す会」やその他の方々が問題にしているのは、事件そのものとそれに対する京都教区の対応ではないでしょうか。「だったらどうしたら良かったのか」ということを考えることは、過去の事実に対して、それぞれに過ちを認めていくこと以外にあり得ないのではないでしょうか。 時間は遡りことが出来ません。1983年頃からFH司祭によって行われていた準強制わいせつは事実なのです。過去の事実を変えることは出来ません。そして、M主教はいったんはFH司祭に対して、退職願を書かせました。依願退職です。このときにどうすれば良かったのかということは、この問題を考える上では大事なことですが、それは日本聖公会法憲法規にしっかりと記されています。規則にも慣例にもなければ、問題は別ですが、法憲法規という規定があるのですから、それを守れば良かっただけのことです。それ以外の方法はあり得ません。 事件は子供の喧嘩じゃないのです。日本国の刑法に明らかに違反した行為が行われていたのです。何とか丸く収めようとすること自体、被害者に対する決定的は二次加害になりかねません。しかし、一旦決定した退職決定した常置委員会は、なんと加害者であるFH司祭が同席している場でこの審議を行っていたのですよね。そして、一旦退職願を出したFH司祭の「事実無根」だけを受け入れて、FH司祭を復職させてしまったのです。これには、K司祭も関与していました。それは、裁判記録からも明らかなことです。 こうした一連の流れを被害者とそのご家族は問題にしていらっしゃるのですから、「どうしたら良かったのか」ではなく、これからどうしたらいいのかを考えなければならないのではないでしょうか。「どうしたら良かったのだ」という強硬な「反論」は、反論ではなく京都教区の言動や行為の正当性を主張しているとしか思えません。問題になっているのは、過去の事実であり、時間は戻すことが出来ないということが前提になっているのではないでしょうか。 そして、「どうしたら良かったのだ」と言う質問は、間違いなく無責任な発想であり、非常に権威的な視点からの「質問」でしかありません。 反論にもなりません。2001年4月6日と7日の二日間にわたって行われた日本聖公会京都教区の常置委員会の決定に重大な過ちがあるのですが、この時点にことを戻すことは出来ないのです。2001年から今までの時間を消すことは出来ないのです。日本聖公会の聖職者たちは、こんな簡単なことを理解できないのでしょうか。私が知る範囲では、「糾す会」が問題にしているのは、このときの流れの中で起こってきたことなのです。被害者は地裁の公判と高裁の公判で、自らFH司祭の行状を口にされたのです。女性にとって、これ程つらいことはないのではないでしょうか。 FH司祭による準強制わいせつ行為、そしてそれを一旦は認めておきながら、10日後の常置委員会では、加害者の「事実無根」だけを受け入れてFH司祭を復職させたのです。 被害者とそのご家族は、この過ちをはっきりさせたくて、二つの要望を出されているのではないでしょうか。 1.M主教とK司祭は、速やかに教育関係の仕事から離れること。 2.退職撤回を決めた常置委員会の内容を、詳しく文書で知らせること。 これを和解の条件とされているのではないでしょうか。当然のことではないですか?一般社会では、この二つのことは、最高裁が上告棄却・不受理を決定した段階で、組織の幹部が責任をもって自らこれを実行しているはずですよ。にもかかわらず、日本聖公会京都教区のみならず日本聖公会管区もこれを受け入れず、この要望が出されてから、自体はどれだけ進展したでしょうか。そして、こう述べると、日本聖公会京都教区は「糾す会」が騒ぎ立てるからいけないのだとおっしゃるのではないですか。 皆さん、考えてみてください。「糾す会」の方々が何もおっしゃらなかったら、この事件は解決済みということになってしまっていたのではないでしょうか。そして、被害者とそのご家族が教会を離れても、京都教区のほとんどの方々はそれを知らないということになっていなかったでしょうか。 「だったらどうしたら良かったんですか?」 この問いは、ただ事件とその後の対応の過ちを追求されることから逃げるための方便でしかありません。まったく京都教区は事柄を認識していないとしか言いようがありません。「FH司祭が準強制わいせつをしなければ良かったんです」という言葉は、何の意味も持たないばかりか、準強制わいせつという行為の犯罪性を覆い隠してしまうのではないでしょうか。 審判廷で裁かれなければならないのは、FH司祭だけでなく、この一連の問題に関わったすべての聖職たちではないでしょうか。こうした議論にならない反論が信徒の口からでるとしたら、その教会の聖職の問題でもあろうかと思われます。あまりにも悲惨すぎます。「だったらどうしたら良かったんですか?」という質問は、問題回避の典型です。今も、被害者はPTSDに苦しんでいらっしゃるのです。何故そのことから、日本聖公会京都教区は目を背けるのですか。