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義経は生きていたと仮定すると・・・・ どこかで・・何かをしているはずだ・・・ 才能があふれ出ることは・・ 何時の世にも・・必ず・・人の上に立っているはずだ・・ 犯罪者で無い限り・・世の片隅にひっそりとは行かない・・ そこで目をつけた人物が・・大友義直である・・・・ この御仁・・まったくの無名だが・・功績が素晴らしい・・ この男が義経ではないかと疑った・・ 人物の紹介をしよう!” 大友義直(おおともよしなお)・・・・・・・ ・・ 学説・・ 初代当主の古庄能直は、母方の生家の波多野経家の相模国大友荘(現在の神奈川県小田原市)を支配していたことから大友能直と称した。これが、大友氏の起源である。能直は、相模国愛甲郡古庄の郷司の近藤能成(古庄能成とも)という、さしたる所領も持たない無名の武士の息子として生まれた。幼児の頃は古庄能直と名のり、次いで父の苗字から近藤能直と名のり、頼朝の側近であった中原親能の猶子となった(中原能直と名のる)とする説が有力である 以上文献から・・・ しかし、この学説では・・腑に落ちない 九州は豊後の国(大分県)を鎌倉時代の初期から・・ 江戸時代の初期まで400年間の大友氏支配の基礎を気づいた 中興の祖である・・ 平家物語・義経記・・との戦時の記録にまったく登場してない 手柄も何も無い男に・・豊後の国を与えることは絶対にない・・ しかも・・国を貰っても力量の無い男には400年間の基礎なぞ 造れるはずがない・ この義直の国取り物語は・・・神角戦争という戦がある・・ 「一国の豊後を大友に譲れ」・・源の頼朝の命が下るも・・ 豊後には大神氏・・やはり天皇の子孫が支配していた・・ 納得のいかない大神氏は神角寺に挙兵をする。 どんな男が来るのか・・確かめると称し・・・・ この相手を・・・戦をせずに・・殺し合いも無く・・ 納得させたのである・・・ しかも・・後の支配に・・急がずに・・ゆっくりと・・ じわじわと・・精力を伸ばしていった・・・ 落下傘で降りてきた・・横山府知事と青島幸雄都知事・・ 府政をしけず、都政を渡れず・・・・・・ 「トラブルばっかり持ち込みやがって・・・」 やがて・・放り出せれる・・・ 中央に力がある・・石原都知事は・・都政を渡っているが・・ 国とは人を治めねば・・自分が消される・・・ やはり・・大物ではなければ・・・ 弟になら・・・豊後を任そう”・・・小さいが・・納得!” お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.12.01 19:03:03
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