|
カテゴリ:カテゴリ未分類
魏志倭人伝 考古学と歴史の接点 歴史の実地を試みる。できるだけ多くの資料と史料を調べ、 それについての学説をを広く読むことである。 しかし、資料と史料がそのすべてを正しく語っているとは限らない。 古代になればなるほど文献がなくなり空白が増える。 その空白を埋めるには推理によるほかはない。 歴史上の推理を「史眼」という。 史眼とは単なる空想や憶測では無く、誰もが納得する説明がなくてはならない。 難しく言えば論証である。 乏しい資料は、ポツポツと散ってる点である。 点と点に線を引いてつなぐのが推理である。 だから、推理が間違ったら線の引き方も間違うわけで、 さらに見当違いの点に線を引けば、 結論はとんでもない方向にそれる。 歴史上の推理も探偵が謎を解いていくのと同じである・・・・ 清張の文章である・・彼の小説の原点を見る思いです。 この時代(卑弥呼)に文献なぞあるはずがない。 なぜなら・・文字がなかったから・・ なのに文献?資料に史料?・・・これは魏志倭人伝をいう 資料は中国人の目で見たか聞いたかの文章だ・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.07.20 01:48:43
コメント(0) | コメントを書く |