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テーマ:イタリアワイン大好き!(738)
カテゴリ:ピエモンテ
ピエモンテのDOCG、生産者はロベルト・ヴォエルツィオ。3月8日の木曜日に、恒例の持ち込みワイン会をやりました。表題のワインは僕が持ち込んだワイン。ガンベロロッソのヴィニ・ディタリアのヴィンテージチャートからは省かれてしまっている、超バッド・ヴィンテージ1992です。 今回のメンバーは、いつものT氏、ヴィノ・デッラ・パーチェのブルネッロ大会にもご参加いただいたS氏、某インポーター勤務のK氏というレギュラーメンバーに加え、K氏が勤務するインポーターのO社長をゲストに招いたスペシャル版...と言っても、ようは飲むだけ...ですが(笑)。 近ごろ、飲むと、だらしなくて、写真を撮ってないです。でも、有名どころのバローロばかりでしたので、楽天でも売ってます。もちろん、ヴィンテージ違いです...。 リンクは全てヴィンテージ違いです。飲んだヴィンテージは、 Barolo 2000 / Giovanni Canonica Barolo Cerequio 1992 / Roberto Voerzio Barolo Mariondino 1990 / Parusso Armando Barolo 1989 / Elio Altare Barolo 1971 / Gromis ジョヴァンニ・カノニカ2000とグロミス1971。O社長は「1番若い」と「1番古い」を持って現れました。たくさん興味深い話が出来ました。たとえば、今回、飲んだバローロ。 「偉大なワイン。若いうちは固く、本来の姿を味わえるのは長い熟成の後」というレトリックで語られ、実際、若いうちは閉じていて、渋くて、酸っぱいです...。しかし、本当のところは...その「固さ」は、醸造過程で加えられる酸化防止剤によって封入されているのだけではないのか? 「バローロ=若いうちは固い」はまさに、レトリックに過ぎないのではないか? 物語に過ぎないのではないのか? とか。カノニカの2000を飲みながらだと、非常に説得力あります。 コンサルタントの出現により、生産者の設備投資が充実して、味わいの均一化が図られる以前のバローロは、もっと、生産者の個性や、ヴィンテージの個性が生きたワインでした。 1998ヴィンテージは娘さんの誕生年だから売らずに全てストックしている。セラーの修繕費や樽の購入費など、早急にお金が必要な時は、ボトル詰めを控えて、桶売りしてしまう。などなど、カノニカのエピソードを聞くにつけ、合理化により得たものよりも、失ったものの大きさや「かけがえの無さ」に愕然とします。これはワインに限らず、イタリアに限らずであり、しいて言えば、現在の、日本の食文化により色濃く影を落としている問題ではないかと思います。 お金で買えない「美味しい」は、それを理解できるひとの所にだけやってくるのです。10人のうち1人しかそれを理解出来なければ、市場からその商品が消えます。これは経済の原理です。そして生産者は供給を諦めます。市場は、残りの9人が求める「合理性」や「便宜性」や「経済性」に基づく商品だけになって行きます。 イタリアから遊びに来た友人が「納豆」が食べたいと言ったとします。胸を張って、これが最高に美味しい「納豆」だよって進められるものがありますか? 探せば「究極の納豆」みたいなものが、お金を払えば、あるかもしれない。でも「君たちが普段、普通に食べているものが食べたいんだ」と言われたら...ほとんどの人は、たぶん、滅菌された工場でウレタンフォームの容器で造られた「アレ」を食べさせる事になるでしょう。「あるある騒動」の根底にあるのは「僕たち大衆」の日常的な「小さな選択」が膨れ上がって出来た「化け物」なんだと思います。 気が付いた時には「手遅れ」なんて事にならないようにしましょう。もう、手遅れかもね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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