<カテゴリー論>
しつこく繰り返している、が。
カテゴリーには「範疇」といった言語学上の権能はないのだ。
無から勝手に型鋳造なんて、出ー来るもんではないということ。
見えない形式であっても素材が必要。
範疇には、範囲鋳造して形式立てられた「目的」が導いてるんだろうし。
そもそも、言語みたいにカテゴリーは共有発明できん。
できんものを共有発明したみたいに言う。
カテゴリーはもともと、<倫理的制約がある>ということである、にすぎない。
範囲が勝手に鋳造され表象できる、んじゃなくて。
倫理というオルガノンの原則形式に従って、目的達成されているように見えるだけ。
それを、享有の感性があると、おいらたちは言う。
範囲を鋳造することだと世間風に解釈するなると、その、図式の図式はどっからくるというのだ。
という問題が必ずでてくる。
人の感性以外に、何がある、といいたいのか。
自然と言う、名詞を仕立てんならんなった人たちが。
しかし名詞は時空を持たんヨ、となって。
素材とされた感性はしかもムチ打たれても動かん。
まるで共有世界の奴隷みたいじゃんかヨ。
カテゴリーは、<ロゴスの(多様な)倫理的カタログ>の提示であって。
必ず倫理的制約を伴う享有モノ。
プラトンもアリストテレスもカントも、その数を限定してきた。
が、おいらは無数にあるんだと思っている。
全貌が見えん。
言語のものではなくて、享有のためにあるもの。
<自分という人格を制限するためのもの>なのだ。
人格が多ければ、これも当然、増える。
人は1つの人格しか持たんわけじゃないからだ。
何かで一意にムリにまとめているだけ。
生きた心身統一理解の目的の、つまり哲学上、自分の無知を知るための。
享有倫理操作の言語規則みたいなもんがカテゴリーなのである。
共有はまったく関係ないというか、ここでは見えてない。
(哲学ということにも、親しい対話なしに共有知識の意味あいは皆無なのである)。
(これは注意されたい)。
(個々人の、無知の享有的理解こそが、哲学)。
カテゴリーは特に、徹底して<享有概念>に対して働く。
そういった<命題>なのである。
命題であっても時空実質を持たない。
名詞だし、だからといって、勝手にできたというもんでもない。
人の現実だけにあるナニカだが、わからんもんだ。
<現実>という<倫理>が絡むので。
共有の世界で、奴隷にして利用できるモノなんぞではないのである。
カテゴリー論議に際しては、これをまず金輪際理解すべきなのだ。
わかってないひと、多すぎ。
現代用語でのカテゴリーは「範疇」の意味で使われてしまうが。
この用語の使い方は、まったく正しくない。
それも、ヘラスのアリストテレス先生の物とは金輪際別物となってしまって。
まるで別の、理解しがたい空虚な概念になっちまってるのだ。
命題になりきって偽装している。
命題であって時空実質を持たない形式だから、科分離して範疇と表象したのである。
これは間違い。
享有ということを、全く理解できない人たちが多すぎる。
現代西洋の、主人筋の人たち(特に金満家に多い)である。
所有欲に囚われた人たち、といってもいい。
彼らは超賢くて、宇宙人臭い連中なんだが。
彼らの宗教は、キリスト教やイスラム教、ユダヤ教や、あるいは悪魔崇拝の無宗教と言うべき代物。
根っからの一神教徒なのだ。
宗教持たなくても、1神教徒。
これがへんなんだが。
無宗教者も「信仰」を持っている。
しかも大概が、心に(共有の)光を持っていると錯覚している。
つまり悪魔主義なのである。
ルシファー崇拝。
墜天使ルシファーの別名は悪魔である。
彼らは徒党を組んで、共有崇拝するべき選ばれし者メシアを戴く。
無宗教(特定の宗教教義を持たない)であっても必ず、<一神教的信仰>という、へんなものなのだ。
組織で集団化し、知恵を共有確保する。
共通して、その光をまとめる1神は、地上に、今この世には、いない。
そういう特徴もあるのだ。
つまり時は熟してないか、もしくは未だ存在しない。
これも彼らを見分ける特質だ。
時間空間を超越して英知の魂がある、と考えるのも特徴である。
彼ら一神教徒カルトたちが、アリストテレス先生のロゴスのカタログに出会って理解できず、困惑した。
そのことは想像できる。
彼らもまた、享有の個々人の運命の中で生きている、じつは個体なのだが。
一神教信仰のカルト教義上、自己享有が認められてないから、困ってしまうのだ。
享有は個体から、そぎ落とされてしまってる。
おちんちんちょん切られてる、みたいなもんだ。
彼ら、メシアでない者も、メシアも含め、神の奴隷である。
だから、ロゴスのカタログに出会うと、自分のパラダイムにたいそうな不都合が生じてしまうのだ。
自分たち人間の創造者を、操作できると考える<時空とは別の>共有名詞として作り上げねばならないことになる。
ほんとうは感性である時空のほうが操作できんのだが。
共有オンリーの不自由世界に生きる、気の毒な構想の奴隷人たち。
だから連中は、この共有化できないカタログ部分を、あえてバッサリやったともいえる。
そぎ落として見えなくしまうこともやれた。
そういうか、実際にやっちまった。
またそうしないと。
見えないカテゴリーが、彼らの行動を制約にかかるから、動詞がまともに働かなくなる。
わけがわからんままに動けなくなってしまうのだ。
オイラたちが、見えない図式操作の前にわけわからんままに心理学操作されるのと、逆の現象が起きるのである。
この特定のカテゴリー削除は、<メタバシス>行為と呼ばれる。
哲学の世界では、一般的に広く知られている。
<反倫理的な行為>なのである。
ある種の自己否定ともいえる。
つまり、命の自傷行為の一種でもあるわけだ。
リストカットのようなもんだと考えていいだろう。
死にはせんが、倫理観が削がれ、非人間になる。
実際には、キリスト教の教義上、特定のカテゴリーをそぎ落とし排除することが行われた。
メタバシスによって、その享有の持つ倫理観を、自ら、そぎ落としたのである。
特に科学的認識には、これが不可欠。
首にかけられた縄を切ったみたいなもん、と本人はみなすようだが。
ほかのカテゴリーも、やればやるほど自由になれた?
そういう人もあるようだ。
カテゴリー命題がもともと、人の命みたいなもんなんだが。
なので、首縄からの脱出とはちがうやろ。
ご主人様を心身統一から、科分離に切り替えただけやろ?
そのカタログが享有に(倫理的に)首輪のように働くので、その制限する力に囚われまいと図ったとも言える。
但し、悪魔の力を借りたんやろ?
彼らには時間的なものが、オイラたち以上に、よく見えているようではある。
図式の力を多用するし、その力を現に利用はしてるんだが。
その利用の事実は、共有世界では組織ぐるみで大衆から隠す。
つまり陰謀をやる。
この選ばれし者による組織的共有謀議が、世に言われる陰謀論。
陰謀ということの本質には、メタバシスも、カテゴリー倫理も深く絡んでいるのだ。
陰謀論は現実に、世に、いっぱいある。
最近特に次々と暴露されたので、どれも都市伝説ではなくなってきている。
世の真実になってきてしまっているのだ。
彼らの共有組織が、現実に、社会で悪辣な陰謀活動をしていた。
それを、科分離科学やって世を動かすのを、選ばれし者だけの秘密にしておきたい、というのもあっただろう。
実はヤバイ組織員である自分たちの真実は、大衆から隠しておきたい。
その隠しておきたい最後のほうのもんの一つが、例えばカテゴリーそぎ落としなのだ。
彼らはカテゴリーを、「言語の持つ権能だ」と考える。
これはまったく違うのである。
特権者は、自分のカテゴリーをメタバシスで取り去ったので、特権者となりえた。
それは言える。
これを自分だけの特権にしておきたい。
なので、組織ぐるみで科学介入の事実を隠し、陰謀をやった。
メタバシスの享有への犯罪を隠した。
メタバシスを最初にやった人物として知られているのは、修道院のオッカムであり。
そのことで、数学論理が人の享有認識から自由となって、現実に適用できるものとなった。
共有化できた(と彼は錯覚した)。
実際には、自分の数学が、享有する感性との関係をそぎ落とされて見失っただけだ。
構想力が道具的に扱われ、組織的に背後に隠れて。
図式利用が共有可能になった。
魔術的に、享有感性が悪用できるようになったのである。
一般人には見えてない、未知の力を操るのだから、これは魔術だ。
享有が、むりやり、ぜんぶ共有にされて。
魔術のための魔柱、人柱として立てられ。
それを使って。
魔術的に、<他人の感性も利用できるように>なったのである。
この部分は、カント先生の図式論(シェマチスム)に十分通じていないと理解しづらいと思う。
おいらにも、かなり難しすぎる。
きれいに見えていない部分が、まだ多すぎる、ということ。
カテゴリーは一般にも、プラトンやアリストテレスの述べた概念として知られているんだが。
実のところまったく理解されていない。
誤解されたままなのだ。
範囲認識形式を鋳造する、言語の表象力だと誤解されている。
ちがいまっせ。
カテゴリーはその別名を、<純粋悟性概念の図式>ともいう。
これはカント先生が先験哲学で見出した成果なのだが。
特権者以外に、これを理解できる人がどれほどいるんだろう。
(もちろん特権者は誤解しているのではあるが、利用できている)
くれぐれも言っとくが、カテゴリーは範疇ではない、よ。
範疇などと言ってたら、組織陰謀に隠されて、見えなくなる。
あるいはメタバシスやって、悪辣なその仲間に加わるかしか、なくなる。
科学技術者のお仲間入りはそれで、できるが。
純粋悟性概念というこの命題の、これだけを述べると。
「純粋」ということは、<経験を伴わない>という意味なので。
構想済の概念であるのに無経験、という、じつにおかしなものだ。
あえて、純粋と言う(うふぉ)、考えて立つ、感性的時間の事を言っている。
図式の構想力のこと、なのであるが。
表象によって可能となった構想の力だと誤解できる。
じっさいには身構える、<心構える経験前の、時間・空間形式のこと>、なのだ。
こうまで言っても、わからん人にはわからん、と思うが。
この形式が、じつは構想力の実体が感性なので。
カント先生においては、これは時間の事とされていた。
おいらは、空間も同時に関係する、と思っている。
哲学より上位にある数学的時間空間のこと、でもあるが。
これこそ<享有>の意味を含んだ時空間。
つまり人の、有限な生きた身体の(科分離して考えれば)オルガを形成する、時間・空間のこと。
オルガスムスならあんたも知っとるだろう。
なので、「表象」するんではなく、<イコン>するものといえる。
写し絵にして、うふぉにして、無理やり表象だけ理解したもんだと言う事。
知ってるように見えて、じつはなんにもわかっとらん。
経験認識を伴わない(うふぉの)時空認識の、その形式のようなもんを。
(倫理的に、つまり享有へと)扱わせる未知のオルガノンもの、なのである。
それがカテゴリー。
オイラにも難しいし、時間・空間が見えてないんで、ちゃんと見えてない。
とにかく無から形式を「鋳造」するんじゃない。
素材は人の身体が持つ、<生きた感性>なので。
感覚、そのものなのだ。
共有の「神経」のほうじゃない。
享有の「感覚」の方途形式でもある方。
神経は遮断される方だが、感覚の遮断できない現実という形式。
カテゴリーは「範疇」なんぞじゃおまへんよ。
あれは共有の、科分離され、殺された政治理念。
毒利用で遮断されうる共有神経のようなもの。
目的が先立つことになっちまうから、別物の魔法陣建てなのだ。
こっちは享有の、生きた哲学概念なので。
目的どころか、対象ブツすら、はっきりとは立ってない。
うふぉ形式が立つだけだ。
図式として憑依できる、つまり陣立てできるだけだ。
半ば(うふぉ)世界の、つまり共有的に言うと<先験的>な出来事のもの。
しかし享有ということが理解できないと。
共有世界に持ち出された倫理のほうが皆目、見えんのだと思う。
此処で扱う、「構想力が、時間ということだ」と、この言葉がちゃんと理解できてないと問題が起きるのである。
これはカント先生が述べている言葉であって、オイラが考えたことじゃない。
あまりにも多くの人に一切理解してもらえなかったために、カント先生も図式論の共有化理解への意欲をうしなったんだと思う。
図式論はカント先生素通りの感がある。
そもそも世間の人間世間では。
賢い奴ほど倫理観に欠如が見られる、という致命的問題があるから難しいのだ。
賢いやつが倫理解ってんじゃ、ない。
まるで逆なのだ。
カテゴリー枠の扱いが緩い、いいかげんなやつほど、賢い、とみなされている。
数学で点が取れるし、創造性が豊かなんだと褒められる。
賢さは、知性が高いということで。
これは瞳着能力の高さ、といっていい。
写しが完璧に出来るほど、知性が高いとみなされる。
つまり、真似する能力の高さに、賢さは比例する。
逆に構想力の高さは愚鈍要因とみなされるのだ。
この瞳着能力が高いほど、倫理観の<鋳造能力は高い>、はずなんだが。
残念ながらカテゴリーは鋳造能力とは無縁なので。
鋳造能力が高い分だけ、構想力の拠りかかっている倫理的気づき能力がなくなってるともみなせる。
鋳造の出来がいいほど、一体的素材の方の忘却度は大きい、と科学的に分離して考えたら、わかりやすい。
ホントは素材も使わないし、鋳造、ではないし、科分離ではないのだが。
そう考えたら、知性的に理解できたように今日のオイラたちは感じてしまうのだ。
カテゴリーを純粋悟性概念の図式であると正しく認定したカント先生もまた、(超賢いゆえに)ある種の倫理観には欠如が見られたんか?
が、そんなんどうでもいいことなんで、そこは無視して。
ともあれ、心身分離の科学の世界では。
<構想力>が、魔法のおとぎ話に化けちまう、という特徴があるのだ。
すべてアリストテレス先生の心身合一の哲学において、論議されるべき内容なのであるんだが。
これが別のおとぎ話に、すり替えられた。
カテゴリー命題がすり替わった。
享有倫理命題ではなく、知性オンリーの、子供だましの、範疇精度問題に替えられたのである。
まだピンとこんだろうと思う。
おいら、きてない。
この問題をわかりやすくするためには。
短絡的に、カテゴリー問題の現実問題を示して、種明かしを先にするしかないのかも。
科学的な世界観と、ファンタジーな世界観はよく似ている。
世を取り仕切ってる図式(生きている人の直観の形式)が、魔術の魔法陣になっちまって物語るからだ。
そう言う非倫理問題が、現実社会に共有的に存在する。
だからこんなことが言えるのだ。
一神教の特殊な社会では特にそれが陰謀と呼ばれ、陰謀が。
現実にマトリクスを形成してしまって人々を奴隷化して経営している。
おとぎ話じゃないよ。
西洋には西洋の事情があって、日本には日本の事情があって。
どちらもややこしい奴隷社会だ。
享有者を、共有のパラダイムの内に閉じ込めているのだ。
日本の場合も働きバチなんていう享有見えん人多いし。
こっちもしかし。
多神教徒で、仏教も神道もクリスマスも悪魔のお祭りもごった煮のオイラたちには、理解しづらいだろう、が。
それが現実。
日本もまた、独特の奴隷社会。
オイラここで、無意味な命題事や思い付き構想の、出まかせを言ってんじゃない。
要点に、しつこく拘れば拘るほど(たぶん理解できんので)閲覧数は下がるが。
<現実共有の、西洋世界の哲学史で起こったことの、<超重要な要点>を、なるべく易しい言葉で言い直してるつもり>だ。
おいらが、しがない生涯かけて食えなんだ無駄な哲学やってきた、その最要点部分なのだが。
カテゴリー問題は、名詞や動詞の関与する<言語問題ではない>。
つまり時空といった感性ナシの関われない、名詞命題の問題ではないし。
時を示し時刻を刻む、動詞の問題でもない。
むしろ構想力という、見えてない力みたいなもんの問題だっつうこと。
力と言うより形式なんだが、形式ゆえに見えてない。
その形式を取り仕切るのが、西洋では文明(幻想、ファンタシアの)のゲバルト支配。
オイラたちの社会では文化(図式、見失ったイコンの)の支配だが。
いずれの社会でも(契約の)仲介者であるべき金銭が大きい顔して居座っているのも現実。
こんなこと言うのは、カテゴリー問題は、<享有理解の哲学問題だ>と言う事が言いたいがため。
カテゴリー問題は、メタバシスやれる言語の問題と言うよりはむしろ倫理の問題なので。
こういったことがらを全部理解できてないと、オイラの言ってることがわからんはずだ。
こんなん言うと、ますます干されて世間的に食えんなるだろうし。
多分、誰にもわかってもらえずに、オイラもこのまま消えることになるとは思うが。
もともと哲学ではまったく食えてないから、ええわいナ、っつうわけ。
一銭も、もらってない。
舌足らずなのは、オイラのロゴス的能力不足で、これは仕方なし。
おいらは点取り虫じゃないので。
クイズ100人に聞きましたなんてのが大昔にあったが、ぜんぜんまるでダメ夫だった。
カテゴリー問題はじっさい、心身合一の過去の哲学の些細な一部分だったみたいに思われてる。
哲学から科学が奪い取ったと。
これは「言語学での問題なんだ」、と言う輩もいる。
倫理そぎ落として殺せる、もはや死んだ過去だ、と思ってるような、メタバシス容認派の連中も多くいる。
特に科学者は、メタバシスなしには数学が使えんなる。
倫理制約を受けてしまうからだ。
数学が自由に利用できんのでは困るようだ。
だが。
そのロゴス的諸権能には、ミュトス的権能も働いている。
常に一体のモノのはず。
ここが超ややこしい点で。
分母をはっきりさせて数学導入、など、ホンマはできんはずなのだ。
そもそも科学的に対象分離しないことには、一意に、現前に対象化認識できない。
表象しないことには困難。
心身一体のイコン的利用だと、たとえばカテゴリーとは、といった論点がボケる。
時空の分母ががハッキリせんので、そのように思ってしまう。
原理・原則に差別的に当てはめん事には、理解の糸口すらなくなる。
しかも理解しちまえば、解っただけで、証拠のブツは何もなくなるのだ。
だから、無知の知は無視されて来た経過がある。
これが学問の無視に、つながってきたという事実も。
メタバシスやってカテゴリーの制約をなくし、同時に倫理観も失った。
理論も不要にして、出来りゃええテクノロジー、とした。
そして、だからといって。
科学しちまえば。
みんな<共有奴隷に堕ちて、虚無かAIか宇宙人かに、全員殺されるだけだ>。
そこまで、土壇場まできている。
科学やってりゃ、そうなるだけしかないんや、とオイラ言ってるんだ。
だから、カテゴリーをまず哲学でちゃんと共有できるように、特に自分で享有して見つけるべきだ、と。
時間・空間と、その倫理的制約をちゃんと見つけて。
心身一体のアリストテレス先生の<哲学>を理解すべきだと。
こっちがほんまに言いいたいことなんだが。
じつはオイラも、いいかげんというか、杜撰。
享有をみつけられないと、共有論議にはならん、という問題が初歩だろう。
特にそれをそぎ落とそうとするメタバシスは、享有・共有の初歩認識への<犯罪>なのだ。
犯罪の事情隠してるから、メタバシスは、組織的陰謀でもある。
オッカムは、哲学界の大犯罪者だ、とオイラ言ってるわけだ。
オイラが言ってるというより、カテゴリーが告げている。
これは、カテゴリーは、ファンタシアが表象ではないように。
範疇ではないからだ。
言語学のものでも、おとぎ話世界の空想の物でもない。
アリストテレス哲学が言う、<実在の証し>、なのである。
先生の言ってることをちゃんと聞きなはれ。
実在のあかし。
実在と言うことが、現実理解の鍵となっている。
誰でもそれに拠って暮らしている、超重要命題なのだ。
命題は無意味なので拘ってはならないんやが。
暮らすことには拘らないと、死ぬ。
実在は、享有の自己認識というものがなければ当然、ない、のである。
共有の対話世界には過去しかない。
虚無主義では、現実の実在感がなくなるから、なのだ。
そのことを思い出すべき。
しかし現代科学も、実在を捨ててテクノロジーに移行した。
基礎の理論づけなど、まったくの無意味になって来たのである。
<共有主義>だと、即に<実在無視>ということになっちまうんだということ。
そのことを述べている。
目的行動に際しては、共有がじつに有効だが。
残念ながら、なぜか現代西洋世界、特にフランスや米国は共有オンリー社会で、しかも享有価値世界オンリーなのだ。
こんな社会では。
個人信仰に閉じこもるカトリック・カルトのトランプが、マシにみえるほど。
kkk組織とのつながりもあるのに。
これは一神教徒特有の陰謀があるから、なんだが。
(つまりトランプも同じ穴のムジナ、組織人なんだが)
そうは見えてない。
テクネーやファンタシア、オルガノン、カテゴリーなどの解釈が根本から間違っているため、個人信仰持ち出せないためでもある。
実在が、ウーシア世界が、まるっきし見えんなってる。
実在とは、個々人が生きている、そのこと。
<本当は、その個々の存在理由>なのでもあるんだろう。
科分類されたウソで固められて、見えなくなっているだけだろうとは思う。
オイラにも、じつはほとんど見えてない。
自分の享有存在に、無知の知のフィリアの愛ではなく。
つい空虚さが、つまり論理の悪魔的な力が、忍び込んでしまうのだ。
これ(実在)はしかも絶対に、共有世界の言葉ではなくて。
哲学用語の鍵となる、享有命題に立った言葉が支える、言葉。
ロゴス。
そのロゴスの、生きたカタログが言わせたものである。
つまりカテゴリーが、その倫理的制約でもって言わせたものだ。
カテゴリーというのは、それで操ってんじゃなく。
むしろそれで<現実を支えて>る。
倫理形式なのだ。
純粋悟性概念の図式として、享有倫理観にのみ、働きかけてくる。
(これを範疇と言ったら見えるように思ってしまうが、ちがいまっせ)
特殊な哲学用語なのだ。
ロゴス(という虚偽的な神の権能の)のカタログ(といううふぉの一覧表)。
そのカテゴリーは、<人の享有倫理観にのみ働きかけてくる>。
その享有倫理観は、<現実>を、その<実在感>をこそ支える。
これがわかりさえすれば、誰でもカテゴリーの倫理的な意味を掴めるはず。
寡聞にして、未だカテゴリーに関して、この言葉を聞いたことはない。
プラトン先生やアリストテレス先生やドウンススコトウス先生、デカルト先生、カント先生、ハイデガー先生以外には、という意味だ。
まあ、オイラの不勉強もあるんだろうが。
だからこれを大声で言いたい。
<カテゴリーは、人の享有倫理観にのみ働きかけてくる>享有のもの。
範疇力ではない、有限な命の、力でない力。
貧者の一灯みたいなもん。
共有の力が関与できない。
カテゴリーは経験的物事を一切無視して。
そこにある共有的経験事をも一切無視してくる。
だから純粋(悟性概念の図式)、なのだ。
(形式みたいなもんだということ、確かに範疇は似ているが、それでは表象になっちまう)
純粋化して経験を遠ざけ。
おいら個人は何を志向すべきかといった、享有倫理観にのみ、有効に働いてくる。
経験的なしがらみに囚われ、拘ると。
有限な享有については、まったく見えなくなる。
カテゴリーは、その享有に対して、それもゲバルト的に暴力的に働くのではなく、倫理的に、つまり自己実践阻止的に働く。
これが、オルガノン的になる、ということだ。
倫理規制委員会のアホには絶対に理解できん理屈で、これは働くのである。
ハッキリ言う。
倫理規制委員会のアホだと。
享有の倫理に、なんで共有社会が委員会組織で絡むねん、「あほちゃうか」とオイラ言ってるわけだ。
実際にはアホではなくて悪賢い連中の政治的<陰謀>があるのだ。
道徳理念や法律的な規制にかかるんならともかく。
倫理問題に組織は馴染まん。
この倫理 ー 享有 ー カテゴリー、は、相互にオルガノンで繋がっている。
論理みたいなもんが確かに薄っすら、ここに見える。
だが論理じゃないのだ。
それがオルガノン。
生体として心身合一の、哲学のもの、なのだ。
共有もどこかでつながっているんだろうが、それはここでは、はっきりせんのである。
これを、規則 ー 共有 ー 範疇 と読み違えてしまっているのが西洋の伝統なのだ。
そのカルチャー的理解に囚われ、奴隷文化になってしまっとるのだ。
だから西洋文化の基本は、このカテゴリーという言葉が握っている。
誤った範疇が支配している、といっていい。
正確に言うと、そのつどの盲目的な<目的>が、範疇力を、つまり図式形式を使おうとしているのだ。
哲学と倫理の関係、これでわかりました?
オイラ杜撰なので、未だに十分には、わかってない。
西洋において世間から倫理が消えて、規則やエチケットのみが形式的にある、その理由がしかしうっすら、わかっただろう。
それらはアリストテレス先生のカテゴリー論の読み違えで起こったことなのだ。
テクネーは心構え、ファンタシアはイコン、オルガノンは心身一体の無知の知、ならばカテゴリーは?
アリストテレス先生が述べた通り。
「実在の証し」であって。
範疇といった権能ではありまへん。