<命題論>
これらはウイキに、よくまとめられて出ていた。
なので、そのウイキ紹介みたいなものとなる。
もともとオルガノンの一部であって、分離可能なものではない。
つまり科学できるものではないのだが。
しかしこれに拘ろうとした人たちもいたのは、哲学史で見て来たとおり。
命題が何か知ることは重要だが、享有や共有の命題に拘ってはならない。
命題で述べているそのこと自体は無意味だからだ。
1-2章:
で、その意味が明らかとなる。
「名詞・動詞それ自体は、真でも偽でもない」。
「名詞」は、「約束」によって意味を持つ音声であって、「時」を含まない。
つまりそれ自体は無意味なんである。
だから今日のように自然が名詞にまでなると、時は消え、時間もなくなってしまう。
無意味になる。
<自然>ということが名詞でありえない証拠の一つがここに、アリストテレスにあるのだ。
我が国古来の副詞や、フィシスとしての自然観を持つなら別だが、あなたもへんな名詞的自然観に囚われているはず。
おいらも数十年前までそうだった。
じつは名詞には、時のみならず実質の空(くう)も含まれないのである、とオイラ更に思う。
日本語では、空間も時や時間と同じような意味だ。
空も、間も、重ねてある(見出してる)心身一体の感性の、意味あるモノなのだ。
時間とか空間といった名詞でそれを表現できてないのである。
レス・エクステンサ「延長」も、そうだ。
延長などという形容詞めいた名詞は、ナニカの感性的意味の延長であって、それ自体の命題には時間も空間も含まれてない。
単なる感性形式のはずなのだ。
長~く、時間も空間も感性的に、ひきのばされてるだけなのだ。
矛盾が出てくる。
名詞であるのに、動詞を含み、形容詞的でもあるためだ。
延は動詞、長は名詞のように見えて実はカテゴリーに負う形容詞。
動詞的形容を名詞にしただけ。
感性のモノなのだが、形式立てて(うふぉ)名詞にしてあるのだ。
時も空も、意図的に消して名詞になってる。
<有>もそうである。
有と言う名詞はあるが、・・・である、という動詞の様を名詞表現してるだけだ。
西洋のレス・エクステンサは、全く違うらしいのである。
こちらは永遠の実質を持つというのだ。
なんせ有が神だから。
破綻した形而上学に出てくる<有限な実体>である。
無限な実体ではない。
またカラッポというのは空(くうとか、そら)のことだが。
これも特定の時空表現の言葉ではなく。
ホントに無意味な名詞的命題にすぎない。
時間も空間も、ありふれた名詞なんだが。
それ自体の時や空を表現する言葉ではない、そのことに注意。
拘れるもんではない、っつうこと。
つまり自分で自分を表現できない、へんな(うふぉ)共有名詞、なのだ。
こういった言葉の頂点に立つのが、神とか神々である。
無とか実在、も、そうだろう。
動詞のようであって、じつは名詞的表現なのである。
はっきりせんもんだから<神々>と、複数形で呼んでいいのだが、一神教徒は違う。
拘(こだわ)る。
単一の有だと科分離してハッキリ言い、自分の一意信仰とくっつけ、瞳着させ。
さらに<信仰>する。
最後のこれがいかんのだ。
命題にこだわっちょることになる。
神々は、人智を超越する力を持つので。
怖れ奉るものであって、信仰帰依すべきもんじゃない、とオイラ思う。
ご先祖も同じであって、大切に怖れ奉るべき神々同様の柱物だが。
過去の判断が正しいとは限らんので、これも信仰すべきじゃない。
親も先祖も、いくらでも感性上の間違い、してたはず。
3章:
動詞は、「固有の意味に「時」を合わせ示す」オルガノンの一機能。
(この機能という考え方はダメだが)こう書くしかないのがオイラたちの情けない実情。
実は時間だけでなく、空間をも併せて示すのが、動詞の特徴なのである。
時間・空間を超越すれば動詞ではなくなる。
(オイラたちは有限な生き物だからだ、無限な英知ではない)。
彼らは時間についてしか述べていないが空間がみえてないのだろうか、と思った。
名詞は時空を持たないが、動詞は時・空共に、必ず持つのだ。
人の感性で動く、のが動詞なんだから。
<時>も<時間>も<空>も<場所>も、日本語では、おんなじような動詞的なナニカを抱えた意味の、へんな名詞だ。
その自分自身の感性的意味を持たされてないんだが。
なのに、名詞ではなく<動詞的な命題表現>の名詞となる。
それに対し、動詞は命題無視でも感性的意味で出来ていると言える。
対象物は不明確であっても、必ずある。
じねん、といえば、対象物が勝手に自動的に不可解な共有時空を持つのだ。
実際に言いたいことは享有自然(しぜん)だろうが、それでは観察者に認識されない。 西洋人の多くは空間認識能力がほとんど無いので、享有の空間論議が無視されて来ただけだろうと思う。
オイラたち日本人は逆に時間認識能力が欠けているから、共有世界ではもっぱら時刻重視、時間の時刻認識でやってきた。
遅刻は一切認めんし、間(ま)を取る。
4章:
文というのは「意味を持った音声」のことである。
主語が立って名詞に動詞が付け加わって、ここで初めて、(主に対する)真偽が存在することとなる。
主語省略では真偽も省略?。
文になって意味づけられて、真偽の紛れ込んだこと、がここで初めてわかる。
人は知識を(カネ目当てに)文に求めるが、意味づけなどはしたがらないのが普通。
(カルト素材は)紛れ込んで、もともと<あるから>である。
利用してるだけなんよ。
これは時間・空間がある、と言うのと同じ。
享有、共有は、主語で<ある>とわかる。
ある、は動詞だが。
カルト世界の時空に採り込まれて、”オイラ生きている”、ということだからだ。
自分の無知に気が付いて、なおかつ実在感のなくなった人が、意味づけをあえて求めるのである。
しかし自分が無知だって知って実在感がなくなるなんて、へんだと思わないか?
つまり基礎知識がどこかで、間違ってたわけだ。
それを探るのが反省なんだが・・・。
5章、6章:
「命題文の肯定・否定、単純・複合」や「矛盾対立命題」が論議され。
7章、8章:
事物の普遍と個別、基体(主語)の単一性が論議される。
主語は一意である。
神は主語ではないし客体でもないんだが、彼らは基礎のありかを間違う。
神と言う名詞にしてしまう。
9章:
ここで、時制(過去・現在・未来)と、真偽の諸関係がモロに暴露、されているようだ。
「過去・現在については真偽が成立するが、未来の個別的なものについては決定できない」とウイキは言う。
だが真偽と言う、事態と時制の関係が示されているだけで、この意見はウソっぽい。
アリストテレス先生が、こんな共有謀議に加わったはずなんぞはないのである。
真偽が成立するんではなく、共有論議も形式上<可能>、というだけ。
共有であっても、未来には成立しない。
共有では特に、対象時空がはっきしりなくなる問題があるのだ。
また神々と無縁であれば、未来の享有部分は自分(享有)では好き勝手に決められるはずのもの。
時制と真偽の関係、神々との関係も、じつは個々人の<享有と無縁ではない>んですなあ。
そぎ落として無視できるもんではない。
アリストテレス先生の論議は、共有論議と言うより、享有論議にかなり偏ったものなんだったはずと思う。
ディアレクチークは跡付けであって、もとの思惟は享有の反省。
それ無視して論理中心主義に、科分離して、虚無主義にもっていこうとしても無駄だ。
何度も言うが、<オルガノンは生命論理学ではない>。
10章、11章:
「肯定命題・否定命題のバリエーション」や「表現対象の複数性と、弁証術」について述べられるらしい。
12章:
「様相」(可能・許容・不可能・必然)について述べてある。
13章:
「様相」(可能・許容・不可能・必然)と、肯定命題・否定命題のバリエーション。
14章:
命題の関係性についての判断。
この章は、もともと十二分に怪しいらしいんだが。
一神教的解釈が利かない、と言う意味なのか、一神教的捏造がされている、と言う意味なのかは、オイラが不勉強なもので、わからない。
ウイキのまとめ方は、きわめて論理学的かつ正確狙いなものである。
だからアリストテレス先生の哲学を学ぶには、<あんまり参考にはならない>。
また聞きだからだ。
哲学としては読めず、論理的な修辞学になっちまうからでもある。
政治論議となる。
そしてこれらが西洋の修辞学の、基礎となり。
それらが哲学を名乗ったのだ。
非実務のはずの哲学が、実務学だ、と主張されていってしまったのである。
<分析論前書>
論証の構造や推論図式についての分析。
それらが中心らしい。
バラシて科分離して検討すべき、じゃなくて。
オルガノンなので、<分析>の意味が科学分離のやり方ではないはず、なのだ。
三段論法なども出てくるというか、もっぱら、これの分析。
二巻目は「推論の変種、誤謬論その他、推論類似の方法」について論じているらしいが。
どうも哲学の分析と言うより、後世の修辞学の科分類分析のような気がしてならないので、はしょる。
「前提」「項」「推論」の意義、だとかも、もっぱら(共有の)論証の様を分析したもの、らしい。
心身統一の立場での論議とするには、特に難しいと思う。
16章に「論点先取の誤謬」。
19章「論争法1 - 防衛と攻撃の手法」
20章「論争法2 - 論駁」。
21章「錯誤と知識の共存」。
43章「定義を目指す推論は定義項の内の問題点を項とせよ」。
44章 1.「仮定からの諸推論一般の還元不可能性」。
2.「帰謬法推論の還元不可能性」。
3.「その他の仮定からの諸推論も還元不可能」。
なんてのはしかし、特に面白そうで、訳本もいっぱい出てるようだ。
しかし繰り返すが、アリストテレス先生の講義録じゃありえない。
講義録誤解して六階建築したもの。
<分析論後書>
三段論法シュロギスモスの、跡付け論証の「分析」である。
言い訳含み、だってこと。
この「分析」ってのは、明らかに<哲学>みたいな意味で使われてるのだろう。
前書が修辞学であったのとはかけ離れており、後書のこっちは、モロに哲学論議に見える。
但し、心身分離の、科学的合理思想の時代のものが多く入り込んでいるので、やはり素直に読んではいけないのである。
34章から、「予め知ることの必要とその性質について」から始まり。
知識、事物、論証、原理、など、<先験的論議が>出てくる。
特にウイキ作者の意図もあるのだろうが。
科学についての論議は特に、いっぱい出てくる。
それが科学なのかどうかは別にして。
11章 「共有の原理と個々の論証科学の関係をめぐる問題点」。
なんてのもあるようだ。
アリストテレスの哲学を、科学のハシリだ、と見たい人々が訳したものなんで、あてにはならないが、大いに参考にはなるかも。
12章「科学的な探求の手続きめぐる2-3の問題点 --- 科学的な問い」。
「科学的な知識」に反する無知、誤謬推論、異議、分析、論証過程の拡張」。
18章「感覚の欠如から生じる知識の欠如について(知の否定としての無知)」。
24章には、「全体的な論証が部分的な論証よりも優れている」。
なんていう変な門もあるし。
25章「肯定の論証が否定の論証よりも優れている」。
も、どこかおかしい。
26章「直截証示の論証が不可能な帰結に導く論証(帰謬法)よりも優れている」。
といった優生学的要素もふんだんに出てくるので、ぜんぜんあてにはならんが。
27章「科学的知識の間にある明確性の差別について」。
28章「一つの科学的知識とは何か」。
29章「同一の結論についてあり得る多数の論証」について」。
もう数十年生きられたら読めるのだろうか。
カネないけど、本買わにゃあ。
30章「偶運から来るものについては論証があり得ない」。
31章「感覚によっては「科学的知識」は得られない」。
そのとおり、だから科学は人を殺して科学しようとする、とも言えるわけだ。
32章「全ての科学の推論の原理が同じものではあり得ない」。
33章「知識と臆見について」。
34章「頭脳明敏について」。
<固有の原理>と<共有の原理>が別個のものだ、と科学的に述べてんじゃなくて。
分析して跡付けすれば、そういう知識も立てるんよ、と先生は言ってるわけだ。
分析論後書はその意味で、科学的認識を掘ってみたオルガノンの一節だと言える。
じっさいにも、何らかの講義録が、誰かにまとめられてあったんだろう。
その講義録をもとに、大勢の優れたローマ人学者が、さらにまとめたものである。
但し購読者筆記の講義録原本のほうは、消えた。
というか、組織的に消された。
これはバビロンにあった膨大な聖書類をまとめた新旧のキリスト教聖書やユダヤ教聖書、さらにはクルアーンについても、同じことが言える。
次回はトピカを扱いたい。