<トピカ>
後の世にトピックという言葉となっていく、手がかりや論点を指し示すにすぎない言葉が表題のもの、トピカという類の学問なんだが。
これもアリストテレス先生本人作ではないのが残念なほど。
つまりすごいものなんだが、オルガノンの一節として先生が書いたんじゃない。
誰かオルガノン聴講生の講義録がモトで、全8巻、合計337節もあるそうだ。
講義録の要点をまとめようとしてまとめられず。
結局アリストテレス哲学にとことん付き合うことになった大勢の修辞学者たちの、艱難辛苦(かんなんしんく)の賜物がこれなのだ。
前節に紹介した諸著作と含めて、これらがローマ時代に勉強された修辞哲学(正しくは修辞学)である。
それの実質部分。
トピカはローマ帝国産なのに、場所や時刻を示す極めて感性的なものを相手にしているのも特徴。
このトピカという言葉は、名詞トポスの形容詞らしい。
諸議論の結果生まれて来た、膨大な領野の著作物集団となったまとめ様態であり。
それがさらに、後世のトピックという言葉になった。
アリストテレス哲学への手がかり、足掛かり、注目点といった意味はもちろん、そこは示せてるのだが。
全8巻にも広がったトピック部分(要点)になっちまった。
修辞学の全体その全貌を、親しい対話の要点を、まとめようとしてまとまらなかった。
むしろ、いくらでもふくらんでいったと考えるべきだろう。
オイラが多言を弄するのも、要点がまとめられんからだ。
<無知の知>を相手してるのだから、当然である。
修辞弁証論議の大集団?。
ウイキが言うような、論理的な論点、定石、拠点づくりなんぞとは全然違うと思う。
つまり対話を重ねる、その対話を講義録のように仕切りたいのは確かだが。
親しい対話に帰納の結論は出ず、実際には個々に破綻して無知へと還ってゆく。
しかもそれらの実質弁証は跡付けだが、決して弁証論のような言い訳ではないのだ。
ディアレクチケーがナニであるかの論議。
親しい対話が積み重なり、要点が示せそうで示せず、結果的に泥沼化していく。
思惟のモーメントが、心身合一の哲学と目的知識学志向の修辞学では、相互に違うのだ。
お互いに真逆なのが、これが巨大化した原因だと思う。
修辞学従事者たちは、これにまったく気が付いてないのかも。
要点を示したくて、つつけばつつくほど、ほころびは大きくなり、親しい対話ディアレクチークは増える一方。
だが、要点からは遠ざかり、ますますまとまらなくなる。
哲学思惟では、時空的な感性の場が最初にアルケーとして示されて。
そこへと収束させる手法が多い。
つまり自分で見出した無知を、自分で跡付け知る事に収斂していくよう誘導するのだが。
ディアアレクチケーでは、共有の対話がその役割。
無知の知を示そうとすれば溢れてしまうのだ。
これは享有へと一度還り、それを共通の反省へともたらす意図が加わるものなので。
これの時間経過、空間実体を共有知識にまとめようとすると、酷いことになるのだ。
泥沼の、ほころびだらけのモノになる。
その端的なトピック例が、トピカなのである。
演繹、弁証、推論、そして誤謬推理の諸々。
これらをトピカルな手順や規則にまとめたくて、つまり知りたくて、共有知識人は科学知識に走る。
だが、知識体系の技術的利用だけでなく、哲学(学問)をも同時に志すので。
その不純な志向分裂が、享有相手に泥沼を生んでしまうのだ。
ひどい場合にはドッペルゲンガーを生産と相なる。
モトがオルガンではなくオルガノンという生きたものなんで。
つまり心身一体の、哲学のものなんで。
どうしても哲学(無知の知)相手の部分を、切りすてられんことになる。
しかし修辞目的が目指すのは、切り分けた共有知識の修辞学再体系化ノート。
指示書つくり。
この両者をまとめるっつうのは、どだいムリでんがな。
その結果、トピカは全8巻からにもなる膨大な、しかしすばらしいものとなった。
諸推理や推論について。
4つの述語形態を中心に述べていき、帰納法といった規則もちゃんと見出し。
実務成果も織り込んで、体系的に仕上げていったのだが。
はっきりいって、中身に論理的一貫性はない対話編。
泥沼なのである。
後世の、哲学史のようなものとなったのだ。
述べている主要テーマは、<定義>、<特性>、<類>、<付帯性>などについてらしい。
要点を修辞し、簡潔にまとめりゃいいんだが、と考えるかも。
しかし哲学なんで、絶対にまとまらん議論となる。
定義とはなんぞや、なんて相談しても、そりゃどだいムリ。
思惟のモーメントが、対象志向の認識と生体観察意図とでは、逆なんで。
そしてじつは内部にどちらも、両側面を持つので。
まとめにかかると、ズルズルズルと、ほころびる。
ほころびはするが、同時にズルズル無知の知を知らされていくのである。
自分の無知を知るべしのアリストテレス対話へと、引きずり込まれていくのだ。
結局8巻目で、「弁証術の訓練だ」として、別途一応まとめてはあるようだが。
それはまとめようと言う意図の、政治判断。
修辞学のムリヤリの適用で、本文の実態は違うのである。
すばらしい泥沼。
この泥沼こそが哲学、なのである。
日本での訳本見ても。
「辨證論」だと、哲学的な跡付けの言い訳だ、とみたり。
「詭弁論駁論」だと、詭弁を避けるための知識ストックだとみたり。
「ソフィスト的論駁について」だと、科学志向者の論理学利用目的なんだとみたり。
意見まちまちで、じつに様々に扱われている。
が、ほとんどは修辞知識学としての扱いがやはり多いようだ。
泥沼だから、修辞が大いに利くのである。
しかしオイラは、何度も言うが、この泥沼こそが哲学を示していると思う。
(基礎知識は大学時代の特殊講義の受け売りに近い)
オルガノン講義録をトピックにまとめたくて、オルガンしか見えてない修辞学者がやってしまった本物の哲学集なんだと。
それが生み出した、破綻的なオルガノンの数々だ、と思っている。
歴史伝達が目的ではなくはっきりしてなかったために、まとまらずドロドロしてきた哲学史、みたいなもんだ。
大勢の超優れた人が真剣に論議して、本物の共有哲学論議(ディアレクチーク)になってんだと。
英知の賜物なのは事実であるし。
これらが後世に哲学を伝えたのも事実。
しかし残念ながら、アリストテレス先生の書いた論稿のトピックではありえないのである。
人はほんまは、とてつもなく孤独。
<享有>の存在者だからだ。
共有分離のものとして扱われると、一層孤独になってしまうのだ。
いくら親し気に対話共有しようとししても、科学や論理ではオルガノンのトピックには、ならん。
共有部分は志向としてあるんだが。
存在を見る回帰的志向ではあっても、見られる者としての志向は希薄であるようだし。 それを神の側からの恩寵にすると、ホンマに孤独になっちまう。
およそ<有>としてある<感性との関係>が、共有上でも論理上でも、どうしても希薄になるのだ。
と言うか、ほとんど絶たれてしまっていくように見える。
(みるものはみられるものでもある、というこれは、ずっと後の時代のデカルト的思惟)。
この享有感性で、孤独感もごまかされているようにも感じるものだ。
感性抜きに哲学はないので、つまりアルケーの導きがあるので、本当は孤独でもないのだろうが。
この共有感性部分は、オイラわからん。
テレパシー能力などもまるでないもんで。
ただ、電磁波感知能力はあるが、これは科学的知識からのドクサだ。
突然、階下の別の部屋のポットが出す、ぴいぴいぴいぴいという信号音が聞こえた。
遠くても頭脳に直接響いてくる。
電磁波を伴う、胡麻化しがたく鮮明な電子音だ。
人は鉄をいっぱい持っているので、たぶん体で電波類を受け止めているのかも。
老衰して弱ってくると、その取捨機構が狂うのだろうか。
こういう根拠の見えてない推論を、ドクサという。
科学的に見える推論は大概がドクサである。
しかもこの考え方は、鉄という科分離、電波という科分離な、特有の思惟法で。
そしてこの科分離したものに現実思惟させる、というのはまちがいで。
つまり本当は心身一体であるはずのものの科分離認識なのである。
電磁波のつくる波も、人の命も、もともと一体のもののはずなんやけど。
こういう類の、架空空想思惟は、どういうんだろう。
感性的導きのアルケーの明確でない、しかしファクターに基づく思惟。
しかもこれは出来事の時空抜きの思惟に見える。
形而上学的誤謬推理とも、ちょっと違うようだし。
しかし人工の科学が生み出した電磁波という知識が、それらをまとめようとトピカルに出てきて。
そしてまた、異質な泥沼形成、となるわけだ。
この人工の電磁波がしかし今。
地上の生命体のみならず電磁波界にも、何らかの悪影響を大いに与えているんだろうと思える。
虫や魚や鳥など、死んで消えていく種族も多いし。
「太陽活動がやったこっちゃ」、と科学者はいうが、実は人工の方がもっと怪しいんである。
Haaap実験、10-12日の間、わざとやってたという話がある。
裏取れてないが、赤いオーロラの陰謀話だ。
こういうへんな方向の思惟にばかりはまり込んでたんが、たとえば排除されたはずのナチスの人々だった。
ドイツ人。
ゲルマン人のことをドイツ人というのは、世界で日本人だけといわれる。
ドイツは、ヒトラーの演説で出てくる感性的な類の民族統一の言葉だ。
演説のクライマックスでドイッチェ!と彼が叫べば、心酔した聴衆全員が心の奥底から叫び返す。
架空の理想郷概念なのである。
トゥラーン諸族の持つトゥラーンみたいなもんだ。
(これはイーラーンに対する対概念だったらしい)
過去にも書いた記憶があるが。
ナチスは、v2ロケット打ち上げれば成層圏の電離層をかき乱すことになるので、自分たちの生活圏に直接の悪影響が出ないか、心配してた。
そのように、電気を扱う、電磁波をわからんままに扱うということは、自分たちの共有<感性に人工の何かを加えることとなる>と知っていて、非常に気にしていた。
彼らは共有の感性が見えていたわけだ。
つまり知識学でオルガノンにトピック修辞をやる、そのことと同じなのである。
そのことにも気が付いてた、というわけだ。
しかしこの考え方もじつは、アリストテレス風の心身統一の思惟からは十二分におかしくて。
電磁波をわからんままに扱う今日の自分たちなんて、いつのまにかAIみたいな扱われ方になってしまってる、というべきか。
この手のピンぼけ思惟は、必ず泥沼になっていくのだ。
ナチスは、積極的に科学に特化する余りに、その<何か>をもともと見失っていたのに。
それを(つまり見失ったはずの自分たちの生存環境を)非常に気にしてたとも言える。
信仰は持っていたくせに、感性的なものを気にしてた。
だが同時に、神も科学のように投企して積極的かつ企画的に扱おう、いじろうとしていた。
聖書が命令指示していたからだ。
積極的に、予定未来へ向けて、推進あるのみ。
これは予言という、禁じられたウソ世界が絡む。
ナチスも、現代の欧米と同じく未来志向だったのは、間違いない。
その思想の今日の扱いは、今は敵対勢力(プロテスタントとカトリック)が世を取り仕切ってんだから、これも十分すでに怪しいはずで。
<ナチスは積極的キリスト教徒だ>、ということも、奴隷社会には隠ぺいされてるわけだ。
つまり陰謀論のオカルト仲間にして、世間論議から切り離して排除させ。
結果的にナチスは宗教問題抜きに、断罪的にのみ取り扱われる。
それが普通なのであるが。
このナチス運動の根幹は、宗教的実践にある。
それも<一神教特有のカルト宗教>の積極的推進ということにこそある。
そして身体の破綻が、真実の一部を垣間見せるように。
ナチスの誤った運動も、真実の一部を垣間見せてくれるのである。
ハイデガー先生の哲学のように。
ヒンブリック、めくばせしてくれて、教えてくれる。
トピカの論議破綻と同様となってくる、諸問題があるのだ。
トピカはそこで、破綻的に真実の哲学を垣間見せてた。
ナチスの一員であったハイデガー先生の諸々の指導で、オイラもこれらが、やっと少しわかってきた。
「表象」という誤ったファンタシア理解と。
「技術」というテクネー理解の誤りと。
「範疇」という、メタバシス後のカテゴリー理解の誤りに基礎があることにも、ハイデガー先生にめくばせされて、気が付いた。
それらの理解のおかげで。
オイラの破綻論議の泥沼も、トピカルに収斂してきた感があるのだ。
西洋は、その全員が、アリストテレス先生の論議を基礎から誤解してんだ、と。
こんだけのこと理解するのに、なんとオイラ、数十年かかった。
今さら、古い原始的なアリストテレスを蒸し返して、なんかの稼ぎになるのかネ?
そういう疑問のオオモトになるもんが、つまり哲学のアルケーが、ここにある、のだ。
目配せしている。
稼ぎにはなりまへん。
食うことの助けにも、一切なり申さん。
修辞学脱ぎ捨てたら単細胞になることも知ってま。
しかしウーシア世界が、そのアリストテレス解釈の誤りが原因で、今や滅亡前夜なのだ。
滅亡前夜であることに気がついてる人は多いのだが。
その世界認識の基礎の間違いに気が付いてる人は少ないというか。
科学がダメだという病人以外でない人には、お目にかかったことがない。
滅びかけた原始種族がもてはやされ、滅んだ古代文化が発掘される一方で。
二酸化炭素による地球温暖化というウソなどが堂々と、まことしやかに、かね儲け目的で囁かれている。
寒暖の差が今後酷くなる氷河期の、前夜なのに。
しかしその泥沼のおかげで。
地上の二酸化炭素の同位体の、過去の変異をたどることで。
古代の核戦争痕跡も、具体的に科学的に取り沙汰できるようになってきた。
今日のオイラたちもまた、滅亡への途上にある。
そのことが、ありありと見えて来たのだ。
文明が、自然とバランスを取って生き続けることの困難さ。
それが見えて来た、というべきか?。
ぜんぜんちがうじゃろ、が?
その「文明」と言う考えかたも翻訳も、まるでダメなんやし。
「自然」もまた基本から見誤っているんんやがな。
バランス、という考え方も、なんかデジタルチックで異常だし。
少し途中脱線して、次回、この<文明>に拘ってみたい。