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2024年06月10日
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カテゴリ:哲学研究室

 トピカ解説の途中脱線中。
 泥沼になってきた。

 <内なる光、共有の他者>

  さてトピカとは益々、関係希薄になってきた。
 だがそれが基礎となって創り上げた現代世界では心の内なる光が暴れている。
 内なる光は共有の他者となり、その悪事で、多くの人が日夜殺されているのだ。
  それも日本人と類似の遺伝子持つ弱い人々が多くやられている。
 その本質をトピカルに示しておきたいと思うようになったから、脱線継続。

 必要な脱線だと思う。
 イスラエルによる子供大量虐殺をほっといたら、明日は我が身。
 に、もうなってる。
 報道はされないが昨年の超過死亡は過去最大だったらしい。

 内なる光、共有の他者の問題。
 これは、別名をトピックにすると<悪魔論>というのである。

 我がこころの内なる光の指示で、現実に悪魔と化した連中がいるのだ。
 フランキスト達だ。
 彼らの動きが、ほんまに酷いのである。
 共有する将来アイデアの実践のため、他人の迷惑無視で突っ走っている。
 衆愚は、気になる他者ではない、どうでもいい他人として無視されている。

  偽ユダヤ人やユダヤ人にも悪魔は多いが、西洋の王族にはもともとフランキストが多かった。
 彼らは世間にカルト(教義)実践を広める、選ばれし者の自覚者たち。
 一神教徒の宗教指導者たち、という意味だ。

 つまり<文明>を宣伝し、そのアジェンダを推進したり、<環境科学の運動>やったり、さらには民族主義<ジオニズム>への扇動したりする、その担い手のこと。
 連中は悪魔。
 心の内なる光に動かされる、それらのアジェンダ思想への主力となる連中。

 代理人を名乗るんだが、悪魔本人だろ?
 彼らの敵対者は神の代理人を名乗るが、そいつらは自分の心の悪魔光は懺悔で隠して名乗る。
 フランキストは堂々と包み隠さないのはいいが、悪魔本人であることは隠す。
 光ルシファーの代理人だと主張することが多いようだ。

 犠牲者を誘う、彼らのプロパガンダも最近特に目立つ。
 磁気関係や5G、環境操作目的のHaaap利用、AI主導権のテクノロジー推進、生体とデジタル機械の融合目論見など、先端科学はすべて関係してくるが。
 防疫医療関係、つまり731部隊関係にも幅広く手を出して大勢殺した。
 おいらもやられかけた。
 副産物で植物のコミュニケーション社会や鳥の言葉もわかりつつあるらしいが、目的は軍事で予算化される。

 最近なぜか交通、観光分野にも手が出てるし。
 農業破壊にも熱心に動き出した。
 地球環境にやさしくを合言葉に、庶民環境のぶっ壊しに熱心であるようだ。
 もともと企業当初から無機肥料や農薬などで、人畜環境破壊工作熱心だったと指摘する人も多い。
 (この環境という考え方、ミリュウという思想自体がデジタル的でダメなんだが)

 最近なんて、「二酸化炭素出すからコメ作るな、息するな」、ってよ。
 環境言い出すと、そうなるしかない。
 ムーンショットというアジェンダ標語でもわかるように、日本にも、悪魔に取りつかれたような人がいっぱい、それも博士号持つような選ばれた人として溢れている。

 フランキストたちは、認識できる共有世界を、自分のこころにある(他者の)光で照らし、世を明るくしたいという。
 文明への牽引者、教導団のつもりなのだ。
 啓蒙の思いに突き動かされて、自分のこころの悪魔光が暗い周辺照らすのに極めて有効なので。
 優勢だ、と思っちょる。

 彼らは決して多数派ではないし、聖書原理主義者のkkkたちとも対立しているが、支配階級に属し、たとえば米国株式会社では世間の主導権を握ってしまっており。
 kkk原理主義のトラ派に対し、リベラル派の梅勢力だ、あるいはピザゲートやらかしたー派だと思っても大きな間違いではないと思う。

 彼らの主張は、しかし極めて一見現実主義的なのだ。
 本当は、アジェンダ的なのである。
 常に未来志向で、ファンタジー推進風に、予定企画的に動くのみだ。

 「目覚めよ」と、現実にある暗愚を拒否し、明晰判明な持論へと衆愚の覚醒行動を促す。
 必ず大衆扇動者なのである。
 そういった特徴がある。
 無知の知に目覚めてデカルト学べ、という意味じゃなくて。
 無知の知は軽蔑。
 自分の内なる心の光に照らして、衆愚を目覚めさせる役割。

 そういった<選ばれし使命>を実践したい。
 使命感の光に包まれている。
 中には、おれがメシアだ、というへんな輩までいる。

 目覚めよ、っつうのは。
 物理的世界と自己享有の現実に、眠りなどという邪魔な垣根はない、といってるのと同じなんだが。
 彼らの前には、宗教的な垣根なども実は、ないのだ。
 他の宗教尊重どころか、他の宗教一切を認めんので。

 (これで、他の宗教尊重をするかしないかで、踏み絵ができる)。
 (おいら、一神教宗教認めない、だから彼らと同じ?)。
 (一神宗教は一切認めんが、多神のお祭りは喜んで参加したい)。
 (悪魔が嫌いだからだ)。
 (悪魔には、自己享有の現実のみが、唯一の光の指導下にあるのみ)。
 
 彼らは、セルン実験場にシヴァ神の像を持ち込んで宗教儀式やったりもする変な連中なのだが。
 無宗教を主張する輩も多いし、既成の宗教組織にも縛られないだけじゃない。
 最先端の科学者や学者、思想家が多いのだ。
 未来志向でsfチック、かつシリアルな現実主義が特徴。

 過去に、カテゴリーの倫理規制からも離れて。
 今や自分だけの光の判断で行動している。
 超危険な一神教徒の典型なのだ。

 無宗教であっても、<自分の心の光>は決して手放さない。
 手放さんそれは限りある命の光じゃない。
 「無知な者は生きる資格もない」という、ガチの<知恵絶対>を騙る。
 光と英知を一体化させた、<英知崇拝の一神教徒>なのである。

 こういった人は、サイコパスだと、社会的に非難されることも多かった。
 非難されながらも、迷惑行為や啓蒙は逆にエスカレートしてきた。
 自己規制の垣根がなきゃ、感性も夢のファンタジー(幻想物語)も、なんにもないのと同じ。
 容易に<超現実的>にもなるのだ。

 地上にブラックホールを創り出そうと試みたり。
 (セルンで実際に実験したが、幸いにもエネルギー不足で失敗だったらしい)
 街中で、レーザー使って小太陽を光らせようと考えたり。
 (これはエネルギー問題の解決になるとか言って取り組み中)
 さらには小さな機械で地震起こそうと図ったり。
 (過去にニコラ・テスラがこれ成功させたという都市伝説がある)

 最近は、なぜか天文の施設をも軍事強権で制圧して観測規制したりもしてたが。
 雨降らせたり、台風の進路替えたり、気候の仕組み変えたり、だけでなく。
 太陽の異変を事前宣伝しといて、日付合わせて人工で赤いオーロラ作ってみたりの電磁波実験などもやってたことが、先般暴露された。
 気象や地殻変動などの環境いじりが、特にお好きなようだ。
 ミリュウーという幻想に囚われた悪魔たち。

 南極の巨大施設など特に有名で。
 資源探査や地中エネルギー利用だとか、炭酸ガス地中封入とかでも、いろんな理由で大々的に地殻穿り返してるんだが。
 実験やった場所近辺で大概群発地震。
 地中の流体つっつくのはいいかげん、やめてほしい。
 
 彼らには自分の心の光が、その知性への瞳着的意欲だけが、ある。
 超賢いが、単細胞人間ばかりのようにすら見える。
 それが証拠に、サーガもオシェーンもホメロスも顧みない、もっぱら未来sf志向一本やり。
 シヴァを祀っていても、古典のマハーバーラタやラーマーヤーナすら、科学再現の手引書でしかないのだろう。
 古代に失敗した人たちがいた?、なんて気にしてない。
 最近特に証拠いっぱい増えてきて怖いんだけど。

 彼らは地球が死に絶えても、選ばれし自分は永遠に再生する、と思っているようだ。
 永劫回帰認める派なんである。
 輪廻転生を完全に信じてるのも、彼らの特徴の一つである。
 スターチャイルドがどうの、とか、宇宙人のおとぎ話してるのも、たぶん連中の一派だろう。

 彼らは「自分の心から希望の光が溢れ出てる」、といい。
 「それが<他者>として自分に指示している」、とも言う。
 自分の内なる<光を見つけて>、それが<他者>であることに、気づきなさい、と。

 つまり目覚めなさい、と啓蒙への目覚まし時計を押し付ける。
 これが最大の特徴。
 あなた次第でほっとかない。
 巻き込んで、巻かれんやつは殺す。

 「自分の心から、希望の光が溢れ出てている」のがわかるんだと。
 「それが他者として自分に指示している」んだと。
 メシアの光が、こころにある?
 それが他者に選ばれる?

 こころは薄暗いもんなのに?。

 まあこれは、教団に入りなさいというお仲間勧誘だと過去には思ってたが。
 最近までオイラ、この「自分の内なる光を見つけて、それが<他者>であること」、なんて、まったく理解できていなかったことに気が付いた。
 享有の他者なんて、はっきりいって、わからんかった。

 他者は、他力じゃないんで、間違わんように。
 これって、じつに悪魔的なこと言ってんだと、気が付いている人も居はする。
 だが普通は、そこまで気づけない。
 逆に意欲的な人だと、そのまま彼らの洗脳に乗ってしまい、自分の内なる光を求めてしまう。
 それが実は、悪魔的なヤバイ行為に、直接つながっていくのだ。


 享有する他人、なんてのは、人格分裂してる、ということである。
 分裂した人格に他人が入り込んでいる。
 しかもそれが、光で命令していることになる。
 心に光が溢れるっつうのは、多重人格化する人格破壊病のことかもしれんのやが。
 病気と言うこのこと自体、はっきりいってわかってない。

 もともと人は多重人格を持つ。
 長いモンに巻かれて、言語思惟も一意になんとかまとめて、やっと理性的に生きているわけだ。
 一意にまとまんなきゃ精神分裂か多重人格といった、これは未知の心の病気になる。

 しかし言語や思惟のモーメントを切り替えることで、あっさり別人に成り代わることも心理学的にはわかってきた。
 指導し瞳着させる光が、享有の内部で人格を分裂させ、その分裂が理解させるのか?

 しかも他者に命令されることで、選ばれた特権享受身分を、他者から一意に得ることになる。
 そう、この他者というのは命令権者のこととなるのだ。
 つまり彼らに取っての、神みたいな最高権力者なのだ。

 しぜんと隠れなくなる、あからさまになるんじゃなくて、光に命令されて。
 強制理解に至り、一意に指導的地位を得る。
 これが、知的な瞳着行為によって、知性で起こる、というわけだ。

 こうなると、もう世間のしがらみは消え去って。
 親を奴隷にしたり、他人の首を採ったりもするらしい悪魔が、いくらでも出てくるのである。
 内なる心に、他者の光を巣食わせていると。
 それが、知恵の介入で、やがては悪魔になる。

 人の首採ったりは今では悪魔のやる事。
 神ならぬ悪魔。
 最近もどこかで、こんな事件あったな。
 親が奴隷に使われて、一家全員逮捕されてた。

 しかしどこからこんな<悪魔的>発想が忍び込むのか。
 それが光というもの。
 「自分の心から希望の光が溢れ出てて、それが他者として自分に指示している」ことの、この意味を、本質を明確に分解分析していけば、解ってくるかもと思う。

 ただ、本質明確にするといっても。
 教団に入ったらどうなるか、といった社会学的手法で、外部から考察するんでは無意味。
 洗脳のモトとなる、享有する<心の解明理解>の、解体工事のほうを、内部からやっていきたいものである。

 これは心理学じゃない。
 オルガノン風に哲学的に解明したいんやが、難しいだろう。
 「自分の内部の心の内なる光が、享有者にとって他者」、の解明。

 これはまさに、無知や空虚でない<積極的な輝きを持つナニカ>が、自分の心の中に居るということ。
 それが<共有世界に出ていきたがっている>、ってことを言ってるわけだ。
 本稿は、その出ていきたい<光の破滅>を示すのが目的となるだろう。
 ハイデガー先生の基礎的存在論を真似した、破綻的手法にしたいんやが。
 もう泥沼感じてる。


 さて、人の心の動きというものは。
 1:(ポシィブに積極的に)、<見る者>と。
 2:(ネガチブな反省による)、<見られる者>とで、できている。

 (普通はそこまで気が付かないが、この見る、見られるはデカルト先生が哲学的に見つけた科分類。)
 思惟の感性的モーメントが、お互いに逆向きなのである。
 が、両者はもとより同じものである。
 ネガチブに反省しない人にはわかりまへん。

 これは一意がある、という意味ではない、のだ。
 心はもともと無数にあるんやが。
 それは一意に偏って絞って見れば、ってこと。
 しかも必ず、心にはポシティブ・ネガチブの両面性が属している。
 積極的な明と、消極的な暗も、必ずある。

 <心理>も<神経>も<倫理>も<道徳>も、これは、見られる反省者のほうがモトの、ネガチブな理屈で出来ている規範類、なのだが。
 それが全く、反省する自分なくば観察者からは見えてこないのが普通。
 神経なんか、ポシティブにしか理解されてないんでは、理解のしようがない。

 ネガチブ見えないサイコパス連中が、結構多いっつうことと。
 生きたものとして見ようとしてない、つうこと。
 あいつは神経がない、道徳がない、といったりするだろ。
 道徳は徳が書かれたものだが、それなしに社会は、できない。
 道徳追放社会は破滅社会だ。

 西洋ではネガチブな面を見てないので、場を読めないだけでなく、意味が変わってる。
 まあ、無反省な人のことをサイコパスと言うんだが、これは衆愚が上司を憶測の言葉で表現する言葉なのである。
 ポシティブ一辺倒の共有人間が、多く生存競争を生き延びてきたので、これは西洋では宗教教義にもなってて。
 プロテスタント社会では特に、サイコパス的な共有契約しか認めてない。
 そういう事実がある。

 自己享有については無反省という特徴を、フランキストは全員モロに持つのだが。
 優生学が彼らの階層社会を統べているので、ほとんど問題ないのだ。
 西洋も、東洋も、今は階層社会である。
 自己反省も必要ない、というか、ネガチブだと頭から否定されるのが普通。

 反省というこれらはもともと、<自分個人だけに向けられている>ものだからだ。
 階層社会では無用の長物。
 つまり必ず、<ネガチブもの>なのである。
 反省は、享有の自分に対する働きのみ、であって。
 他人に対する共有なんてのとは、無関係なはずなのだが。

 反省のない人は、それにまったく気が付かないですむように社会ができてる。
 なので、ネガチブなすべてを嫌って排斥してしまうような単細胞人も結構多いのだ。

 自分の心を深く反省しない人が多い、というか。
 いちいち反省してたら、庶民奴隷は生きていけなくなるのが普通なんで、特に。
 自分の生存に対しては、こういった反省的態度自体が<ネガチブに働く>。

 なので、気に入らんから芽を摘んで、締め出したい人も多いんだろう。
 オイラも、最近締め出されかかってる?

 こういった心の働きの規則を探り、その理(ことわり)を想定し、反省理解する学問、が、心理学?。
 だから心理学では必ず、自分が締め出されないように目的を持つのだが。
 だからだから心理学は、突き詰めれば誤謬(目的)を基礎とした、形而上学となるしかないのだ。
 科学には、いつまでたっても、なりまへん。
 科学のそれでは、心をあらかじめ締め殺してしまうからだ。
 殺す実験もできんのだ。

 なので、享有反省がまるで見えない人が、心理学なんてやっても無駄なはずなんだが。 目的に修辞学的に、これが大そう役立つんで。
 心理学は、消えた哲学とは違って現代では大盛況である。
 実際には心理学者が道具的に悪用されてる。
 つまり悪魔に利用されてるだけなんだが。

 享有ということ自体に一切気が付かない学者も、結構多いはずなのだ。
 えらい学者にも、この反省能力ゼロの人のほうが、たぶん多い。
 賢い人ほど、その無反省傾向が強いので、益々偉く見えてくるからだ。
 反省者は卑小に見える。

 現代の心理学は、もはや形而上学ですらなくなっている。
 つまりカント先生の、<心理学は形而上学だ>と言う意見は早々、成り立たない?。
 形而上学どころか、もはや科学技術だ、とまで主張する輩もいたりする。

 なので、ネガチブ部分などは、もともとまったく見てないし、気にもしてないのであることが逆に、それでわかる。
 この部分加えて見て、初めてオルガノンが見えてくるはずなんだが。
 オイラにも、オルガノンは超薄暗い。

 ユダヤ人学者のフロイトなどが、自分ではネガチブ部分全く見えないけど、そういった領野がどうやらあるんだ、とは、気が付いてた。
 気づいても見えてないんで、イドの欲望充促指向が人の心理に隠れてる、というへんな隠れた理論になっちまった。

 その、心に伝わる、神のごとき感性の様態のさま、との連絡を。
 見えてない享有同様に、科分離して殺し。
 科学的に技術目的想定して、シャフト体系に受け取り直しして繋げたのが、神経(作用)というべきか。
 神経はもはや、ポシティブな作用としてしか把握されてないのが普通。
 ネガチブ面は顧慮されないし、構想する主人だとは見なされてない。

 一方、心を自己規制して閉じ込める、カテゴリーの身体制約的ふるまいがある。
 これが倫理(作用)というものなんだが。

 こっちも科学的に考えると、殺して振る舞わせる、ので。
 倫理ではなくなって作用になっちまったというわけだ。
 倫理風の、公共のエチケット自主規制、というべき、へんなもんになった。

 享有専用のエステチカは、一時は美学とも言われ検討されたが。
 結局理解できる人も減り、公共のエチカに、つまりエチケットになり下がってる。
 これはスピノザやシェリングがそうさせたのである。
 そないなもん、ないんやが。

 倫理というこれを、享有の専用物だと、まるで理解できん人が学者やっとんので、すっかりおかしくなってるのだ。
 
 心の道や人の徳といったものを、倫理に沿って記述し、伝え、目的ブツとして、そこへの徳の道を他人に示す、のが、道徳(記述)なんだが。
 これも、徳にではなく、欲得の、<得>になっちまってるようだ。
 儲かる事。
 道徳は、価値観などとはまったくの、お角違いのものでっせ。

 これは現実の徳、ヴァーチュにつながる。
 価値ヴェリテには、直にはつながらない。
 ヴァーチャリターなものとなっちまうしかない。
 (ヴァーチャリターはドゥンス・スコトゥス博士のスコラ学です)

 価値には最後に感性でつながるが、それはネガチブ部分で見えてない。
 正しくは倫理的に、つながるのだ。

 科分離して反省的に考えれば、心は<享有品>であることになる。
 このオイラがずっと言ってきた享有、というのはしかし。
 科分離しての考えかた。
 間違えた考え方のはず、なんである。

 科分離後はモノ化し、殺された享有品であるので、価値ヴェリテは表向き、何処にもない。
 自分自身のみに向けられた、反省ものとしてのみあることになる、実にへんなものだ。
 すべてを対象認識的に考えれば、そうなっちまうのである。
 反省して初めてわかる、理解できるもの、だからだ。
 しかし反省では、残念ながら目的が極度に曖昧になり、やがて理解されて消える。
 しかもこっちのネガチブな領域は、普通は、ほとんど見えてないのである。


 ところがだ。
 フランキストたちが言う、科分離したこころの瞳着光は、ぜんぜん違ってくる。
 ちょんぎった首のようなものとして、命令しギラつく。

 ネガチブ領域のそれとは全く異なって、しかもポシティブ一辺倒のものだ。
 そういった、積極かつポシティブなものを、自分の心にまず、自分で見つけさせる。
 この、自分で見つける行為はネガチブな部分もあるので、そこは一切問題にしない。
 これの後の一連の行為を、「目覚めさせている」、と言ってるようである。

 見るものと見られるもののうち。
 見る、というポシティブな行為だけを、享有部分として科分離反省させて。
 ネガチブな反省部分を殺し。
 ポシティブだけになったそれを、心に<瞳着>させて共有確認させておく行為。

 これがまさに<知的な認識>ということなのだ。
 英知が光り輝く、その光部分だ。

 科分離認識の、極めて本来的な部分だろう。
 つまり知的な認識は科学の本質。
 それは光り輝く英知。
 但し、他者。

 ポシテヴな、見る行為のみを、瞳着的に反復させる。
 決して反省させはしない。
 反復、繰り返しをさせることで、瞳着を完全に補完できる。

 つまりフランキストたちは、享有の部分の図式的反復権能を認めるのではあるが。
 これに対して、プロテスタントたちは、教義上全く図式的反復は許されてないので。
 同じ無反省であっても、中身がぜんぜん違ってきてるのである。
 プロテスタントの場合は考えず、ここでは、フランキストだけに拘って話したい。

 フランキストがやる啓蒙は。
 古い郷里から出ていきたがっている、新しい物や華やかな光物を見出すのが最初。
 その光を、まず自分の中にハッキリ、繰り返し、見つけ、みつめさせるということ。
 反復させる。
 反復させて、一体の<瞳着的認識>に持ち込ませる。

 おらあ東京さいくだ、といった意欲を導く、その<憧れの光>をみつけ。
 (これは幻影、ファンタスマなんだが。)
 それと一体に<瞳着>させる。

 つまりこれが、<知的に認識>ということなのだ。
 知的な刷り込みをやるわけなのだ。

 次に、それを共有のものとさせる行為は。
 これに、<文化>や<道徳>や<宗教>を、図式的に使ってやるのである。
 人間間のコミュニケーションを、そのマイナー部分を見せずに利用する、わけだ。
 但し積極的にのみ関与させる。
 ここが大事、ポシティブにのみ関与。

 文化も道徳も宗教も、ネガチブな部分をもろ含むのだが、それがまさに図式部分なのだ。
 それを見させない。
 その図式を一切見えんようにして、ポシティブ部分だけ、にして。
 その享有品を、共有で認知できるようカルト化する。
 これが(宗教教義化する)作業のこと。

 これは図式の自動反復が、勝手にやってくれる。
 修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ、というあれだ。
 讃美歌を歌わせ、お経を唱えさせる。
 そうしないことには、共有化したことにはならない、からだ。
 だから<文にしたため>、<道徳として教え>、<宗教教義として固める>。
 もちろん積極的にのみ、やるんである。

 同じことを反復して与えている。
 但しポンと与えるのではなく。
 文明へと啓蒙することを通じて、アジェンダ的にやる。

 ここで図式化に利用されているのが、享有にある感性という原料ではないのだ。
 外部から(その共有社会に)、他人によってもち込まれる、先の知性なのである。
 知性の瞳着<権能>を、<よそ>からやってくる、と考えさせるのだ。

 彼らは知る事、理解することを、神の<特権>だ、と思い込んでいる。
 自分がやってることだとは思っていない。
 瞳着して与えられていることだと思い込んでいる。
 なので、享有人が固有の知を持つことはないのである。
 知恵はよそからの借り物でもなく、即神、なのである。

 <かむさった>過去のご先祖の、もはや霊界におわす神ではなくて。 
 よそから現実にやってくるポシティブな、知的な光神。

 カトリックなどでは恩寵という言葉を使うが、こっちも神の側のモノだ。
 人の側の感性じゃない。
 神の特権が外部からやってくると考える人もいたらしい。
 (スコラ哲学などから批判されたスコラ学のグループらしいが)

 瞳着して知る権能が優生学的に考え出され、これは<目的>を導くことに使われる。
 いわゆる知性の、その権能発揮によって。
 享有認識の・・・である、という現実を、社会的に伝達・共有することが必要とされ、知性の働きで、神の瞳着行為で可能となった。
 と彼らは考えるのだ。

 享有認識が共有認識となるためには。
 まず文や歌が。
 そしてそのカルト化が必要なのだ、っつうこと。
 さらには知的な<瞳着>が、これは必須の実践行為。

 ここで悪魔が忍び込んでいるのである。

 享有を共有化する実践の過程において。
 悪魔の光は、人と同じく共有へのこれ実践をやり、文化を道徳化し、それを宗教教義にする。
 だが。
 享有のある人とは違って、しぜんな(隠れてない)規則や倫理カテゴリーなどには悪魔は頼れはしない。
 だからこれを、自分固有の独自の<力で>やろうとするのである。
 まあ、そういう存在者を悪魔、っつうわけだ。

 <表象>と言う言葉がこれを可能にさせている。
 表現ではなく、表象。
 みられる反省抜きのネガチブなもの抜きの、瞳着的力。
 ゲバルト。

 たしかに図式を使うのだが。
 その時すでに自分の享有する希望の将来的光とは違う、別の、<共有の英知光>が忍び込んでしまっているのだ。
 が、図式はもともと見えん形式(構想力の事だから)。
 なので、ここで詐欺られてしまうのである。


 力、パワー、ゲバルトの共有的本質は、形容と力関係ではなく、構想力である。
 図式である。
 そのことが、わかるはず。

 悪魔の本質はゲバルトとして認知されているが。
 共有へと侵入した図式(という自己瞳着した光)が認知させている。
 活きたこころの、宇宙規模の写し絵、ファンタシアなのだが。
 そのポシティヴな面のみが、知性によってうすっぺらく瞳着され、表象されるのだ。

 文明というのは、その薄っぺらい構想力がもたらす<将来企画>であり、導き手だ。
 文明への、鬼道ならぬ魔道企画でもって、光の共有化を導こうとする啓蒙運動だっつうこと。
 そういった事を十分自覚していて。
 しかも<自分の力で>それをやる者を、特に<悪魔>というのだ。

 隠れ無き事、でやるんじゃなしに。
 つまり自然がやるんじゃなしに。
 ゲバルトで、その構想力の力で、やる。
 実施者は他者、命令権者なんである。

 これはつまり悪魔なんである。
 物理学でも、よくこの概念は出てくる。
 ・・・の悪魔、というあれだ。

 悪魔と言うのはオイラたちの文化では、個々人にとって悪さする、麻を被った鬼の種族のことである。
 別物なんだろうか?

 悪いというのは、個々人にとってのやはり享有概念であって、決して共有認識のものではないのである。
 あくまで享有の、自分だけの概念で、おいら、にとって悪い、だけなんだが。
 文明へと希求する光が、鬼道ならぬ魔道で示され、共有化へと導かれる。
 独特の悪魔的特権、その道が、ここに作られるので。
 たぶん同じものだろう。


 *やっと悪魔出た。先は長い。







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最終更新日  2024年06月10日 09時53分09秒
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