トピカ解説の途中で脱線、泥沼を驀進迷走中。
<内なる光の問題>2
「自分以外の一神教徒の神を、排斥する目的で悪魔と言う」という俗説がある。
一般に認知されている意見だが、悪魔擁護とまではいかなくても隠ぺい目的の意見だと思う。
この俗説ではすべての論議が共有のものとなり、悪魔が享有の他者ではない別物となる。
光の他者の正体が見えなくなる。
そもそもこれでは、享有という概念が、まったく何処かへ行ってしまうのだ。
文明的教義にもっていくために出した意見、としか思えない。
衆愚にそう理解させようと(悪魔が光って)誘導してるようだが。
これは、しぜんな規則や倫理カテゴリーの隠ぺい行為として、悪魔的に物語的に働いてしまっているということ。
つまり宗教カルト者の、共有教義普及上での意見だろう。
多神教徒の関与というのは疑わしくなる。
そうではなくて、悪魔は<個々人のこころに唯一者となって巣くう他者>だ。
しかも<享有の中にこそ見出される>。
悪魔は他者の持つ、共有的な、ごく知的な光なのであるのに。
その光はしかも、自分でしかわからんもの、享有する光なのだ。
つまり享有知ってる反省者にしか、悪魔の光は見えんのである。
さらに切実な身の危険を感じないと見えん。
享有者の<文明運動>の、その心に持つ光明自体が悪魔光、なんで。
世の悪事は、悪魔が悪の張本人、なのだが。
悪事はなんとか見えても、悪魔そのもんが見えてない人は実に多い。
文明運動には詐欺的陰謀があって、広く一般的に仕掛けられてもいるからだ。
人は、文明が目的で生きて来ているのではない。
あくまで自分が生き抜くために文明の持つ力を利用したくて、やむなく文明人やってるにすぎんのだが。
それが悪魔行為につながっている。
それも見えてない。
共有社会での優生学確保が、もう目的みたいになっちまった。
じつはこれも、力を利用した宗教的将来企画へ導く、悪魔の狙いだったのだ。
現実ということの、黒塗り隠ぺい行為予定企画、なのだ。
公人情報漏洩阻止とかいって黒塗りを命令する人は、必ず悪魔の心を持ってやっている。
法律が悪魔なんじゃない。
個々人の、本人の心が悪魔。
内向きに誤った、反省に思える思惟させて、見えんなって来た目的に摩り替えさせる目的の、摩り替えというのをやるのも悪魔の特徴。
つまり論点の摩り替えなどはモロの悪魔行為なのだ。
目的のすりかえこそが、目的だ、っつうわけ。
なんかおかしい。
なんか被ってズレてるだろ?。
悪魔の特徴。
文明の<力>によって、その光明のものに発明させたパワーやゲバルトがある。
それを利用するのが悪魔本人なんだが。
享有概念は目的が曖昧なので。
反省的思惟やってると、自分が、わからんなるはず。
力を文明で利用するには、鬼や悪魔利用で<優生学>的にやるのが普通だ。
悪魔利用されて目的が遂行される、という、それだけの話ですむことだが。
そういう話にはさせない。
虚偽の反省を促し、心に入り込む。
これも悪魔の手なのだ。
実践遂行のモトとなった、心の享有の光があるが。
それが他者として命令するようになるのだ。
この享有する他者の光のこと、その享有における命令権者をこそ、悪魔、と言うんであるが。
自分が命令してても、それが自分だと、見えてない。
享有者が、享有の自分の心を十分把握してない。
パワーやゲバルトの、短絡的な利用による権力奪取目的の殺人行為を、<戦争>というし。
戦争は悪魔的な文明のやる実践行為なんで、<これ自体が犯罪>なんだが。
一般には、そうは見せてない。
そういう反省はさせないのが、他者の光。
悪魔は、その戦争に、企画段階から介入し。
それを引き起こす張本人だと、希望の光なんだと、自ら主張しているはず。
つまり「享有企画であり共有企画でもあるものなのだ」、と言うはずなんだが。
つまり表象ファンタシアに忍び込む、オレが文明の<力の本質>なんだと。
そう言ってるわけだ。
ちやうやろ、目的かませて、差し替えさせた、だけやろ?
虚偽の反省を促すことで、人格の中で自分の立ち位置をずらせているのである。
麻を被って化けているヤバイ鬼人格。
これが悪魔の特徴。
まさに、知性の光として振る舞う文明の力のことを悪魔力というのだが。
そして科学技術の光も、そのおなじものだが。
感性の力ではなく、明らかに侵入した知性の力のほうなのだが。
(この分け方は科分離認識である)。
見えない純粋な鬼道の力より、見えてる悪魔の力が強いと思わせている。
見えない文化の感性的な力より、見えてる知性のほうが、選ばれし優生学的には力が上だ、と。
そういう発想を、ここに光でねじ込んでいるのである。
それが悪魔。
そういう享有概念に忍び込みねじこむ<共有信仰啓蒙運動>の事を<文明>といい。
ここに自分から、光る悪魔を担ぎ出して、彼を指導者に選んでしまうようにする。
理念命題としても働くのである。
文や歌でもって、その固有の感性の規則や規範、カテゴリーで、いちいち範疇建てて薄暗い一人一人の自己を動かすんではなくて。
十把一からげで、強引にねじ込んで共有の死体にする。
つまり、「こころに見えない鬼の力の介入」じゃなくて。
目に見える文明光である。
命じて殺し、死したこころを動かして乗っ取る、それが悪魔。
悪魔は、それらこころを陰謀利用して、科学技術力の発動で目的に導くのだが。
導くには、<知性の光>こそが積極的に使われる。
その知的なパワーが必要なのである。
知力があれば、しぜんと力ある者が優勢で立つようになる。
そのために一流大学がある。
「悪魔は、ネガチブな闇だ」、と思っている人多いが、まったくの逆なのである。
ポシティブそのものの光。
これが、知性の文明的な光、つまり科学の光が、<暴力的に>自力で投入される。
それをこそ、悪魔の発動というのである。
力、ゲバルトは、ほんとうは単独の享有命題ではない。
共有のエネルゲイア、つまり<力関係>であって。
<形容>とともに対概念だ。
これはしかも、共有間オンリーの科分離的考え方の、さらに命題ものなのだ。
拘ってはならないと警告された無意味な物。
オルガノンの真実ではない、し。
自分だけに有効の享有のゲバルトなんて、じつは、ナインであるからなんだが。
ゲバルトは、必ず共有。
そしてみるものもみられるものも、もちろん双方持つんだが。
力関係というからには、共有で終わらないお互い様のものなんだし。
ツノ隠してりゃ鬼も見えん、家内同然のもんだ。
光も、ほんとうは、闇と一対の存在なのである。
人の享有認識なのである。
あえて科分離して理解しようとしているだけだ。
だが、力関係を持たされている、変な、ずれた命題ものになっているのだ。
光をうすっぺらく関係性で見てるときは、その闇のほうは全く見えてない。
それだけだが、闇が別にある。
その闇なしに光と言う。
これだけが軽薄に振る舞うと。
<選ばれし力の享有者が持てる、もとの力認識>、感性的なナニカとなるのかも。
選ばれなかった、非力の享有者など、いなくなってしまう。
おいら選ばれなかったのでわからん。
しかしこれこそが、<一元的思惟における悪魔的思考>というものなのだ。
その<力関係を、優勢的に取り仕切る>のが、唯一の神、というわけ。
悪魔の上に神がいて・・・。
これはダメな、破裂してる優生学だと、誰でもわかるだろう。
一元にしていくと、神も悪魔も、同じ穴のムジナ、になっちまうのだ。
だから光の悪魔に通じてるフランキストたちは、神も悪魔も同列の扱いをする。
早い話、どっちも見ない。
無宗教者が多い理由だ。
しかし注意してりゃ、同列の扱いだとわかる。
より力のある唯一神を頼って、拠りかかろうとしているだけだが、その弱み見せん。
これが、<こころの内で導く光>、その役割、だってわけである。
享有において、なんと光は固有の役割を、あらかじめ持つのである。
ねじこまれたものではなくなる?
光は、オイラという享有の、個々人の感性が、認識や理解につかうものだ。
これは「英知としての道具」だ、と彼らは言うわけ。
じっさい認識の光、撞着の光、これらはまさに英知そのものの働きだ。
ほんとうは、英知を用具的に使おうとして、逆に使われてしまっているだけなのだが。
ネガチブなそこは、見えてない。
その部分は見えてないと言うより、ネガチブ面はもともと一切見ようとしてない。
ウーシアの物事を、ポシティブに認識できるための、<権能利用>もの。
目的としての光。
これはいわば自分の、<ポシチブな部分>のある事、であって。
この・・・である、ということや、認識ということや、感受性のモトとなる、未知のめくばせもの、でもあるんだが。
つまり・・・である、の、<在る>、大事な部分なんだが。
この、・・・であるは、おいらのみに意味のある同義反復。
しかも目的を持たないのである。
その目的を、光に委ねると言うより、積極性に任せる。
目的が絡むということは、共有化するということだが。
光は享有の感性だから。
光に他人は、もともとは関係なかった、はずなのである。
それが、目的を光主導とすることで、一切を光に委ねることで、関係ができる。
関係となる。
つまり他人に対しては、本来ネガチブに、<闇の鬼道のみが働いている>のだ。
それが普通。
だから悪魔は、それが見えてる人には、闇の大王などとも呼ばれるんだが。
フランキストたちには、こういった一連の事情が、一切見えてないのだが。
しかしこれ光は、フランキストにとって<知性の光>。
希望の光そのものなので、<ある>。
文明の別名でもある、優生なパワーの持主であって。
同義反復の、<積極的な将来的共有の光>でもあるもの、なのだ。
崇拝の対象となる。
法王庁における悪魔芸術の数々がありありと見える。
そんな将来的<導く力>を持たされた光だが。
しかし倫理制約のないメタバシスな世界の、悪魔使いのフランキストたちには、中性の光としてのみ見えているようなのだ。
彼ら自身は光に囚われないし、光を中性的にのみ、つまり純粋に捉えているのだ。
なので、「心の内なる他人に気付け」と言われても、連中の言ってることが普通の人には皆目、わからんのである。
気にしとらん人が多いのだろうとは思う。
おいらも長い間、この意味が、わからなんだ。
「心の内なる光としての他者」を騙るフランキストの命題。
つまり、この特定の人物のこころに、<目的を>ずらして植え付けられた導く光。
悪魔の実現。
それが悪魔の、他者の<目的>なんであって。
これは、<人の目的やないんである>。
これって、同義反復の<命題植え付け>、なんやけど。
<人知の及ぶ発想ではない>、っつうこと。
悪魔的発想の(素晴らしい)発明品。
こころの内なる光が、悪魔人格に操作され、ほんま直に使われているのは事実である。
決して共有化されない享有もののはずだが。
それを他者としてムリに共有させる力を悪魔は持つのだ。
心身一体のオルガノン的に共有させてる?
ちょっと違う。
そうすることで、<目的には使える>んである。
オルガノン的には道具的関係を築くだけだ。
目的に使うことで、じつは<目的が使う>、ことにもなるんやが。
ここにも悪魔特有のの発想があって。
(プラグマチズムが出て来たそのモトの意味を考えている)。
それは心に見る、ほんものの心の、ポシティブ光なのであって。
人の、命の別名でもあるもの、なのである。
人の存在理由。
その問いかけ(形而上学)と将来企画、命のつながり。
同様に、悪魔の存在理由は?
そないなもん、わかるはずもない、だから悪魔的。
目的の一部理解してマネできても、おいら悪魔じゃない。
しかし共有化、文明化で。
これが、共有文化の持主が、悪魔に豹変するのである。
それが文明化ということだ。
目的に使えるものが、ズラされて目的に合わせ、悪魔に豹変する。
文明化は、文命化と書くと、わかりやすいかも。
実は命はもともと、彼個人の享有してきた自分のもの、のはず。
見えていた過去享有認識でもあるもの、なのである。
限りある身体の、時空モノ。
その自分という光であったはず。
これが共有品の、しかも中性の「他者」扱いとなる。
どこかで<他者が忍び込む>のだ。
そのことで、文で命を得て、他者は悪魔に変貌しているのだ。
享有の感性的な力の役割で。
物理でいうところの光も、じつは同じ振舞をしている。
だから科学的発想と悪魔的発想は、十分関係がある、と言える。
享有に属さないまま、連中(科学者にもフランキストにも)には中性的に扱われるので、同じものだ、とオイラたちにもわかる。
彼ら(科学者には)には、おんなじ科分離された<中性もの>とみえるのだろう。
もの、の本質ということ、だ。
質料ゼロの<もの>。
波だか粒子だか、わからん対象ブツ。
光る他者。
それが、フランキストたちが自分の心の内に持つ、現実を照らして見せる、こころの英知の光。
これは観察者の感性に属さない、他者なのだ。
物理学的には(物理学は科分離認識なので)光はなぜか質量ゼロとされている。
ほんとうは、その実在すらわからんはず。
同定なんぞ、ぜったいできまへん。
英知の、その理解や認識のモトの命題、だからだ。
だからどうしても、英知は中性的な扱いになるしかない。
光も同じ。
ウイルス概念などと、光は、ほぼ同じ扱いといっていい。
詐欺師専用の、騙し用の扱い、悪魔的振舞なのである。
それが、その光がここにも、科学にも堂々とあるのである。
信仰する神を、人の有限な心から超越させて中性に仕立てた、それと同じ。
騙しの魔術が、ここにあるのだ。
魔術は必ず悪魔的騙しであるから、だから魔術と言う。
本当は、特定の誰か(権威者)が、自分の感性的な<享有感覚>を述べちょる、だけだろうが。
他者の知性瞳着<文命>を述べてんじゃないはずなんだが。
しかし文明を述べることで、ズレて、これが世間に通用する。
それをしかも<他者の知性瞳着にする>ことで、悪魔が目覚める、ことができる。
その根拠に光がある、と。
これは照らされてて、明るい、と、みなせる。
しかもその光は必ずパワーを持つものとして、しかも(ネガチブ側からみえてないままに)認識されて権威を持っているのである。
コヒーレントな光は実際、人を火傷させ、あっさり焼き殺す。
輸送機にも搭載されて、町ごと焼き尽くす実証実験も成功した?。
レーザーではないかもしれんが、おいらわからん。
他者である自分の姿を、熱やエネルギーに、磁力線にすら変え。
大地をも揺り動かすのはすでに事実。
光ってえのは中性の架空導入品であって、質量ゼロ?
ではないんやないけ?
こういった疑問がわくはず。
波と光の関係は?事実が見えん。
ここに、騙し、が、詐欺があるから、悪魔が居るから、そうなるのである。
光は実際、人を火傷させ、焼き殺し、火の旋風の柱として君臨する。
そのことを忘れんように。
人に害を与えるこれってのは神ではない。
悪魔のやる魔術の特徴なのだが。
事実が一切見えん。
光は質量ゼロのはずなのに。
それで簡単に火傷させ殺すなんて、ホンマ、おかしいやろが?
質料のエネルギー転換とかいわれたら、わかった気にはなるが、質料ゼロなのに、そもそもフォトン粒子が”ある”って?
なんのことやらわからんなる。
つまり表象ではなく、いつしかファンタジーsfになっちまうのだ。
またファンタスマの世界に連れ去られる人も、でてくる次第。
ファンタシアがまったく見えてないのだ。
実に不可解なものが、光という悪魔の(ネガチブな見えてない)力である。
物理学的にも、じつは光の正体なんて、まったくわかっていないんである。
力、エネルゲイア理論そのものなんて、ことさらなのだ。
アリストテレス先生は、全く理解されていない。
しかもこれ無かったら、物理学自体が成り立たないのに。
エイドスとエネルゲイアという、アリストテレス先生に帰される二つの命題は、これも解っていない。
理解されてない。
物理学でも、4つに分離した力の統一理論化は、多次元の数学使っても、できていない。
そもそも物理学自体が、わかるためのもんや<ない>ため、ではあるんやけど。
そのことも無視されて来た。
物理学は物理力命題の合目的再現技術なので、命題がわからんのに、その技術が完成するはずない。
テクノロジーで心構えさせて騙して、解ったと思わせてるだけだ。
宇宙論などの形而上学で解って初めて可能となる、マシーナリー技術がモトで。
現代のテクネーは心構えのものやない。
科学は、科分離によって可能となった、<目的再現>の将来体系。
<指示書(ノート)反復>のための、科分離技術の(殺した時空の)アルゴリズム体系なんやが。
そういった事実をも、文明志向の悪魔が黒塗りで隠す。
隠す役割すら持ってるのである。
生命の多くは、じっさいには、自分を隠さず光る、のであるが。
スタップ細胞が、見つけてくれと光るように。
無機物であっても、たとえば放射線なども、自ら光る。
これは力を放射している、と言われる。
じつは、表象させ共有へともたらせるている、力の発揮。
他者を文命化させ表し、象示させている、そのこと、なのだ。
目配せ、なのである。
ズラせている悪魔の権能が、ここにも働いているのだ。
ルシファーは、つまり「光る」という動詞ではなく、悪魔という名詞なのである。
命題なのである。
ここには名詞の<他力命題>がかくれている。
光ることの認識も、本当は人の感覚なのであるんだが。
つまり動詞や、副詞のはずなんだが。
それ無視で。
科分離し、対象に合目的に殺し、そこに置いて、無理に<他者共有>させているのだ。
かくのごとく<文命化>している。
悪魔が、優生学を発動させていると言える。
優生学で他力命題で名詞的に扱われ、それが<ある>、ことにもなっちまう。
ある、ってのは、もともと<享有命題>ということなんやが。
<命題だから無意味>、を利用してるんやけど。
現実の光はズラされてしまい。
熱とか力に簡単に分岐し、変容する物理的な、へんな魔術ものとなっている、わけだ。
知識として瞳着させて、共有できる「表象」へと、もたらせている。
認識の力。
これが<知的な力の他者>に向けて、合目的に仕立てられてある、のだ。
つまり<共有へともたらせる、他力>へと、仕立ててある。
魔法陣へと仕立てられて自分で立っている。
つまり光というのは本来。
知性が心身一体で享有・共有ともに<有を認める、その命題>にすぎんのである。
それだけの、じつに無意味なものだ。
科分離して導入した、知性がやる、自己<瞳着的な悪魔的命題>のこと、なんである。 見えてるモノ。
ズレた虚偽命題のもの。
つまりこれは(悪魔命題は)、文化ならぬ文明(文命)のものの、はず。
光は、質量のある対象としては指し示せないのだが、知識命題としては示せるんで。
同定できんでも、そのまま<あるんや>、といっとるだけ。
つまり有を主張するための(うふぉ)的導入ブツ(時空)なのである。
ローマ、西洋的な意味でのファンタシア。
古典ギリシャのトピカ的な意味での成果。
中性的に、表象がなされているのだ。
享有・共有と、知的認識はここに二重化して、一体となっているように見える。
だが。
享有も共有も、実はもともとは同じ、心身統一のはずのものだ。
そしてファンタシアも必ず、ポシティブ・ネガチブ二つモーメント思惟を持つ。
中性の表象とは無縁なもののはずなんやけど。
思惟のモーメントが、ポジ、ネガ逆向きで違うので、モーメントという科分離した考え方で統一のようには見えんだけで、別物扱いとなる。
しかし観る者は、同時に必ず、観られる者でもある。
これは感性の反省ものを含むのだということ。
その反省を、<知性の光>の表象で眩惑させ、悪魔は<騙している>のだ。
<他者という、心の内なる光>がまさに、これだ。
他者としての、悪魔ルシファー。
光は、感性と言うより、知性の対象モノとなって、ズレている。
つまり表象されている、わけだ。
しかもこれは、享有する感性でもあることを、捨ててない。
二重化を、じっと暖めていて。
その逆向きモーメントの様を(つまりネガチブな反省を)隠して見せない。
しかも表象なのに、享有に対して働くようには中性的ではない。
そもそも表象は、享有させようとしない。
ネガチブな、共有的パワーのみを発揮させようとする。
それが、他者としてそこに<ある>、ということの意味だ。
時空を偽装し支配する、その役割なのだ。
他人なのに、此処に・・・享有・共有にある。
それは時空をこそ仕立てているのである。
だから質料ゼロの光は、悪魔として振る舞えている。
はっきりせん、内なる光の、しかも共有の説明なので、ホンマにくだくだしくなるが。
悪魔ルシファーってのは。
そんな、<自分であって、他者でもあって、命令する光の事>だ。
これは仕立てた魔法の時空をもち。
つまり感性のモーメントを<自分の力で>無視した、<知性の力の事>瞳着の事態のことなのだ。
時空と自分の力は、同じものについて命題的に述べている。
光は時空をも持つ、(享有なので)。
知性が目指す目的、そのものとなり切り。
目的達成までは、この構想の光は、しかも享有させない。
つまり欠如態を示させる、のである。
欠如愛というべきか。
それは哲学のフェチ愛とはぜんせん違っていて。
エロースとしても振る舞っている、ということ。
だからこれをもって、悪魔は「肉体の悪魔」と呼ばれたりもする。
肉体の感性の事いってんじゃない。
一神教的精神の事いってんだ。
動物的な、心身一体の肉欲の事いってんじゃない。
フランキストたちの高度な精神構造について述べている。
高名な古典にある、ファウスト博士のベアトリーチェへの愛を考えていいだろう。
あれは世間が言うような、清純かつ純粋な愛、なんぞではない。
そもそも中性的愛じゃない。
精神のモノであるのは確かだが。
清純とは真逆の、極めて悪魔チックなエロース的知性愛なのだ。
悪魔と取引した肉体が、悪魔を出し抜くファンタジーということになってるが。
悪魔主義者の手にかかると、精神的な主題がファンタスチックに語られる。
小説にあるとおり、悪魔がファウスト博士と取り引きし、主人公の彼を導いている。
ゲーテ自身は高名なイルミナティで、グランドマスターであったという事も言われる。
しつこいロリコン犯罪ストーカーで訴えられてた男で、ピザゲート級の犯罪をもみ消せる権力ももち、なおかつ超賢い世界規模の大文豪。
つまり自分で悪魔との取引経験があるので、すべて知っているわけだ。
悪魔というのは人格のことだが、こういう倫理観に欠けた超賢い男に取りつくのが好きなのである。
悪魔は、享有知性や天才に取りつく。
だが、それを知性に享有させようとはしない、のである。
つまり瞳着させ変容させる力なのだが。
知性的な命題のこと、でもあるんで。
享有者に命題付与しておいて、しかも実現させない。
動詞には、させないのだ。
必ず、<共有させるまでは実現させない>、という特徴があるのだ。
それも享有に居座った、そこで<共有の目的を持たせた、知性>の事をこそ、言うのである。
基本が啓蒙知性の人格なのだ。
<居心地悪い感性享有に欠如態で居座った、瞳着的知性>と、もっと正確にいうべきかも。
悪魔は光であって、知性そのもの。
哲学のネガチブな無知とは正反対の、実にポシティブな知性人格、なのである。
だからAIが疑似人格を持てるように、<悪魔は悪魔人格を持つ>、のである。
むしろ悪魔は普通、悪魔的な人格のことをこそ、言う。
アホでも持てる、感覚やファンタシア(心の宇宙的写し絵であるイコン)や、知恵にスリスリしたいフェチ愛のことなんぞではない、のだ。
おとぎ話に出てくる空想もんではない。
現実にいる殺人鬼や詐欺師たちのことだ。
むしろファンタジー世界の構想のモトとなってる(うふぉ)の、極度に知的な「表象」がモト。
うすっぺらい知性もの、なのだとも言える。
極度に知的であっても、<表象>という名を光らせる、うすっぺらい悪魔。
これが戦争を起こし、世界を滅ぼしにかかっている。
表象は、ほんとうは善でも悪でもない?。
一見、中性的に見えているのだ。
判定(時空)を装う、知性の(うふぉ)モノだからだ。
つまり表象は?(うふぉの)判断力を伴う悪魔表現、ズラされた悪魔表現なのである。 うふぉのくせに、中性を装うので光って見える。
知性の働きに関する図式作用が、悪魔によって操られている。
その問題が、ここに明確にあることがわかるのである。
それが、わかるだろうか。
享有的意思を無視で、光る共有命題としての悪魔、が、ここ(享有時空)に他者として入り込み、居座っている。
知性が引き起こす、享有にはネガチブなと感じる、共有の光の他者。
それをこそ悪魔というのだ。
心を積極的に導く。
悪魔としての光だ、と。
まさに悪魔は、<享有の中に居る他者>その表象、なのである。
表象と言う言葉が、これを可能にした。
西洋の、知的な思想家に繰り返し出てくるテーマであるが。
半ば不可解だった<他者>の概念。
それが、これらの脱線でオイラほぼ理解できたと思う。
あれはつまり<悪魔概念>の、英知の光のことだったのである。