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2024年06月14日
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カテゴリ:哲学研究室

 トピカ解説の途中で脱線、泥沼を驀進迷走中。


 <内なる光の問題>2

 「自分以外の一神教徒の神を、排斥する目的で悪魔と言う」という俗説がある。
 一般に認知されている意見だが、悪魔擁護とまではいかなくても隠ぺい目的の意見だと思う。
 この俗説ではすべての論議が共有のものとなり、悪魔が享有の他者ではない別物となる。
 光の他者の正体が見えなくなる。

 そもそもこれでは、享有という概念が、まったく何処かへ行ってしまうのだ。
 文明的教義にもっていくために出した意見、としか思えない。
 衆愚にそう理解させようと(悪魔が光って)誘導してるようだが。

 これは、しぜんな規則や倫理カテゴリーの隠ぺい行為として、悪魔的に物語的に働いてしまっているということ。
 つまり宗教カルト者の、共有教義普及上での意見だろう。
 多神教徒の関与というのは疑わしくなる。

 そうではなくて、悪魔は<個々人のこころに唯一者となって巣くう他者>だ。
 しかも<享有の中にこそ見出される>。
 悪魔は他者の持つ、共有的な、ごく知的な光なのであるのに。
 その光はしかも、自分でしかわからんもの、享有する光なのだ。

 つまり享有知ってる反省者にしか、悪魔の光は見えんのである。
 さらに切実な身の危険を感じないと見えん。
 享有者の<文明運動>の、その心に持つ光明自体が悪魔光、なんで。

 世の悪事は、悪魔が悪の張本人、なのだが。
 悪事はなんとか見えても、悪魔そのもんが見えてない人は実に多い。
 文明運動には詐欺的陰謀があって、広く一般的に仕掛けられてもいるからだ。

 人は、文明が目的で生きて来ているのではない。
 あくまで自分が生き抜くために文明の持つ力を利用したくて、やむなく文明人やってるにすぎんのだが。
 それが悪魔行為につながっている。
 それも見えてない。
 共有社会での優生学確保が、もう目的みたいになっちまった。

 じつはこれも、力を利用した宗教的将来企画へ導く、悪魔の狙いだったのだ。
 現実ということの、黒塗り隠ぺい行為予定企画、なのだ。
 公人情報漏洩阻止とかいって黒塗りを命令する人は、必ず悪魔の心を持ってやっている。
 法律が悪魔なんじゃない。
 個々人の、本人の心が悪魔。

 内向きに誤った、反省に思える思惟させて、見えんなって来た目的に摩り替えさせる目的の、摩り替えというのをやるのも悪魔の特徴。
 つまり論点の摩り替えなどはモロの悪魔行為なのだ。

 目的のすりかえこそが、目的だ、っつうわけ。
 なんかおかしい。 
 なんか被ってズレてるだろ?。
 悪魔の特徴。


 文明の<力>によって、その光明のものに発明させたパワーやゲバルトがある。
 それを利用するのが悪魔本人なんだが。
 享有概念は目的が曖昧なので。
 反省的思惟やってると、自分が、わからんなるはず。

 力を文明で利用するには、鬼や悪魔利用で<優生学>的にやるのが普通だ。
 悪魔利用されて目的が遂行される、という、それだけの話ですむことだが。
 そういう話にはさせない。
 虚偽の反省を促し、心に入り込む。
 これも悪魔の手なのだ。

 実践遂行のモトとなった、心の享有の光があるが。
 それが他者として命令するようになるのだ。
 この享有する他者の光のこと、その享有における命令権者をこそ、悪魔、と言うんであるが。
 自分が命令してても、それが自分だと、見えてない。
 享有者が、享有の自分の心を十分把握してない。

 パワーやゲバルトの、短絡的な利用による権力奪取目的の殺人行為を、<戦争>というし。
 戦争は悪魔的な文明のやる実践行為なんで、<これ自体が犯罪>なんだが。
 一般には、そうは見せてない。
 そういう反省はさせないのが、他者の光。

 悪魔は、その戦争に、企画段階から介入し。
 それを引き起こす張本人だと、希望の光なんだと、自ら主張しているはず。

 つまり「享有企画であり共有企画でもあるものなのだ」、と言うはずなんだが。
 つまり表象ファンタシアに忍び込む、オレが文明の<力の本質>なんだと。
 そう言ってるわけだ。

 ちやうやろ、目的かませて、差し替えさせた、だけやろ?

 虚偽の反省を促すことで、人格の中で自分の立ち位置をずらせているのである。
 麻を被って化けているヤバイ鬼人格。
 これが悪魔の特徴。

 まさに、知性の光として振る舞う文明の力のことを悪魔力というのだが。
 そして科学技術の光も、そのおなじものだが。
 感性の力ではなく、明らかに侵入した知性の力のほうなのだが。
 (この分け方は科分離認識である)。

 見えない純粋な鬼道の力より、見えてる悪魔の力が強いと思わせている。
 見えない文化の感性的な力より、見えてる知性のほうが、選ばれし優生学的には力が上だ、と。
 そういう発想を、ここに光でねじ込んでいるのである。
 それが悪魔。

 そういう享有概念に忍び込みねじこむ<共有信仰啓蒙運動>の事を<文明>といい。
 ここに自分から、光る悪魔を担ぎ出して、彼を指導者に選んでしまうようにする。
 理念命題としても働くのである。

 文や歌でもって、その固有の感性の規則や規範、カテゴリーで、いちいち範疇建てて薄暗い一人一人の自己を動かすんではなくて。
 十把一からげで、強引にねじ込んで共有の死体にする。

 つまり、「こころに見えない鬼の力の介入」じゃなくて。
 目に見える文明光である。
 命じて殺し、死したこころを動かして乗っ取る、それが悪魔。

 悪魔は、それらこころを陰謀利用して、科学技術力の発動で目的に導くのだが。
 導くには、<知性の光>こそが積極的に使われる。
 その知的なパワーが必要なのである。
 知力があれば、しぜんと力ある者が優勢で立つようになる。
 そのために一流大学がある。

 「悪魔は、ネガチブな闇だ」、と思っている人多いが、まったくの逆なのである。
 ポシティブそのものの光。
 これが、知性の文明的な光、つまり科学の光が、<暴力的に>自力で投入される。
 それをこそ、悪魔の発動というのである。

 力、ゲバルトは、ほんとうは単独の享有命題ではない。
 共有のエネルゲイア、つまり<力関係>であって。
 <形容>とともに対概念だ。

 これはしかも、共有間オンリーの科分離的考え方の、さらに命題ものなのだ。
 拘ってはならないと警告された無意味な物。
 オルガノンの真実ではない、し。
 自分だけに有効の享有のゲバルトなんて、じつは、ナインであるからなんだが。

 ゲバルトは、必ず共有。
 そしてみるものもみられるものも、もちろん双方持つんだが。
 力関係というからには、共有で終わらないお互い様のものなんだし。
 ツノ隠してりゃ鬼も見えん、家内同然のもんだ。

 光も、ほんとうは、闇と一対の存在なのである。
 人の享有認識なのである。
 あえて科分離して理解しようとしているだけだ。

 だが、力関係を持たされている、変な、ずれた命題ものになっているのだ。
 光をうすっぺらく関係性で見てるときは、その闇のほうは全く見えてない。
 それだけだが、闇が別にある。

 その闇なしに光と言う。
 これだけが軽薄に振る舞うと。
 <選ばれし力の享有者が持てる、もとの力認識>、感性的なナニカとなるのかも。
 選ばれなかった、非力の享有者など、いなくなってしまう。
 おいら選ばれなかったのでわからん。

 しかしこれこそが、<一元的思惟における悪魔的思考>というものなのだ。
 その<力関係を、優勢的に取り仕切る>のが、唯一の神、というわけ。
 悪魔の上に神がいて・・・。
 これはダメな、破裂してる優生学だと、誰でもわかるだろう。

 一元にしていくと、神も悪魔も、同じ穴のムジナ、になっちまうのだ。

 だから光の悪魔に通じてるフランキストたちは、神も悪魔も同列の扱いをする。
 早い話、どっちも見ない。
 無宗教者が多い理由だ。
 しかし注意してりゃ、同列の扱いだとわかる。
 より力のある唯一神を頼って、拠りかかろうとしているだけだが、その弱み見せん。

 これが、<こころの内で導く光>、その役割、だってわけである。

 享有において、なんと光は固有の役割を、あらかじめ持つのである。
 ねじこまれたものではなくなる?

 光は、オイラという享有の、個々人の感性が、認識や理解につかうものだ。
 これは「英知としての道具」だ、と彼らは言うわけ。
 じっさい認識の光、撞着の光、これらはまさに英知そのものの働きだ。

 ほんとうは、英知を用具的に使おうとして、逆に使われてしまっているだけなのだが。
 ネガチブなそこは、見えてない。
 その部分は見えてないと言うより、ネガチブ面はもともと一切見ようとしてない。

 ウーシアの物事を、ポシティブに認識できるための、<権能利用>もの。
 目的としての光。
 これはいわば自分の、<ポシチブな部分>のある事、であって。
 この・・・である、ということや、認識ということや、感受性のモトとなる、未知のめくばせもの、でもあるんだが。

 つまり・・・である、の、<在る>、大事な部分なんだが。

 この、・・・であるは、おいらのみに意味のある同義反復。
 しかも目的を持たないのである。
 その目的を、光に委ねると言うより、積極性に任せる。

 目的が絡むということは、共有化するということだが。
 光は享有の感性だから。
 光に他人は、もともとは関係なかった、はずなのである。
 それが、目的を光主導とすることで、一切を光に委ねることで、関係ができる。
 関係となる。

 つまり他人に対しては、本来ネガチブに、<闇の鬼道のみが働いている>のだ。
 それが普通。
 だから悪魔は、それが見えてる人には、闇の大王などとも呼ばれるんだが。
 フランキストたちには、こういった一連の事情が、一切見えてないのだが。

 しかしこれ光は、フランキストにとって<知性の光>。
 希望の光そのものなので、<ある>。
 文明の別名でもある、優生なパワーの持主であって。
 同義反復の、<積極的な将来的共有の光>でもあるもの、なのだ。

 崇拝の対象となる。
 法王庁における悪魔芸術の数々がありありと見える。

 そんな将来的<導く力>を持たされた光だが。
 しかし倫理制約のないメタバシスな世界の、悪魔使いのフランキストたちには、中性の光としてのみ見えているようなのだ。
 彼ら自身は光に囚われないし、光を中性的にのみ、つまり純粋に捉えているのだ。

 なので、「心の内なる他人に気付け」と言われても、連中の言ってることが普通の人には皆目、わからんのである。
 気にしとらん人が多いのだろうとは思う。

 おいらも長い間、この意味が、わからなんだ。
 「心の内なる光としての他者」を騙るフランキストの命題。

 つまり、この特定の人物のこころに、<目的を>ずらして植え付けられた導く光。
 悪魔の実現。
 それが悪魔の、他者の<目的>なんであって。
 これは、<人の目的やないんである>。

 これって、同義反復の<命題植え付け>、なんやけど。
 <人知の及ぶ発想ではない>、っつうこと。
 悪魔的発想の(素晴らしい)発明品。


 こころの内なる光が、悪魔人格に操作され、ほんま直に使われているのは事実である。
 決して共有化されない享有もののはずだが。
 それを他者としてムリに共有させる力を悪魔は持つのだ。
 心身一体のオルガノン的に共有させてる?

 ちょっと違う。

 そうすることで、<目的には使える>んである。
 オルガノン的には道具的関係を築くだけだ。
 目的に使うことで、じつは<目的が使う>、ことにもなるんやが。
 ここにも悪魔特有のの発想があって。
 (プラグマチズムが出て来たそのモトの意味を考えている)。

 それは心に見る、ほんものの心の、ポシティブ光なのであって。
 人の、命の別名でもあるもの、なのである。
 人の存在理由。
 その問いかけ(形而上学)と将来企画、命のつながり。

 同様に、悪魔の存在理由は?
 そないなもん、わかるはずもない、だから悪魔的。
 目的の一部理解してマネできても、おいら悪魔じゃない。

 しかし共有化、文明化で。
 これが、共有文化の持主が、悪魔に豹変するのである。
 それが文明化ということだ。

 目的に使えるものが、ズラされて目的に合わせ、悪魔に豹変する。
 文明化は、文命化と書くと、わかりやすいかも。

 実は命はもともと、彼個人の享有してきた自分のもの、のはず。
 見えていた過去享有認識でもあるもの、なのである。
 限りある身体の、時空モノ。
 その自分という光であったはず。

 これが共有品の、しかも中性の「他者」扱いとなる。
 どこかで<他者が忍び込む>のだ。
 そのことで、文で命を得て、他者は悪魔に変貌しているのだ。

 享有の感性的な力の役割で。
 物理でいうところの光も、じつは同じ振舞をしている。
 だから科学的発想と悪魔的発想は、十分関係がある、と言える。

 享有に属さないまま、連中(科学者にもフランキストにも)には中性的に扱われるので、同じものだ、とオイラたちにもわかる。
 彼ら(科学者には)には、おんなじ科分離された<中性もの>とみえるのだろう。

 もの、の本質ということ、だ。
 質料ゼロの<もの>。
 波だか粒子だか、わからん対象ブツ。
 光る他者。

 それが、フランキストたちが自分の心の内に持つ、現実を照らして見せる、こころの英知の光。
 これは観察者の感性に属さない、他者なのだ。

 物理学的には(物理学は科分離認識なので)光はなぜか質量ゼロとされている。
 ほんとうは、その実在すらわからんはず。
 同定なんぞ、ぜったいできまへん。

 英知の、その理解や認識のモトの命題、だからだ。
 だからどうしても、英知は中性的な扱いになるしかない。
 光も同じ。

 ウイルス概念などと、光は、ほぼ同じ扱いといっていい。
 詐欺師専用の、騙し用の扱い、悪魔的振舞なのである。

 それが、その光がここにも、科学にも堂々とあるのである。
 信仰する神を、人の有限な心から超越させて中性に仕立てた、それと同じ。
 騙しの魔術が、ここにあるのだ。
 魔術は必ず悪魔的騙しであるから、だから魔術と言う。

 本当は、特定の誰か(権威者)が、自分の感性的な<享有感覚>を述べちょる、だけだろうが。
 他者の知性瞳着<文命>を述べてんじゃないはずなんだが。

 しかし文明を述べることで、ズレて、これが世間に通用する。
 それをしかも<他者の知性瞳着にする>ことで、悪魔が目覚める、ことができる。
 その根拠に光がある、と。
 これは照らされてて、明るい、と、みなせる。

 しかもその光は必ずパワーを持つものとして、しかも(ネガチブ側からみえてないままに)認識されて権威を持っているのである。

 コヒーレントな光は実際、人を火傷させ、あっさり焼き殺す。
 輸送機にも搭載されて、町ごと焼き尽くす実証実験も成功した?。
 レーザーではないかもしれんが、おいらわからん。

 他者である自分の姿を、熱やエネルギーに、磁力線にすら変え。
 大地をも揺り動かすのはすでに事実。

 光ってえのは中性の架空導入品であって、質量ゼロ?
 ではないんやないけ?
 こういった疑問がわくはず。
 波と光の関係は?事実が見えん。

 ここに、騙し、が、詐欺があるから、悪魔が居るから、そうなるのである。
 光は実際、人を火傷させ、焼き殺し、火の旋風の柱として君臨する。
 そのことを忘れんように。

 人に害を与えるこれってのは神ではない。
 悪魔のやる魔術の特徴なのだが。
 事実が一切見えん。

 光は質量ゼロのはずなのに。
 それで簡単に火傷させ殺すなんて、ホンマ、おかしいやろが?
 質料のエネルギー転換とかいわれたら、わかった気にはなるが、質料ゼロなのに、そもそもフォトン粒子が”ある”って?
 なんのことやらわからんなる。

 つまり表象ではなく、いつしかファンタジーsfになっちまうのだ。
 またファンタスマの世界に連れ去られる人も、でてくる次第。
 ファンタシアがまったく見えてないのだ。

 実に不可解なものが、光という悪魔の(ネガチブな見えてない)力である。
 物理学的にも、じつは光の正体なんて、まったくわかっていないんである。
 力、エネルゲイア理論そのものなんて、ことさらなのだ。
 アリストテレス先生は、全く理解されていない。
 しかもこれ無かったら、物理学自体が成り立たないのに。

 エイドスとエネルゲイアという、アリストテレス先生に帰される二つの命題は、これも解っていない。
 理解されてない。
 物理学でも、4つに分離した力の統一理論化は、多次元の数学使っても、できていない。

 そもそも物理学自体が、わかるためのもんや<ない>ため、ではあるんやけど。
 そのことも無視されて来た。

 物理学は物理力命題の合目的再現技術なので、命題がわからんのに、その技術が完成するはずない。
 テクノロジーで心構えさせて騙して、解ったと思わせてるだけだ。
 宇宙論などの形而上学で解って初めて可能となる、マシーナリー技術がモトで。
 現代のテクネーは心構えのものやない。

 科学は、科分離によって可能となった、<目的再現>の将来体系。
 <指示書(ノート)反復>のための、科分離技術の(殺した時空の)アルゴリズム体系なんやが。
 そういった事実をも、文明志向の悪魔が黒塗りで隠す。
 隠す役割すら持ってるのである。

 生命の多くは、じっさいには、自分を隠さず光る、のであるが。
 スタップ細胞が、見つけてくれと光るように。
 無機物であっても、たとえば放射線なども、自ら光る。
 これは力を放射している、と言われる。

 じつは、表象させ共有へともたらせるている、力の発揮。
 他者を文命化させ表し、象示させている、そのこと、なのだ。
 目配せ、なのである。
 ズラせている悪魔の権能が、ここにも働いているのだ。

 ルシファーは、つまり「光る」という動詞ではなく、悪魔という名詞なのである。
 命題なのである。
 ここには名詞の<他力命題>がかくれている。

 光ることの認識も、本当は人の感覚なのであるんだが。
 つまり動詞や、副詞のはずなんだが。
 それ無視で。
 科分離し、対象に合目的に殺し、そこに置いて、無理に<他者共有>させているのだ。

 かくのごとく<文命化>している。
 悪魔が、優生学を発動させていると言える。
 優生学で他力命題で名詞的に扱われ、それが<ある>、ことにもなっちまう。

 ある、ってのは、もともと<享有命題>ということなんやが。
 <命題だから無意味>、を利用してるんやけど。
 現実の光はズラされてしまい。
 熱とか力に簡単に分岐し、変容する物理的な、へんな魔術ものとなっている、わけだ。

 知識として瞳着させて、共有できる「表象」へと、もたらせている。
 認識の力。
 これが<知的な力の他者>に向けて、合目的に仕立てられてある、のだ。

 つまり<共有へともたらせる、他力>へと、仕立ててある。
 魔法陣へと仕立てられて自分で立っている。

 つまり光というのは本来。
 知性が心身一体で享有・共有ともに<有を認める、その命題>にすぎんのである。
 それだけの、じつに無意味なものだ。
 科分離して導入した、知性がやる、自己<瞳着的な悪魔的命題>のこと、なんである。 見えてるモノ。

 ズレた虚偽命題のもの。
 つまりこれは(悪魔命題は)、文化ならぬ文明(文命)のものの、はず。
 光は、質量のある対象としては指し示せないのだが、知識命題としては示せるんで。
 同定できんでも、そのまま<あるんや>、といっとるだけ。

 つまり有を主張するための(うふぉ)的導入ブツ(時空)なのである。
 ローマ、西洋的な意味でのファンタシア。
 古典ギリシャのトピカ的な意味での成果。
 中性的に、表象がなされているのだ。

 享有・共有と、知的認識はここに二重化して、一体となっているように見える。
 だが。
 享有も共有も、実はもともとは同じ、心身統一のはずのものだ。

 そしてファンタシアも必ず、ポシティブ・ネガチブ二つモーメント思惟を持つ。
 中性の表象とは無縁なもののはずなんやけど。
 思惟のモーメントが、ポジ、ネガ逆向きで違うので、モーメントという科分離した考え方で統一のようには見えんだけで、別物扱いとなる。

 しかし観る者は、同時に必ず、観られる者でもある。
 これは感性の反省ものを含むのだということ。
 その反省を、<知性の光>の表象で眩惑させ、悪魔は<騙している>のだ。

 <他者という、心の内なる光>がまさに、これだ。
 他者としての、悪魔ルシファー。
 光は、感性と言うより、知性の対象モノとなって、ズレている。
 つまり表象されている、わけだ。

 しかもこれは、享有する感性でもあることを、捨ててない。
 二重化を、じっと暖めていて。
 その逆向きモーメントの様を(つまりネガチブな反省を)隠して見せない。

 しかも表象なのに、享有に対して働くようには中性的ではない。
 そもそも表象は、享有させようとしない。
 ネガチブな、共有的パワーのみを発揮させようとする。

 それが、他者としてそこに<ある>、ということの意味だ。
 時空を偽装し支配する、その役割なのだ。
 他人なのに、此処に・・・享有・共有にある。
 それは時空をこそ仕立てているのである。

 だから質料ゼロの光は、悪魔として振る舞えている。
 はっきりせん、内なる光の、しかも共有の説明なので、ホンマにくだくだしくなるが。
 悪魔ルシファーってのは。
 そんな、<自分であって、他者でもあって、命令する光の事>だ。

 これは仕立てた魔法の時空をもち。
 つまり感性のモーメントを<自分の力で>無視した、<知性の力の事>瞳着の事態のことなのだ。
 時空と自分の力は、同じものについて命題的に述べている。

 光は時空をも持つ、(享有なので)。
 知性が目指す目的、そのものとなり切り。
 目的達成までは、この構想の光は、しかも享有させない。

 つまり欠如態を示させる、のである。
 欠如愛というべきか。
 それは哲学のフェチ愛とはぜんせん違っていて。
 エロースとしても振る舞っている、ということ。

 だからこれをもって、悪魔は「肉体の悪魔」と呼ばれたりもする。

 肉体の感性の事いってんじゃない。
 一神教的精神の事いってんだ。
 動物的な、心身一体の肉欲の事いってんじゃない。
 フランキストたちの高度な精神構造について述べている。

 高名な古典にある、ファウスト博士のベアトリーチェへの愛を考えていいだろう。
 あれは世間が言うような、清純かつ純粋な愛、なんぞではない。
 そもそも中性的愛じゃない。
 精神のモノであるのは確かだが。
 清純とは真逆の、極めて悪魔チックなエロース的知性愛なのだ。

 悪魔と取引した肉体が、悪魔を出し抜くファンタジーということになってるが。
 悪魔主義者の手にかかると、精神的な主題がファンタスチックに語られる。
 小説にあるとおり、悪魔がファウスト博士と取り引きし、主人公の彼を導いている。

 ゲーテ自身は高名なイルミナティで、グランドマスターであったという事も言われる。
 しつこいロリコン犯罪ストーカーで訴えられてた男で、ピザゲート級の犯罪をもみ消せる権力ももち、なおかつ超賢い世界規模の大文豪。
 つまり自分で悪魔との取引経験があるので、すべて知っているわけだ。

 悪魔というのは人格のことだが、こういう倫理観に欠けた超賢い男に取りつくのが好きなのである。
 悪魔は、享有知性や天才に取りつく。

 だが、それを知性に享有させようとはしない、のである。
 つまり瞳着させ変容させる力なのだが。
 知性的な命題のこと、でもあるんで。
 享有者に命題付与しておいて、しかも実現させない。
 動詞には、させないのだ。

 必ず、<共有させるまでは実現させない>、という特徴があるのだ。
 それも享有に居座った、そこで<共有の目的を持たせた、知性>の事をこそ、言うのである。
 基本が啓蒙知性の人格なのだ。

 <居心地悪い感性享有に欠如態で居座った、瞳着的知性>と、もっと正確にいうべきかも。
 悪魔は光であって、知性そのもの。
 哲学のネガチブな無知とは正反対の、実にポシティブな知性人格、なのである。

 だからAIが疑似人格を持てるように、<悪魔は悪魔人格を持つ>、のである。
 むしろ悪魔は普通、悪魔的な人格のことをこそ、言う。

 アホでも持てる、感覚やファンタシア(心の宇宙的写し絵であるイコン)や、知恵にスリスリしたいフェチ愛のことなんぞではない、のだ。
 おとぎ話に出てくる空想もんではない。
 現実にいる殺人鬼や詐欺師たちのことだ。

 むしろファンタジー世界の構想のモトとなってる(うふぉ)の、極度に知的な「表象」がモト。
 うすっぺらい知性もの、なのだとも言える。
 極度に知的であっても、<表象>という名を光らせる、うすっぺらい悪魔。
 これが戦争を起こし、世界を滅ぼしにかかっている。

 表象は、ほんとうは善でも悪でもない?。
 一見、中性的に見えているのだ。
 判定(時空)を装う、知性の(うふぉ)モノだからだ。

 つまり表象は?(うふぉの)判断力を伴う悪魔表現、ズラされた悪魔表現なのである。 うふぉのくせに、中性を装うので光って見える。

 知性の働きに関する図式作用が、悪魔によって操られている。
 その問題が、ここに明確にあることがわかるのである。
 それが、わかるだろうか。

 享有的意思を無視で、光る共有命題としての悪魔、が、ここ(享有時空)に他者として入り込み、居座っている。
 知性が引き起こす、享有にはネガチブなと感じる、共有の光の他者。
 それをこそ悪魔というのだ。
 心を積極的に導く。

 悪魔としての光だ、と。
 まさに悪魔は、<享有の中に居る他者>その表象、なのである。
 表象と言う言葉が、これを可能にした。

 西洋の、知的な思想家に繰り返し出てくるテーマであるが。
 半ば不可解だった<他者>の概念。
 それが、これらの脱線でオイラほぼ理解できたと思う。

 あれはつまり<悪魔概念>の、英知の光のことだったのである。








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最終更新日  2024年06月14日 08時57分58秒
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