トピカ解説の途中で脱線中、復帰できるかどうか。
<内なる光の他者>4
悪魔論というのは、優生学的支配を持ち暴力を介在させた心理学的啓蒙洗脳術のあることの暴露だ。
そういった手の題材が薄っすら見えてたので、ごく簡単なはずだったんだが。
簡明にはならんかった。
トピカみたいに、じつにくだくだしくなり、最後はこっちが、哲学的享有論議が破綻する。
共有のもんなので、哲学には、オルガノンには、なりきれんのである。
オイラという享有の基礎認識がどことなくあやふやになって、そのうち消えてしまうのだ。
消えゆくには任されへん。
それを自然のなりゆきだと言いたがる人多いが。
違うと誰かが目配せしている。
なんで悪魔なんかに関わったんか、トピカのどこが悪魔論脱線させるのか、もう一度言っておきたい。
泥沼対話になるワカラン哲学が世間に消えて。
今や、わかるトピカルさを装っての悪魔勢力の勧誘ばかりが巷に溢れて。
これが最近特に酷すぎ、激しすぎると感じたからなんである。
非力なおいらでも、一言ポーズだけでも、しとかにゃあ、と。
おいら悪魔反対派である、悪魔推進派じゃない。
現代では哲学なんて、もともとないものとして扱われる。
それだけでなく、知的にズラされた悪魔ものが普通に流通してる。
哲学がなんと、「知識」や「知恵」にすり替わっちょるのだ。
悪魔が、「哲学は愛という光だあ」、なんてウソ宣伝するからだ。
ちがいまっせ。
知的な認識に拒絶され、英知の光の前に消えそうになってしまうんやけど。
常に既存の認識では破綻しつつも。
感性の導きのもとにスリスリしようとする、その獲得半ばの<親しみ愛探し>が哲学。
その思惟の本質は、佇み(エポケー)。
おしゃべりより、もっぱら書くので、短期記憶力弱い老人にも可能となる。
フェチ感覚の感性探し。
お目当ての感覚得ることのそれが、哲学。
哲学は<享有者の自分だけの>、ごく個人的なフェチシズム愛である。
欠如愛ではないから、考えてて楽しいものだ。
ネガチブな領域のものなんだが。
それゆえに、悪魔には、絶対に、やられんのだと思う。
悪魔と似た薄暗い領域にいるのだが。
しかし最後に共有対話にしないことには哲学にならん。
なので、つまりオルガノンにならんので、ディアレクチークがあるわけだ。
くだくだしい、納まりきらんレクチャーをやっている。
これがまたアクセス数を押し下げ、悪魔を呼ぶんやけど。
いたし方ない。
悪魔対話の弁証法なんぞがあるんじゃないんだが、世のみんなは悪魔の言い訳のほうがお好きなようなので、多言を弄する哲学などはどうしても排除される。
今は映像優先の悪魔的時代。
光として、自分のこころに見出した他者が悪魔なので、悪魔の時代というべきか。
悪魔論議も、哲学のディアレクチークのつもりだが、尋常じゃない。
<享有者の心の内にある他者の光>が<悪魔>なんだが。
それが共有の他者として光ってないことには悪魔にならんので、どうしても悪魔的に思惟する。
瞳着的に、他者に頼る。
これの意味を中心に解説してきた。
この悪魔はしかも、ポシティヴには決して認識されてないものだ。
ネガチブな、科学的にはまったく見えないもんだ、っつうことも述べて来た。
心身一体的思惟でないと、光は見えても、そこに悪魔は見えてこない。
哲学では、<自分の無知を自分で理解>するという、自己認識破壊が重視される。
理解は製作ではなく、破壊解体が目的。
<対象認識をぶっ壊す>ということが哲学だから、哲学できるように<自己享有を誤解する>ことも起こる。
つまり自分の内なる悪魔を、オルガノン化できると、思い込んでしまうのだ。
知る、ということの本質理解に関することなんで、ここは難しいが。
知性の得た理(ことわり)の、ぶっこわし理解が哲学だから。
知識使って、しかも無思慮無反省に悪魔的行為にも走る。
しかし悪魔論議の目的が、哲学徒と悪魔では違う。
哲学は享有感覚のために、自分の<時空のために>知識破壊をやるが。
悪魔は、共有の光を享有に持ちこむことなので。
たとえ時空をぐちゃぐちゃにしても知識優先させて権力を得ることである。
権力への意思確保。
哲学の場合は、光特権の知的瞳着獲得の目的でも、知識データベースの獲保目的でもあり申さんので。
共有者に、明確なものが見えてこんのだ。
悪魔は違う、明確に見える。
光でも、闇でもないものや、そもそも光や闇だけじゃ悪魔じゃないんだ、と思うだろうが。
これが間違いのもとかもしれん。
光それ自体が、すでに悪魔資格十分なのだ。
闇が見えてりゃ、闇は悪魔じゃない。
つまり光る知性自体が、すでに悪魔的瞳着で出来ているということ。
知性は哲学も使うものなので。
哲学は、その恐ろしい悪魔自己享有の事実の前に立ち尽くす。
哲学というのは、しつこいが享有知性のぶっ壊しが仕事なんである。
既存の誤った知識をぶっ壊し、感性を頼りに正しい方途を探る。
と気を取り直し。
つまり悪魔のぶっ壊しも仕事なんだが、こっちの仕事は、感性ある身体の破壊、つまりオルガン破壊も含んでしまうので、一見悪魔的に見える。
しかし哲学は感性とも、もともと心身一体のモノだから、逆に、感性から崩されて悪魔にあっさりヤラれる軟弱なモノでもあるのだ。
しかししかし、光なんていう共有ブツも偶像も表象も、哲学徒にはもともと一切見えてまへん。
他者はいない。
そいつは<悪魔的知識>として、ぶっ壊したい<ネガチブ領域に>見えてるだけだ。
(あくまで)光にそそのかされ、知的に瞳着して、悪魔的になってると見えてる。
しかし科学的な科分離思考するとなると、今度は対象の悪魔が見えんなるのだ。
心身統一が必要なんやけど、これが享有の哲学では、対象がはっきりできん。
英知の光なしには、オルガノンがきっちり立たん。
かといって、心身分離思想を基礎にした唯一神の理念などは、損得勘定や尊徳感情の対象ですらないのだ。
信仰っつう、わけのわからん、心構えたものになっちょる。
今のオイラには、そっち側に悪魔が見える。
「超越神の愛」に至っては、何やそれ?の一言で片付くのが普通だ。
神の愛なんて、人と無縁な宗教上の空想物、ファンタジーだからだ。
このファンタジーと悪魔は、じつは同じ世界にいるように見えて、そうではない。
悪魔は現存する。
悪魔はファンタジーだけのものじゃないので、簡単ではないのだ。
他人の首好んで切るようなやつが、現実にいるから、悪魔、なんである。
ファンタジーとは違う、本物の狂気をもたらす悪魔が居る。
悪魔を前にすると、恩寵的愛にすがるどころか、自分を一意に保つことじたいがすでに、じつに困難なので。
つまり英知の光である向こうさんが上なので。
科分離的な思考がモトでは、まず享有知の問題からして片付かんなるはずなのであるが。
客観で客観見ても、構想力でもって構想力覗き込んでも、なんにも見えんなる。
だが、悪魔的知識の実在部分は、そうじゃないのだ。
向こうから予防接種だあ、防疫だあ、とか言って、集団で身体殺しの実験に来る始末。 享有に影響してくる、他者の強烈な光があるのだ。
ちゃんとした図式ができていないので、悪魔描く図式構想は、ほんま暗い。
だからと言って、図式つくれば、それに乗っ取られ、悪魔に突き動かされてしまう。
悪魔的なメッセンジャー遺伝子の陣立てされて、その仲間を増やされてしまうだけだ。
世の中、あっという間に、悪魔だらけになってしまう、というわけ。
悪魔が群れて徒党組んで、実際世の中そうなっちまった。
人殺し実習も、ファンタジックなゲームが広めてる。
今や、マスゴミピエロ先頭に、立法も行政も検察機関の一部までが、悪魔になり果てた。
三権分立なんてウソで、司法も久しく悪魔勢力が強い中で、生き抜くのは大変だ。
おいらの二番目の兄も、冤罪覆す、ささやかな抵抗ができたただけだった。
知的な瞳着の時空形式を見つけ、理解しよう、なんてのは。
光る他者を見つけようとすることに似ている。
知恵の知恵を訪ねよう、なんていう、無謀な試みなのだが。
そんなんは普通、幽玄でかそけき世界を孤独にたどるばかりで終わる。
オイラに至っては、ささやかな抵抗すら、最初から出来そうにない。
悪魔論みたいな、そんな霊的なもんの話もズラされて、時空自体がベツモノにされていく。
悪魔論議は無知の世界の哲学論議じゃなくて、表象した共有知識の宗教話となるしかないと思われてる始末だ。
ところがこの表象した共有知識の話が、見えん悪魔の群がるトンデモ(ない)世界になっちょるので、結構、ホンマに怖いんである。
(その点日本語はいい、ポシティブ・ネガチブ両面を持つ。)
(トンデモ世界もとんでもない世界も、同じ領野で扱える。)
何度も言うが、<悪魔は科分類した思考では見えてえへん>のである。
いくら命題化しても科学では見えん。
それは世にウイルスが同定できんのと同じで、見つかりようがないんである。
(人造のmRNAなら、悪魔同士で配布し放題らしいんやが)。
悪魔的に振舞う電磁波も、世に溢れちょるのだが。
科学は合目的技術指示ノートにすぎんので、危険察知目的の論文がないと危険がわからん。
そういった論文は悪魔によって消される。
その危険すら見えんように、悪魔に隠ぺいさせられているのが普通だからだ。
というか、科学自体が悪魔の、享有からズラされた共有時空のものなのだ。
個々人の命など気にしない、という悪魔的特徴も明白。
見えんままに魔法陣が立てられていて。
善悪の話、享有の光るいい話が、科学の居る世界ではいつしか、共有の悪の儲け話になっちょるわけだ。
哲学とは関係ない世界に。
すべてお金儲けの、宗教信仰勧誘の話になるのだ。
これも背後に常に悪魔が介入して、意図的に、そうさせているのだろう。
はっきり言っておきたいが。
「善悪」というのは、<享有だけ>に有効な概念。
個人ごとで他人関係ない倫理が仕切ってる。
共有世界では道徳的なもの。
あくまで自分だけに通用する命題概念提示である。
悪魔がそれをぐちゃぐちゃにして、共有化してきた。
一神教徒達が他宗派を悪魔呼ばわりすること自体が、もともと他宗派認識できんはずなので、ちゃんちゃらおかしいのだが。
キリスト教はそれをずっと、やってきた。
だからオイラはこれを悪魔宗教だと思っている。
科学と並立できる世界的宗教である。
悪魔祓い拷問や魔女焼き殺し殺人は、キリスト教の悪魔的な悪魔祓いという、日常のお仕事だった。
他人殺しはむしろ、楽しい?
さらにこの話自体が悪魔に今も利用されていて、彼らの隠ぺい工作に使われてる始末なのだ。
フランキストは、誰が見ても明らかに悪魔だが(そもそも自分たちで自分を隠さんので)。
一神教の諸派がキリスト教徒なのか、悪魔教徒なのか、区別もできんなっちょるわけだ。
しつこく繰り返す。
善悪というのは、共有社会のものではなくて、必ず<個人だけの領域のもの。
オイラ個人だけに対して、しかも自分自身に対して、しかも倫理的な制約の内に自分判断の善悪があるのみ働く。
他人は無関係で、働いてない。
悪魔の介入がなくばだが。
力関係、その形容、つまり実在のオルガノン的本質が、この<享有>なのだ。
修辞学的にも優生学的にも、その善悪については、共有論議に、絶対にもっていきようようがない。
優劣判定などは、<善悪の彼岸>にあるのだからだ。
つまりファンタジーやファンタスマだからだ。
共有世界にファンタシア(心構え)できるもんやない。
「善悪を享有の彼岸に置くこともできる」、んじゃない。
それだと、思惟のモーメントが、時空の成り立ち上、間違っている。
善悪の優劣判定が、享有における善悪の彼岸に、最初からあることになる。
それが間違ってる悪魔世界の証拠。
善悪は最初にはない。
後からできる、生まれる、だけ。
時間空間手順が認識上、ずれている。
彼岸、つまり霊的世界が、その特殊な時空が別にあるのだ?。
輪廻転生の世界が根にある?
そうじゃない、最初からあるんじゃなく、そうなる、悪魔がそうさせる、んだろ?
悪魔は最初から光ってて。
他者で、しかも優生判定済であるかのようだ。
ちがうやろ、享有のあとから、ねじ込んだだけやろ?
勝ち組だあ、それで生き残って来たっていう、ウソのあれを述べる集団が、あとから来たのだ。
享有的に在るというこの現実として、人が感性的に心身一体で享有してある事ゆえの、「善悪」、だからだ。
享有を理解できない、あとから来た科学ものには、この理解はできん。
おいらに関わる善悪は。
これはまさに<オイラだけの享有存在>つうこと。
これが科分離思惟する科学には、わかりようがない。
しかしこれを、<客観に持ち込み、共有にやらせようとするのが悪魔>なのである。
この世に、善悪の公共化を図る。
これが、<特権で裁こうとする>、ということの本質だ。
優生学の基本の基本、選ばれし者という共有認識。
享有にしかない概念を、力づくで共有化しようとするのが、特権に力付与する悪魔の権能っつうこと。
優生学と悪魔主義は、まったく同じ。
ともに勝ち組志向のものである。
善悪論議を、共有論議にやらせようと謀って、結果的に場をグチャグチャにするのだ。
享有のはずの時空に、他者を持ち込んでいる連中が必ずいて。
そいつらがまさに悪魔。
他者を時空ずらせて偽って、享有者に悪さするのが彼らの目的、なのだ。
「悪さ」が目的。
基本的に、いたずらと同じものだろう。
遊戯感覚。
心身一体のオルガノン的思惟ではなく、科分離した思惟で善悪考えようとすると。
そこに必ず、この悪魔というやつが忍び込んで来るのである。
必ず後からやってくる。
そして泥沼を作って、場をぐちゃぐちゃにしてくる。
エロースがもたらす個人的な欠如愛のほうなら、誰でも見ているだろうし、いい例だ。 これは端麗世界のもの。
精神に表象された、鮮烈な出来事なのであるが。
もともと途切れて、この世にないモノなんで、あの世に、つまり霊的な世界に属する。
この認識はまた科学的でもありえるので。
一見、エロースの真実に光は満ちている。
エロースは霊的な力のあの世のもんなのに、欠如態として、なんと、この世に見えるのだ!。
反省想起しても、うすぼんやりと幽玄に見える。
そのように感じてしまうのである。
享有の世界に、共有の現実へと目を見張らせるような、素晴らしい光を持ち込み、ズラせてるやつがいるのだ。
注視すればそれは必ず、<悪魔ルシファー>なのである。
場をぐちゃぐちゃにする、時空をずらせる目的で侵入している。
オイラはキリスト教徒ではない、むしろ一神教の否定をしたい類の論者である。
キリスト教と言う、他派を認めないこれはむしろ撲滅したい。
だがキリスト教徒の彼らは、真実を述べている。
悪魔ルシファーは、彼岸のみならずこの世に現存し実在する。
但し魔女や異端者に取りついているのではなく。
教会や諸組織の幹部に、詐欺師や奴隷売買受益者として納まっているのだ。
人のかっこうしてる。
科学的な認識の中にも忍び込んでいる。
場をぐちゃぐちゃにする目的で侵入しているやつがいるのだ。
オイラみたいな、ハッキリわからん無知の知を言うやつじゃない。
ハッキリした欠如態のエロースをそそのかして、光らせて見せて。
「知恵」や「知識」を言うやつだ。
現実に悪魔的人格がある、悪魔。
「諸事情で人のクビ切ってるやつがいる」、んじゃない。
他人の首切って、一家破綻させているやつがいる。
場合によっては自分の首さえもちょん切る。
悪魔自身が、そこに居るのだ。
決して狂気ではなく、極度に知的な、優生学的判断があったのだ。
科分離思考してる間は、悪魔はまったく見えず。
ほとんどわからんのである。
光そのものは見えずに、うすっぺらいデータのみがある表象の世界だからだ。
騙されて気が付いた感性が、光のあるそれを告げて。
反省すれば、悪魔の光は、うすぼんやり見えてくるはず。
オイラたちが見る光は必ず、感性が伝えたもの、だ。
知的な領域ではなく、彼岸の領域でもなく、感性という現実の領域にある。
オイラたちの判断は、<享有品>の、享有理解品のオルガンのはず、だからだ。
心が見た、<感性と言う名の光>にすぎん、はずで。
悪魔そのものは、ここにまったく見えちょらんのだが。
つまり<知性的な共有品の光>など、ここ享有にはもともと一切ないはず、なのであるが。
それはオイラ<個人の、享有の認識の場のはず>、だからだ。
それがしかし、<知的な瞳着認識で他者の光を共有する>となると。
それは、時空のない瞳着世界にしかありえんはずのものだろう。
彼岸のモノのはずだが、この世に見える。
英知。
つまりは、表象された世界だけ、のモノのはず。
その瞳着に忍び込んだ、知性の光の他者に動かされての、悪魔ソノモノなのだ。
言い替えれば、世の光はぜんぶ、オイラという享有感性が目配せされているはずのものということになる。
観察という名の享有の介入が、何処でも必ずあるはず、なのだ。
それを経ないと、共有データもデータとはならん、はずなんである。
ところが現在の認識学では違うので。
単なるデータというものが「中性的に存在する」とする。
共有データも、単なるデータとされて、堂々と世間流通している。
これがおかしいんで、これで悪魔が出るのである。
最初から優生学が忍び込めるように、時空がズラされている。
物理学などでも、悪魔は悪魔として扱われず。
むしろ・・・の悪魔理論として、見えないまま多用されている。
認識の基本にほうがずらせられて、騙されているわけ。
世は悪魔の天下なのだ。