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2024年07月13日
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カテゴリ:哲学研究室

 これまでの論議をふまえ、今一度オルガノンを騙りたい。
 アリストテレス先生の哲学のことだが、既存のオルガノンと区別することで哲学そのものが騙れそうな気もする。
 語る、というよりはやはり騙り、なんだろうが。
 その全貌が見えそうな気がするのだ。

 語りはロゴスの共有世界だが。
 騙ることをさせているのは必ず暗いメタバシスが導いている。
 別名の現代用語は、メタバース。
 だからどうしても詐欺的、悪魔的要素が加わるんだ、ということ。

 メタバースは超越して隠れた、悪魔的な図式俯瞰図のことだ。
 見えないもののはずだが。
 特にギラギラと他者の光を放つようであれば。
 あるいは魔法陣と呼ぶべきかも。
 倫理観の欠けたダメな、中性的にデータとして扱われる(ウソの)時空世界のことだ。

 オルガノンはしかしヘラス語であって。
 ダメな古典ギリシャ語のそれとは違う。
 オイラたちの諸認識の基礎に、この古典ギリシャ語の世界がドデーンと居座って、オルガノン構想を邪魔しているのだ。

 但し、その基礎にあっても、道具利用の意味などは、この構想には絶対にないのである。
 構想自体が目的ではない、感覚の一種だからだ。
 人は必ず死ぬ。
 オルガノンには特に、優生学的目的は一切ありえない。
 と、これは明確に断っておく。

 道具、用具は、必ず優生学的目的を引きずり出すためのメタバース概念であって。
 現代特有の、間違った時空のもの。
 ヘラスの時代には、かようなものないし。
 特に<心身一体思惟>であるアリストテレス哲学には、ありえない。

 オルガノンはまた、共有の倫理的な事情を隠してる、とも思われている。
 だが、それもスピノザやシェリングが誤った哲学理念で関わったことによる間違い。
 いや、場違い。

 倫理は、享有者個人だけの時空のモノ、であって。
 共有社会には馴染まないもの。
 だから西洋社会ではこれが、エチケットという別物共有となった。
 共有規則みたいな、しかも強制力のない共有ものとして構想された。
 (時空抜きに、中性の扱いなんぞでは論議できない、ということ。)
 (だからと言って、優生学を導入して胡麻化してはいかんのである。)

 オルガノンというこれは、アリストテレス先生の、心身一体の<哲学のこと>であるので。
 中性ではなく。
 エチケット論議なんぞではなく、本物の倫理をこそ中核に含むのである。

 哲学は無知の知であるから、倫理なんぞとは無縁なはずなのだが。
 オルガノンとなれば倫理が居座る。
 なんか、変やろ?
 これが享有特有の、ヴァーチャリターな点。
 現実が絡む、ということ。

 倫理を含むということは、カテゴリーの働きをも含む、と言うことで。
 メタバシス的には、見えないのでこれを論議できないのである。
 だからと言って、倫理は享有なので共有の優生学ではない。
 見えてない暗いものを、優勢な光であぶり出そうとしてもムダである、
 メタバースには<一切馴染まない>、ということ。

 オルガノン=アリストテレス享有の哲学なんだ、と理解されたい。

 メタバシス共有世界は無関係。
 共有の論議は、できない。
 享有論議のみ。

 科分離思惟してると、特にこれはぜんぜん見えてこない領域なのである。
 科分離して取り出し据えた、<対象時空がまったく違う>のだ。
 知識は道具利用できる。
 だが、哲学(享有する無知の知)は客観視できず、全くもって利用できない。

 しかし哲学は、文語体でのみ論述された<享有論議>であり。
 同時に、これは共有論議でもある。
 口語体利用のディアレクチケーでもありうるものだ。

 それらにもかかわらず。
 科分離主義の英知主義者や論理実在論者たちが多く、優生学で口出し関与した。
 彼らが、世間の欺瞞論議の泥沼を作り上げて来た悪魔主義者たちだ。

 彼らは享有してる、自分の身の回りを見ない。
 なので、論議の場を泥沼にできた、といえる。
 彼らが寄ってたかって古典ギリシャの知識体系を作り上げ、これを別物に改変して。
 西洋学術の基礎領野に、基礎に、すっかり踏み固めてしまったのである。
 古典ギリシャの基礎を作り上げて来たのはローマ人自らの力である。

 オルガノンはしかも、(哲学を騙る)論理学ともまったくの無関係のもの。
 なので、これをも述べておく必要がある。
 オルガノンは明らかに<生命論理じゃない>のであるが、優勢学含めて論理でカタつけたく思うのだろう。

 過去にオイラも間違ってた。
 論理は無関係。
 そもそも論理学に至っては、これはヘーゲル以降の、ごくごく最近のダメものだ。
 接点がありそうで、騙される。
 優生学に騙されているのである。

 倫理学や美学などとは、確かに接点もありそうだが。
 これも同様。
 優生学が絡んでしまえば、接点は全くなくなる、ので。
 優生学が絡んだ近代の美学や倫理学のこれらもまた、悪魔のやる論議に過ぎん、と述べて。
 すべてあらかじめ除外しておきたい。

 前にも述べたと思うが。
 オルガとは、<生きた生命体>のこと(これは科分離思惟)。
 しかもこの生身の、オイラのこと(これは哲学的反省)。
 さらに哲学の世界に踏み込めば、オイラだけの事。

 <居る我>、かも。
 <カノン>は、そこに跡付けて弁証論で想定した、<法則>の推論のことではある。
 但し、生きた一体のモノとして働いちょるものなので。
 コロコロ自己変貌遂げていく。
 タ・メタモルフォーゼのような、つかみきれない状態となっていくのだ。

 だから量子論みたいな論議を仕立てて、「生きた命の法則」、でいいんじゃないかと思うかもしれん。
 それがまさに、<優生学の悪魔的支配思想>ってことなんだ。

 メタバシス利用して、メタバースの共有光創り出して、図式(シェーマ)化して力関係に利用したい。
 目的っつう下心が見え見え。
 この悪魔めが!。

 それは命題に拘った、しかも科分離独特の思惟の、しかも出来合い論議であって。
 泥沼の試作品で発明工房の技術成果かもしれんが。
 絶対に、やってはいかんことなのである。

 アリストテレス先生も<タ・メ・タ・タ・フィシカ=自然学のメ>の中で明確に、「命題に拘ってはならない」、と述べておられる。
 (この意味がやっとわかった。)
 表象や、技術や、修辞学命題の諸々に拘ってしまうと、人の道を誤る。

 人倫を誤る、という言い方をする。
 メタバシスが図式的形容となり、優生学となって、やがて悪魔となってしまうのだ。
 自分で創り出した悪魔命題に、逆に道具化されてしまうのである。
 悪魔になると感情が消え、英知の光だけが居座る。

 哲学は英知の光とは遠い。
 <心身一体>の、反省をも伴う、超薄暗い思惟である。
 ネガもポジもある、人の思惟というものの典型。

 その、<享有認識における無知の知を、自分で解体して、解って、時空を知る事>。
 実質反省部分、ネガチブな領域のものが中心なのである。
 目的などは、ない。
 だから優生学には囚われない。

 見る者は、見られる者であることの自覚をも同時に持ち。
 見えんものも見て、他者の光無視して。
 自分で自分を知る事だけのことだ。

 これは既存知識を破壊して、理解すること、を意味する。
 ナチス・ハイデガー先生の言うフンダメンタル・オン・ト・ロギー、基礎的存在論の理念と似ている。

 だから。
 そんな、うすっぺらい悪魔みたいな他者の光の、表象だけの対象認識はできない、と悟るべきなのだ。
 つまり、<ファンタシア>の訳に「表象」という言葉を当てはめたのが間違い、なのだ。

 つまりそんな中性的な表象論議なんぞでは。
 古典ギリシャの基礎理念では。
 とうていオルガノンとはなりえない、のである。

 オルガノンは論理ではなく、優生学でもない。
 哲学だからだ。

 過去にオイラも、このオルガノンを、見誤っていたと思う。
 そこにいかがわしさ、ばかりを見ていた。
 基礎の表象や技術に、かなり囚われていたのだ。

 囚われるべきは、古典ギリシャではなく、ヘラスの理念。
 ファンタシアやテクネー。
 正しく訳すなら、<未知のイコン>や<心構え>だ。
 「表象」や「技術」は、誤り。
 これらは科学的思惟であるにすぎず、誤りの思惟なのだ。

 哲学を始めたのは、ソクラテスとその弟子のプラトンであって。
 科学を始めたディオニソスやピタゴラスじゃないことを、今一度、きっちり再認識すべきなのである。
 哲学から科学へ、じゃなく。
 一切の、科学的思惟の追放が必要。

 科学と言うのは必ず優生学であるからだ。
 大事故起きたときに、医者が誰から救助するか優生学で選別する社会の、その技術や出来事理解のための表象。
 国民をホワイトカラーとブルーカラに分ける分類。
 果ては、犯罪侵しても捕まらん上級国民を仕立てる優生学優先。

 科学思想は、即、悪魔死霊社会ということだと理解すべき。
 必要不可欠だと思い込んじょる。

 学問の質も内容も、「技術」と「心構え」では、ぜんぜん違う別門だと認識すべき。
 哲学はエクザクトハイト(精確さ)には拘らないが、シュトレンゲ(厳密)にはしつこく拘る。
 その心を構えさせてしまう。

 哲学的思惟と科学的思惟も、これは思惟の方向自体が根本から違ってる、と説明してきたはずである。
 哲学のみならず、思惟の、数学的モーメントからして、真逆なのだ。

 哲学は必ず、ネガチブ領域へ向けての、<反省>を伴う。
 つまり倫理を見ている。
 だから(自分への)倫理観の問題が、どうしても表に出てくる。
 対象に据えても、見る者が見られる、いじられる者でもありうる、ということを常に認識している。

 科学的思惟はポシティブ一辺倒である。
 宗教みたいにへりくだる事もなければ、妥協もありえない。
 (実は基礎で一神的宗教的信仰が糸を引いているのだが。)
 目的ブツの再現に向けて、突っ走るのみだ。
 反省は皆無。
 ブラックホールを地上に創り出したらどうなるか、なんて気にしない。

 ポシティブなので、自分を顧みないので、失敗すれば再チャレンジのみ。
 しかしほんのわずかでも反省があれば。
 これらがない科学的客観思惟は、だから、ダメなんだ、となることが解るはず。
 
 それら科学では、愚痴さえ出せなくなるから、ダメとも言える。
 愚痴ばかり言うオイラが、科学的思惟ばかりではない、その証拠が、ここにある。
 (愚痴には少しは哲学ある、っつうことじゃよ。)

 優生学やって悪魔になりゃ、愚痴など一切出んなるよ。
 バカは火あぶりにして殺せ、の社会だからだ。
 自分の愚痴に拘り、それに囚われると、共有社会では魔女だとみなされ、排斥される。
 キリスト教社会ではぜんぜんダメなもんだが。
 我が国の昔には、これを愚痴に終わらせず文化にしてきた経緯がある。
 しかしこの筋には脱線するつもりなし。

 科学者には、(享有的)反省が一切ない、というか。
 命題上、できない、ようになってしまっている。
 つまり愚痴なんて現代では論外で、はっきりいって<禁止>されているのだ。
 (メタバースの、見えてない裏カテゴリーや牢獄があるのかもしれん。)

 合目的な、対象化再現の目的を構想し堅持した客観論議が、科学。
 =悪魔ではないが、悪魔的思惟。
 なので。
 図式がカテゴリー化させられて、どこかの時空に立たされてるのは確か。
 裏倫理があるかもしれん、ということ。

 一方、哲学者には、主観的論議が主導権握るので。
 肯定的な進歩概念というものが、目の前から消えて一切なくなる。
 (というのは、事実である。)
 一見、愚痴ばかりとなるようにすら、ある種の人には見えんるだろうと思う。
 それは、進歩が<ないとこ>しか、見てないからなんだが。

 進歩がない、これは指摘される「間違いない」点だ。
 だが、哲学的な、オルガノン的な思惟上の欠点などではない。
 愚痴も言えないようでは、そもそも生きた人間ではないじゃんか。
 文句もいわん、機械同然の死霊。

 愚痴禁止の仏教なんて、もし本当にあったならだが。
 そんなん、煩悩のない悪魔が介入してる証拠だ。
 (悪魔は知性なので、煩悩持ちまへん。)
 それに対し、人は煩悩の生き物。

 目的達成、課題しか考えん、煩悩のない悪魔は多い。
 サイコパスあるいは、最近心理学で言われ出したソシオパスとも言ったりする。

 これまで、哲学史で述べて来たそれらのことを、まず明確に認識されたい。
 哲学は進歩なしで、判断も中止して、佇む(エポケーする)のみだ。
 だからといって哲学はダメ、には絶対になりえない。








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最終更新日  2024年07月13日 12時11分30秒
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