それ(ソクラテスの哲学=無智の知)を、享有理解のイデア論議への先験的理解を問う「諸疑惑」にまで高めて、公共の場に持ち込み。
それをディアレクチーク(対話術)に仕上げたのが、プラトン先生である。
しかしイデアには囚われるのだし。
自分がなんで男しか愛せないのか、非常に不思議がってた。
いわば自分だけの愚痴や煩悩や世間的誤解の泥沼を整理して、他人が理解できるよう道筋をつけようとしたのだが。
世間がついてこれんかった。
それがプラトン先生。
それを更に、公共の学問となすべく、プラトン先生の期待を背景に。
共有できそうな体系にまで仕上げたのがアリストテレス先生なんだが。
十分な人気もあって、アカデメイアは順風満帆に見えたのだが。
その共有化部分の基礎に、悪魔的な誤解釈が。
つまり、科学技術的な優生学が忍び込んでしまっていくのだ。
忍び込ませたのは先生ではないのである。
先生の講義録が利用されたことによる。
先生の哲学は誤解されてる、と言った程度のもんじゃないのである。
ヘンな科分離思惟の設計図が導入され。
堅固なビルに、六階建てにされてしまっている。
これは哲学史にもちゃんと派閥運動として証拠が残っている。
プラトン先生の論議になんと、後世のアリストテレス風解釈を、それも堂々と代入した連中が居た。
わからんプラトンは、=イデア論なんだと言い張り。
これは普通に言われていることのみでもわかるんだが。
プラトン先生はアテナイで流行のイデア論を、自分の対話術に利用しただけだったんだが。
しかしプラトンは、イデア論やってたんだ、ということにした。
そんなンウソでっせ。
これが、新プラトン派と言われる、一神教徒の悪魔連中がやった、<時空ずらし>、なのだ。
人工の時空を持ち込んで、対話論議の改変を図った。
さらに最近は、アリストテレス=科学志向の論理体系の学だと思わせたい、新手の、ずらし問題もある。
ともに真っ赤な大ウソというか。
基礎大間違いの、六階建てや七階建て。
哲学が、悪魔宗教のビルディング総本山にされちまっとるのである。
いかがわしい宗教は大概が、どでかい建築物で人の感覚を胡麻化す。
太古には巨石がよく利用された。
プラトンのレクチャーは、これは<享有論議の倫理ー伝達なんだ>と理解しないことには、その哲学自体が始まらないのに。
論理学の虚無主義代入で、優生学悪魔作って共有の場を整備して、別の人工時空場に置くことで始めたり。
あるいは「享有禁止しといて学問作れ」、と言って見たりする。
これはまさにニーチェの先生が、ニーチェに命じてやらかしたこと。)
哲学史で見て来たはず。
それらで起こる不都合を無視して、科学思想に突っ走り。
更には、愚痴すら封じようとしている昨今。
それが、一神教特有の宗教信仰というもん、だろうと思う。
信仰にある優生学を、科学理論に結実させたいのだ。
世の文明志向、つまり悪魔の思想。
おいら、遠回しだが、<科学は一神教宗教だ>、と言ってる?
その通りでっせ。
ちゃんと反省すりゃ、わかること。
科学は、オルガノンへの、享有的疑問を持たないのである。
享有が見えてえへんから。
その限りにおいて、科学は無反省の悪魔的一神宗教でもある。
複数の形而上学が立つことはないし、その人格も立たない。
一意の信仰のみが優生的に立つ。
科学はまた、オルガノンへの享有疑問を持つとすれば、それ限りにおいて。
享有認識上に置いて形而上学への問いが、先験的に誤ることになる。
なので、見えてえへん享有無視でいくわけだ。
ただただ優生学に頼って。
結局すべての場を共有化してしまう。
これが客観認識である、っつうことなんやけど。
客観の客観を保証する客観根拠などは、ない。
(知的直観があるという人がいるが、直感て感性の事だよ。)
基礎も目的もわからんことばかりが多いのに、それを認めん。
ただ、方途には、うっすら目的がある。
そこには科学的思惟に対する信仰があるのみだ。
つまり科学(合目的対象化認識再現技術)の本質は、<一神教の宗教>なんである。
伝統のカトリックにおける形而上学は、これ(先天的疑問)を持ってた。
それを壮大な形而上学の体系にして、居場所(トポイ)を特定して、まとめようとした。
トピカルにまとめようとした、どうしても誤る試み同様、そんなんは成功しないんである。
形而上学という科分離認識の基礎が破綻して。
無知の知識体系は逆に、自己壊滅していく。
そのようにすら見える。
宗教カルトに凝り固まった一意的思考者は、自分の基礎にある形而上学が破綻してることにも、当然気が付いてないのである。
と言うか、気にしてない。
堅固な<信仰でもって科学する>、からだ。
これは自然をも見ない。
つまり自然学をも、一切やらない、ということ。
(自然と言うのは、そもそも名詞の命題じゃない。)
(自然学は自然対象の学、ではおまへんよ。)
プロテスタントは、自分たちの無反省の強みを生かして、この破綻問題を問題にせず。 将来への<用具的関係>へと先送りにした。
タ・プラグマータ導入のそれでもって、乗り切ろうとしたのだが。
優生学悪魔をカトリック同様に、いやそれ以上に、破綻を積極育成することとなってしまった。
つまりプラトンのディアレクチケーのあと。
アリストテレス先生で初めて、共有の理論が立って。
ここに共有の学問が成立したのだが。
(つまり同時にここで、多くの概念や理念も検討され、言葉が整理され吟味されていったのだが。)
実のところ、伝わっている先生たちの論議はことごとく、ローマ人の英知的な優生学書き換えに終始したのだ。
英知的な優生学が、彼ら悪魔には、すべて、なのだ。
特に、露骨な優生学を隠すためには、いろんなことが行われていた。
オルガノンはもちろん真っ先に、跡形もなく消えた。
共有化するためは、最初中性化が図られ。
感性の性質や振舞の、書き換えが行われた。
つまり時空がズラされたのだが。
タ・メタモルフォーゼなどの、ファンタジイ神話的著作が成立した。
これは、感性側の勢力の抵抗だと昔は思ってたが、疑義もある。
どっちかハッキリしない。
作者はウーシアの神話化や、ファンタジー化を狙った者であったのかもしれない、ということ。
オヴィディウスは分厚い本持ってたが、それほど知らんので、深入りせんとく。
悪魔勢力はともかく、感性無視に、中性にすべく動いた。
既存の自然学の書き換えをすら、図っていったのである。
唯物論の世界でも、感性論の書き換えが大々的に行われた。
唯物論というのは、その<基本が必ず感性論>なんだが。
その感性すら、モノと化して。
隠れ無き様ではなく名詞化させて、逆に身を隠せる大自然となった。
自然という隠れ無き様が、人工のモノと化して、科分離思惟の対象世界に置かれた。
現代のように、自然が名詞と化したのである。
この唯物論の運動は、マルクスのような、へんな悪魔をも生んだのだ。
感性論をズラせて、人工物を他者へと導入した悪魔。
ブッダの言葉が、いつしか宗教の教義となって宗教化し(一意に収束した教理体系となり)。
現代人の科学優先思考で、お経の内容まで書き換えられてしまっていくようなものだ。
ホンマ、最近は後から述べたこれ、目立つ。
キリスト教に見切りをつけた一神教の悪魔が多く、仏教一神教化信仰へと乗り換えてるようなのだ。
仏教は、まったく宗教ではない。
なのに、某学会のように宗教化していってる、カルト化してる、っつうこと。
そのうち書き換え済んだら、仏教は科学だ、なんて言い出すつもりなんだろう。
お経はすでに大上座部信仰への書き換え終わった者も多いが。
<科学優先思考は、必ず優生学である>。
ジャイナに学び、発展して生まれた仏教に、その優生学はない。
科学優先の「思想」は、無信仰も含む「一神教の信仰」。
しかも、れっきとした宗教である。
<拘るべき優先命題が必ずある>、っつうこと。
優生学と言う名の「信仰教義」を持つから、そう言える。
<効率重視の文明志向者は、必ず優生学志向者である。>
この命題は、忘れちゃならん、のである。
文明を騙るやつは全員、優生学信奉者。
つまり悪魔。
特に、現代にあるアリストテレス全集は、その全巻が、書き換え済の偽物である。
オルガノンが、もはやオルガノンでなくなってしまって。
すっかり別物になっているのだ。
この世に、もともとないDNAがすっかり書き換えられて、人造のメッセジャーRNAになってしまった、そのようなもんだ。
オイラもこれでやられた。
老衰ではなく、体の遺伝子の一部が人工物に書き換えられたことに起因する病気。
外科手術はどうやら成功のようだが、まだ元に戻らん。
(遺伝子なんてのは、在る、もんじゃないのに?)
つまりウイルスなるものは実在しないのに。
それが体に不都合を起こすように働く。
不都合は存在するのだ。
これも先に述べたが。
ヘラス語が、彼らローマ人によって、まったく別物の古典ギリシャ語と理解されていった。
その経過が、歴史絵巻にあって。
これがまさにメッセンジャー遺伝子のように、読める。
それは(遺伝子組み換えは)何百年もかけて、培われたわけだ。
今日の西洋社会は、それを基礎に置いてしまっている。
しかも二千年もかけてるわけだから。
おいらのような考え方のほうが、むしろ異端となるのは当然。
それは確かだが。
しかしもちろん、オイラは自分の抱くことになった、この思想(アリストテレス講義録の全面書き換え)が正しいと信じてるわけで。
いろんな認識が繋がってきて、確信を深めつつある。
おいらはこれまで、自分一人で哲学をやってきた。
怪しげなウイキの記述だけを頼りに、勝手に哲学史を広く見て来た今回も。
本物の哲学者も、怪しげな悪魔思想も、いっぱい見出して来たつもりだ。
オルガノン(再)というこの論議は、そのまとめとなるだろう。
哲学が、誤解どころか六階されてる。
へんなものになり果て、哲学への正しい認識が地上から消えている。
その理由への、これは総まとめでもあるわけだ。
オイラの哲学史はウイキ以外の原典もロクに示さんような杜撰なものなんで、とてもこれが全体を網羅しているとか、正確だと言うつもりなどはない。
しかし孤独な居場所、<トポイ>を示すことはできると信じる。
徒歩居。
トポイは単にトピカの単数であるだけでなく、享有ということなのだ。
この言葉を知ることが、哲学(オルガノン)への入り口だろう。
<共有要点=トピカ>
トピカも単に複数形というより、徒歩居を光らせて他者に示すことである。
要点は、難しそうでも、しかし実は、うすっぺらくて単純なのである。
人の共有のファンタシアは表象という誤謬だからだ。
トピカが、場を泥沼にして悪魔的に語ってくれている。
オルガノンは、<生き物の、哲学的対象認識>の様。
つまり時空の、ウーシアのさま、だ。
同時に、<自己の無知の享有理解>の様相反省でもある。
1,生き物対象の哲学的認識であること。
これは<あからさま>な理解だ、ということ。
つまり<自然学>だ、ということなのである。
科学、ということじゃないし、自然はもちろん対象物ではない。
名詞的な命題ではないので自然学は科学じゃない。
2,それは同時に必ず、自己の<享有認識>なのだ。
時間・空間を含む<感性のもの>だということ。
反省、ネガチブも、必ず含む。
感性も悟性も、ともに必ず含む、つまりカテゴリー支配の、命題もの。
これで、生き物の時空の様と様相を理解しようと反省すれば。
アリストテレス先生の哲学の特徴が、<よくわかってくる>ことと思う。
何のこと言ってるのかいっさらわからん人は、自分に反省が全くないからわからんのである。
自然は、そもそも名詞じゃない、し。
命題にならなければ、十全な対象モノとはならない。
(これも何度も述べてきたが、わからん人にはわからんようだ。)
(自己反省の欠けている人には、わからん。)
享有認識は必ずネガチブ領域を持ち、個々人としてある。
基本が観性。
反省された領域のモノ。
知性や悟性じゃ、ない。
特に一神教的宗教に捕まった人には、到底理解できんとは思うが。
「形而上学は先験的誤謬の一方途なので、その方途はポイと捨ててください」、と言われても、対応できんのじゃろうて。
おいら、「心理学」、「宇宙論」、「神学」はすべて先験的誤謬なので、捨てんとやばいよ、と言ってんだ。
これを、形而上学を。
殺した「モノの科学認識」にし、光る他者の「優生学共有論議」にするために。
あの膨大なアリストテレス全集が作られた。
そういって過言ではないと思う。
これが現代の西洋世界の、堅固極まりない基礎なのである。
修辞学者のみみならず、悪魔達も共同作業で関わったのである。
超賢いやつらがいっぱい関わっている。
実際に西洋では、悪魔の書いたものとされる書物は多い。
聖書がいい例だ。
成立年代すらわからんし、歴史も、どこかズレてる。
原典はアラム語じゃない、ラテン語である。
紀元200年頃と言う説も数あれば、1600年ごろという説も、結構信憑性高い。
ヘブライ語の原典などはありえない。
なのに、ユダヤ人の架空の(ウソや人工の歴史)が出てくる。
騙しのオルガノンのありかたと、実によく似ているのだ。
オルガノンで扱われる、生き物という一見、客観的な対象に見えるもんは。
実は<享有者の事>でもある。
見る者(客観的対象)は同時に見られる者(生きている、無知なるもの)。
(この論議はアリストテレスじゃなく、ずっと後のデカルトのものだが)
しかも見る者は、これも反省すれば神ではなく有限な享有者であって。
倫理的な制約下にも、生きているという制限下にもある、極めて有限な認識つうこと。 トピカやって、ちょっとつつけば、必ず泥沼になるので、それが解るはず。
古典ギリシャ哲学なるものは、心身科分離の思惟によるので。
つまり死霊による知識体系なので。
優生学を持つ悪魔が常に仕切るのだが。
哲学的認識は常に、これに抵抗してきた、という経緯がある。
それをやらんならん理由が、ここでわかると思う。
おいらたちは共有者であっても、同時に、個々に享有者として<生きていて>。
基本が<享有、生きている認識>、その時空だからだ。
おいらたちの(わかる)基本は決して共有認識じゃない、のである。
分かって、初めて解る、享有認識。
オルガノンの基本は、決して共有認識じゃない。
科分離された、享有認識が基本。
(ここにヴァーチャリターの理由があるわけだ。)
ここを瞳着的知性中心主義で、共有にして理解したい人が多いのだが。
基本は生きている「感覚」なのであって。
享有の「感性」こそが、優勢学をも司る想定者。
(つまり優生学は、本来享有概念だっつうこと。)
(それがヴァーチャリターでねじれて・・・。)
ヴァーチャリターは、ドゥンス・スコトゥス先生が述べた、人の現実。
難しすぎて、ねじれて、わからんなる。
ただ、感覚的なものであることは確かだ。
新プラトン主義に抵抗してきたストア派ばかりが、感覚派の抵抗者層ではないのだ。
哲学史という歴史そのものが、このアリストテレス学問をぶっつぶし、改変しよううと謀る者たちへの、抵抗で、できてた。
その歴史絵巻ヒストーリエだった。
実はゲシヒテス・シュライブングの話してるんである。
ナチス領域の話だ。
歴史記述だと、そういいたがるんだが。
隠れたヒストーリエ絵巻があったんじゃない。
存在の絡んだ、運命をも含んだ歴史が、ゲシェーエン(生起)するものが、感覚的にあった。
微細な関与であっても、このウーシアにおける巨人の戦いに微細参戦できることを、オイラもハイデガー先生同様に、誇りに思うが。
感覚派は追い込まれてて、今日の戦線の状況は決してよくない。
今日的世界を支配した西洋社会の勝ち組、優生学の文明志向とともに、今や肝心の哲学(無知の知)が、滅亡同然なのである。
つまりナチスの理念なんか、どうでもいいんだが。
哲学博士たちが、ナチスやフランキスト同様、優生学の資金や論理学の虚無主義に、すっかりヤラレてしまっているのだ。
倫理すら自分で見えなくなっていて、反省も一切ない。
地蔵菩薩の理念などはもう、滅びたも同然で集落外に打ち捨てられて朽ちていく。
日本も完璧に悪魔勢力や外国勢力にやられてしまって、今は国ぐるみ消されようとしているのだが。
それは確かだが。
アホなおいらが冷や飯しかくえなかったのも、証拠の一つくらいには、なるやろっつうこと。
これまでの長い人生で(おいらの両親は明治生まれ)。
自分から詩を捨ててライフワークとして選んだ哲学なのに。
これを生かせる場なんぞは、<皆無だった>、とハッキリ言える。
と言うか、もし享有の哲学を真剣にやれば、自分を追い詰めるだけだとわかっていた。 人生は不可解なものである。
これも長生だった親父が気にしてたが、滝つぼに飛び込んだやつの話してんじゃない。
明日をどう生きるか、の話してる。
もう死にかかってる今は、怖いものなし?。
カミさんだけは怖いんやけど。
ブログで下手な出来損ない論文を公表すること以外は、やったことがないし。
そもそも落第生なので、優生学的に無意味が付きまとう。
哲学入門書いても誰も理解できんかったみたいで、むしろ同窓生に非難された。
大昔の余興のハッチ本は、三村先生には褒めてもらってたが、これで本業の出版意欲も資金も亡くした。
でもこっちは、世間の共有史観のほうが、いい方向に向いてる。
世界を大航海してきた倭人の過去が見直される歴史へと、動きつつあるので。
売れん稀覯本作っただけの参加やったけど、まあ、ええわい。
本業の哲学が問題。
社会の表では、おいら、哲学のテの字すらも騙ったことすらない。
オイラが哲学史で述べて来たようなことをウダウダ言ってたら、そもそも誰にも相手にされんかっただろうし、家庭も持てなんだ。
最近は、ボソボソ反芻してる命題が、ついモレ出てしまう。
馬鹿にされて、家内に水ぶっかけられる寸前までいってる。
これはソクラテス時代から事情は変わらんので、笑ってあきらめ。
特に現代は優生学全盛の時代なんで。
形而上学(心理学・宇宙論・神学)を基礎に、科学で合理的な共有世界の思惟を再構築して、理論を優生学的に利用し尽くそう、という文明思想が。
その思想抱いた悪魔が、世を支配している。
悪魔の世の中なのだ。
だから、優生学にそぐわんオルガノン追及などは、冷や飯食うしかない。
進歩発展の科学のスローガンが、世間の中心に居座ってるからだ。
ドデーンと御殿建てて。
御殿のテンというのは、そういう意味らしい。
そのため、哲学(自分だけの無知を自分で知る事)などはどうしても、追放者になる。 佇む(エポケーする)哲学は進歩発展の邪魔やから、殺せ、となることも。
悪魔の優生学が、学問の世界にも蔓延っているため、そうなってしまうのだ。
(敵がもう、明確に見えて来たと思う。)
(優生学。)
裁判では一つ勝てたが、これを補償へとつなげる先は長い。