<実在の法則と、時間・空間の解釈>
アリストテレス先生は、無知の知からの実在を直に導く。
図式といった見えてない概念を介在させず、「実在の法則」を直に構想しているようにすら見える。
「享有」を見出したが、それに拘ってないからだ。
しかし<本質>や<実体>には、たいそう拘るのである。
その拘りが誤解に六階されて、ギリシャ古典ができたが。
そっちはダメなもんなので、無視したい。
つまり<享有の法則>を、享有する感性のうちに直に探っていて。
心身一体の「主語に述語として付け加え得ないもの」というカテゴリーをカギに。
その背後に働いているオルガノンと、その法則らしきものを見出そうとした。
さらにこれらの指導理念に見えるイデアすら呼んできて、目的に据えた?。
これはちょっぴり疑問。
<空間>は、享有と共有の双方を見つけてきてる、ように見える。
だが、カテゴリーの示す<時間>は一つしかない。
この理由が不明。
なんで享有時間と、共有時間、分かれてないのか。
この時間、たぶん時間じゃないからなのか。
オルガは体(からだ)でもあるので、空間も、空間という入れ物にすぎん。
つまり単なる延長ではなく、すでにある身体にすぎんので。
実体は、ここに間違いなくある。
特定の場所に、時空的に、<オル>はずなのだ。
ほんとは一つでいいのだが、その時空間は、あえて共有、享有を分けた?。
オイラに見えてない意味があるんだろうか?。
カテゴリーに尋ねてみよう。
(分量、性質、関係)。
(場所、位置、時間)。
(能動、所動、状態)。
これらは三つ巴で、つり合い取れてるんだが。
時間、はおいら、ここでカテゴリーに入れるべきじゃないと感じた。
意味がずれるので、たぶん翻訳がおかしい。
この「時間」は、人が測る「時の間」の意味じゃなくて。
なんか別の、客観的な現実の機能を規制にかかっている感性のように思えるからだ。
具体的な時間じゃなくて、居ることの時間的意味みたいなものを表現したがっている。。
関係が状態となる、その中間に居ることの、感性的制限の主張だろうが。
つまりここでは、図示あるいは憂慮、みたいな言葉がむしろ、はまるんじゃないだろうか。
形成済の図式じゃなくて、それが執り行う規制の方が言いたいもの。
享有、共有という科分離思惟は適当じゃなく。
むしろここから右に向けて、可能、仮想、現実の順に表現してると思えるからだ。
縦に向けても、何かの制約経過を表現していってる。
そう考えれば、ここに出てくる9つの様態は、ぜんぶ生命体の現実のあり様のはずなのだ。
右に向けて、主観から客観に至る経過を捉え。
下に向けて、関心の力が実際の力となっていく、その経過を示してる。
だから関係が最後は状態となるのだが。
これは分量が状態として規制されたことでもある。
中間には純粋がしゃしゃり出るんじゃなくて、配慮とか憂慮といった、感性の中間が示されるべきなのだ。
「分量」はホンマに<享有特有のもの>であって。
共有でも使えはするが、共有(目)的ではないことがわかる。
それが証拠に、プロテスタントたちには、これが理解しがたかったのである。
オッカムなど、不要としてそぎ落としてしまった。
なので、ここでは享有の(分量を)指すわけだ。
共有「目的の」分量じゃない。
あくまで享有が、人の「あり」のモト。
「性質」もまた、享有から見ての主観的な固有の関係なのであって。
その「関係」のみが、今度は主観と無関係で客観的に共有のものとわかる次第。
享有からは個々に、はっきり見えても、関係としては一切見えとらんからである。
つまり享有にも関係するんだろうが。
それは享有側からのみのカテゴリーが働いた場合の話だ。
関係構築には「力関係」が要る。
享有とも共有とも言い難い、「優生学的判断」が、そこに絡むようには思う。
(だから、客観の客観狙いの構想者達は、エネルゲイアを力関係ではなく純粋に、「力そのもの」と捉えたがるのだろう。
(しかしモノ自体はないし、力も、感性に捉えられた「もの」にすぎん。)
「場所」は享有特有の、空間ものである。
科分離されてて、見えん部分があるのだ。
場所指定といった場合には別の問題が介在するが、場所だけでは「判断適用前」となる。
「位置」はそれに対し、もともと共有の場所を意味していて、享有的な事態には関わってないことがわかる。
そして「時間」は、ここで享有にも共有にも<共通>の、完璧に共有ものなのだが。
やはり時間ではなく<憂慮>だろう。
固有な享有時間があったとしても、享有者以外には<無関係>となるからだ。
「能動」、は享有の可能を問う動きで、客観視しようがない。
なので、享有なのでは?。
「所道」は享有の動きの所在動きのことか?
意味が、コレ、ようわからんのである。
「状態」は、それに対し、<享有対象の・共有態>をこそ言う。
ざくっとみて、訳が悪いとは言わんが、ぜんぶ、ようわからん。
享有の命題適用範疇をエイドス・エネルゲイア「適用前」と考え。
共有の命題適用範疇を「適用後」と科分離的に考えれば、むしろわかり易いだろう。
だからそのように、後者の方に偏って、伝統の古典ギリシャ思想は考えたのである。
しかしそれは誤り。
そしてアリストテレス先生は。
形容・力関係はいずれにせよカテゴリー命題としては、「無視」なのである。
科分離理解においては形容・力関係という思想にはカテゴリーが絡んでくるが、それが未だきれいに見えてこない部分があって、というべきか。
疑惑部分なのだ。
<純粋悟性概念の図式>
次に、カント先生のカテゴリーである<純粋悟性概念の図式>のほうを、見てみたい。
このカテゴリーは、次のように4つに大きく、くくれる。
アリストテレス先生のは3つにくくれて各項目表題がなかった。
量(単一性、多数性、全体性)
質(実在性、否定性、限界性)
関係(実体性、因果性、相互性)
様態(可能性、現実存在、必然性)
こちらの形容・力関係は、一切事前には絡んでないことが明瞭にわかる。
純粋モンだから、当然なのだ。
優生学適応前の、<経験を含まない非現実様態、その構想>、だからだ。
人に見えてない図式を、強引に、むりやり図式として見せるための仮想物なのだ。
但し倫理の規制が事前にあるので、何もかもウソというわけじゃない。
うふぉ、程度だ。
純粋構想の悟性概念として、そういった仮想物として、カテゴリーを採り上げたのだ。
つまり知性ではないが、仮想のものにおける(先験的な)純粋知性の図式なので。
見まわしても、時間・空間部分やその感性的判断は含んでいないはず、なのだが。
結局演繹の最後に。
これらの背後にある、時間・空間がことごとく、主人面して出て来て、ひっくり返るわけだ。
<図式は構想力であり、時間的、空間的な感性のこさえものだ>、となる。
純粋悟性の概念自体が、神の与えたもうた側のものではなく、実は感性の形式が形成した構想にすぎなかった、そのことが世間に暴露されるわけだ。
延長として理解された、西洋独特の空間概念とは異なる理解を、すでに含んでいるので注意されたい。
例えが悪いが。
優生学抜きに始めたはずの純粋な先験構想が。
実は「優生学判断に基づいてたんだ」、と、認めてしまうようなものが出てくる。
図式が出てくるのだ。
それがこれ、人倫のカテゴリー(制約)においてなのだ。
「量」を念頭に、「単一」、「多数で」、量を司どる、享有の延長的図式を示し。
量の「全体性」の構想で初めて、共有問題が顔を出す。
そしてこれらカテゴリー全部でもって初めて、まったき時空を持つ、「量」となるのだ。
共有部分のみでは、全き量は形成されない、ということ。
享有、共有と別個に絡んで、しかもそれをくくれば「量」となる。
次の「質」、念頭の、「実在」とその「否定」は、これもいずれも、享有問題である。
「限界」が示されて、そこで初めて共有が見える。
(これが示すものも意味深で、<有限さがなければ、共有はありえない>のだ。)
まったき「質」になるのは、そのすべての条件が網羅されて後の話。
次も、「関係」を示す「実体性」、「因果性」、いずれも個々の享有問題であり。
「相互性」が出て、初めて共有となりうる。
「関係」のカテゴリーは、そんな複雑さをもつのだが。
優生学判断済で、すべてを割り切って科学してると、こんな純粋悟性の関係自体の持つややこしさが、自分に一切見えてないことが、そのうちわかってくる。
最後の「様態」念頭の「可能性」は、享有あっての個別ものだ。
そして「現実存在」もまた、享有のものだ。
伝統のギリシャ古典哲学では、これを(エク・ジステンツさせた超越表象ものを)実在に置くので、一見、享有のものだとは見えないのである。
可能性は、普通は現実でないファンタシアものだと、つまり可能的なヂュナミスだと捉えるのだろう。
そうではなくて。
可能性も現実存在もまた、オイラの優生学的判断が絡む、<享有的判断>だと置くのだ。
つまり、オイラのねじれた優生学的「判断済の、感性的認識」こそが現実なのである。
(此処で、ちょい脱線したい。)
(用語の科分類、切りそろえをしてみたい。)
エク・ジステンツ(脱存)は、現実(享有)に立って、時空判定を正しく見ようとしての既存認識からの<脱存>であって。
セーヤン(キルケゴール)やハイデガー先生など、脱存論者の時空解釈の立場のものだった。
エクジステンツ(超越)は、スコラ哲学由来の(誤った)時空表象選びで、科分離思想のモノ。
しかもこっちは哲学ではない宗教のモノだ。
これに更にユダヤ人などが参戦し、エクジステンツは「実存だあ」とか言い出して、世間を掻き乱した。
それらはしかし文学的ファンタシアであって、スコラ哲学と同じく、まったく哲学ではないので要注意。
(短期で、脱線から脱出。)
さて、「様態」においては。
必然性の構想ができて初めて、共有論議が、後(跡)からでてくる。
まったき「様態」となるのは、これらできる現実の必然性がが示されんとあかん。というわけだ。
カント先生のカテゴリーは、正しくは、「量、質、関係、様態」の4つで。
その「範疇的過程」を示しているように、一見、見える。
だから多くの人が、カテゴリーは「範疇」だなんて言い出したんだろうが。
これは全く正しくない。
享有に見出されたケッペンものが、まったき共有になっていく。
つまり判断「保留」の無意味な命題が、全き時空を選んでいく「図式過程」を示しているとも言えるんだが。
図式は実は、<そんなものやない>のだ。
図式が働いてる先は、共有じゃなくて<享有>なのだからだ。
倫理やカテゴリーが享有だけのものであるように、図式の働き先は享有オンリー。
方程式やプログラム言語みたいなもんとして図式=構想力を考えると大誤りが起きる。
現に現代のほとんどの科学者には図式が見えてない。
図式の働きは一見。
優生学と無縁な命題ものが、正しい時間・空間を選んでいく、そのようにも見えるんやが。
しかし「全体」、「限界」、「相互」、「必然」、は、時空を選んでしまって後も不変。
正確さや厳密さがつけくわわったりはしない。
究極の概念などとは特に、一切<無縁>なものなのだ。
エンテレケイアなものなど、どこにもいっさら、出てこないのである。
むしろ図式の働きは、カテゴリーにカタログ化された、「個々の役割の意味」を淡々と図示しているにすぎない。
図式が働いてる先は、共有じゃなくて、<享有>。
これ(図式)は、その享有者のためのロゴスのカタログ。
さてアリストテレス・カント両者の相違部分は、というと。
まず、「量」と「様態」部分は、アリストテレス先生と、ほぼ一致し。
状態の「意志」や可能性を示す「能動」、「所動」と言った、誰がやってるのかわからん権能が消え、
かわりに共有明確な「質」と「関係」が加わっている。
そしてアリストテレス・カント両者に一致しているのは、次の点である。
<形容>・<力関係>は、ともに、ありそうで、<ない>のだ。
エイドス・エネルゲイアは無関係。
・・・であるのに、優劣付いたのちの悟性「判断済」、あるいは実在「承認済」も。
すでに「混在済」だったってこと。
これらは図式の権能、つまり人の感性の働きとは別のものなのだ。
カテゴリーは人倫の牢獄を論議してるんだから、当然かもしれん。
(範疇と理解したのでは、この論議は全く見えんなる。)
そしてこれらは「神の世界を論じてんじゃなく」。
カテゴリーという、<有限な人の世界を論じてる>。
うふぉもん、だからだ。
(つまり範疇を論じてるんじゃない、形而上学的課題は「ない」ので、くれぐれも間違わんように。)
だからここに、神の視点導入などは、許されんのである。
宗教介入は、お門違い、お払い箱。
メタバシスなども当然、まったく許可されはしないのである。
オッカムのやった不当な神権の介入のことだ。
エイドス・エネルゲイア「適用済」の理由が、ここにある。
アリストテレス先生もカント先生も、二人とも、神の視点介入などは<許可してない>、からなんである。
オルガノンやってるのに、神は無縁。
優生学的判断が、カテゴリー上ではすでに「判断済」となってる、その理由だ。
<(唯一)神の視点は許可されない>。
だから、除外したのである。
享有から始め、それが共有となって、主題が「人倫の命題」となる。
これを簡単にぶっ壊してしまうのが一神教なので。
だからダメだ、とオイラもしつこく言うのだが。
宗教家連中は神の視点を、一意に統一しようとして、あらかじめまとめてしまうのである。
「カルト教義」にして世間に流布してしまう。
そないなことやっても一元には決してならないんだが。
一元論を目指してしまう。
「オルガノンに神の視点は許可されない」、とあるのに、一神教徒の「信仰心」は、それをやってしまう。
だから「哲学としては、宗教介在あるのは金輪際ダメなんだ」と、オイラ言って来たつもり。
カテゴリーは優生学判定を「除外」してるのに、判断済となる理由だ。
その「現実の時空解釈」では、二人の立ち位置に違いがある、そのことが見えてきたはず。
アリストテレス先生は。
実体が実体となる様の時空解釈を、享有から始めて共有まで網羅した。
カタログ化し、十全なオルガノンものへの将来的構想とした。
(講義録なんで、生徒に考えさせる目的でアジェンダ使った、だから誤解されたんやが。)
カント先生は。
純粋悟性概念の図式構想そのことの、時間・空間的解釈のカタログ構想の提供者。
(唯一神を冒涜するつもりはないので、これで逆に誤解された。)
つまり両者ともに、「優生学」という「現実判定論議」を<無視>しての、オルガノン構想なのである。
「優生学は」現実判定論議を無視して「目的ありき」、なので、オルガノン構想からは除外なのだ。