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2024年09月12日
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カテゴリ:哲学研究室

 <判断力批判について>

 さて、カント先生の判断力批判が、まったくもって優生学批判ではない、という話もしておかねばなるまい。
 批判どころか、肯定という意見もあるほどだからだ。
  アリストテレスのオルガノンやってる途中なんだが、無関係じゃない。
 ただ、これは泥沼清掃の類であって、オルガノン構想ではないので注意されたい。
 いわば脱線なのであるが、大事な大事な脱線清掃作業の部類だろう。

 カント先生の思惟は、無知の知に沿ったコペルニクス的転回後の、哲学的思惟。
 反省的で普通とは逆向きの思惟だった。
 オルガノンに沿ったもののはず。
 カテゴリーに導かれての思惟のはずなんだが。

 西洋の古典ギリシャ伝統のおかげで、誤った濁流にも掉さす必要に迫られ。
 それが原因で、ぜんぜん別物へと誤解されてしまっちょるのである。
 まず世間様の判断力批判認識を見ていく。


 <世間の判断力批判認識>

 「第一部、美的判断力の批判と第二部、目的論的判断力の批判から」なる。
 これはそのとおりだろう。
 次の、「判断力に理性と感性を調和的に媒介する能力を認め」た、というのがウソである。
 媒介能力なんか念頭にない。

 ウイキは判断力という図式みたいなもんがあると、調和的に媒介する能力がある、というのだが。
 これは紙一重の、優生学肯定の別解釈。
 判断力批判は、優生学を批判できずにぽしゃってる、だけなのだ。

 カント先生は、科分離思惟にあるはずの「理性と感性を調和的に媒介する能力」を批判しようとした。
  科学的に思惟し、それを反省していった。

 「批判しようとした」のである。
 能力理論を見出そうとしたんじゃない。
 是をまちごうたら、ワヤになる。
 純粋理性をズタズタに解剖してばらしたように、人の判断力をもぶっ壊してみようとしたのである。

 つまり西洋の優生学的判断を、ぶっ潰そうとした。
 その思惟を逆立ちさせて皮を剥ぎ、伝統的思惟にある潮流思想なので、ぶっ壊そうとしただけなのである。
 できなかった。

 だからといって、「調和的に媒介する能力がある」、にはならない。
 「ある」は、享有的な認識なのである。
 共有のものじゃない、からだ。
  カント先生は、愚痴も言えんような封殺され切った人じゃないので、愚痴垂れた。
 それが誤解された。

 同じクリチークでも、純粋悟性概念の図式を見出したような仮想の純粋理性相手の成果のようには、事が運ばなかった。
 享有「実在」が絡んでおり、「形而上学」の問題も出てくるし。

 ただ、これらは片付いてるはずだった。
 しかし判断には、とりわけ「優生学」の問題がモロに出てくる。
 だからぶっ壊し、できなかったのだ。
 西洋の歴史の全否定になるからだ。

 だからこれが、「実践理性の象徴としての道徳的理想、神へ人間を向かわせる機縁となることを説く」などと、宗教勢力に採り上げられ誤解されるんだが。
 「それはまったくの誤解というものだ」、と言いたい。

 先生に「宗教的意図は皆無」で。
 この神指向への理解は、「科分離的論理思惟者の騙るウソ」、それの虚無主義論理塗り重ね、なのである。
 ウイキの理解の事言ってんだ。

 先生の思惟はもともと、逆転してた「哲学」であるからだ。
  科学じゃない。
 つまり<ネガチブ>な、<反省的な思惟>なのだ。

 思惟はネガチブでも、アルケーにモノが現になければならないオルガノン的思惟。
 つまり心身一体の哲学。
 科学的な合目的思惟ではないのは確かなのだが、そもそも神なんぞ、予定に見えてるはずないのである。


 <先生の判断力批判>

 「当初は{趣味判断の批判}として構想された」。
 たしかに、のちに「構想力概念の展開から目的論的判断力の批判が加えられ」たかのように、一見見える。
 当局への迎合、修辞的態度の変化なども、確かにみられるが。
 当初の<目論見どおり>だと思う。

 その基礎から、基本「構想」は破綻していたのである。
 ウイキの解釈は、この<破綻>を、最初から全く見ようとしてない。

 過去の話だが4回生のとき、オイラの学部卒業を三村先生は卒論破綻評価してくれて高得点がもらえた。
 しかしオイラ得意だったはずの一般教養の数学が落ちて留年したのも因縁を感じる。
 胃を壊しての二年目の卒論はもうホントに、メタメタだった。
 構想力の問題は、数学的ではないのだ。

 破綻と言うのは、ネガチブな思惟が引き起こす。
 それを導いたのがネガチブな図式の反省思惟なのであるが、ウイキは理解評価どころか、まるで認識できてないようだ。
 ウヤムヤに結末を胡麻化すだけだ。

 じつはカント先生の英知でもってしても、オイラの先生である三村先生の英知でもっても。
 目的論における判断力の批判、つまり優生学判断済みの科学的認識を逆さにひんむくことは、できなかった。
 それは事実。
 三村先生も、カントにはわからん部分が多すぎ、といつも言ってた。
 まちごうても学部生が、構想力の問題なんぞに手を出したらあかんえ。
 沈没します。

 それを破綻沈没を「成果として<<ネガチブに>提示している>」のに。
 誰も共有理解しようとせん。
 なるでネガチブが見えてないからである。
 世間の古典ギリシャ以来の、科分離思惟のポシティブ一辺倒の伝統が、カント先生の斬新な思惟を許そうとはせんのである。
 (つまりウイキ論評では<ネガチブ図式部分>が全部一切、ハナから無視されてる、っつうこと。)

 美的判断は「表象から行われた」とする認識から、世間判断は出ることはできず。
 結局「快苦を基準として判断を趣味に委ねる」?。
 なんじゃこれ?
 これを明らかにしたいわけだ。
 趣味に逃げ込む理由を。

 この「趣味」と言う訳語も、これがまたまた、超へん、なのだ。
 むしろ主観的な、<風味>とか、<味わい>のことのはずだろが。
 勝手に、客観持ち出してはいかんじゃろが。

 客観の趣味なんて、享有の持つ概念とは無縁な、想定上のもの。
 ここでは相手すべきもんではない。
 「好み」や「嗜好」と、共有化して理解しちまえば、それは確かに判断後の趣味と同類になる。
 だが、主観ー享有と、客観ー共有を、韓国風のおいしいまぜまぜご飯にしてはいけないのである。

 筋の通った日本文化に韓国文化をまぜまぜしてはいかん。

 知的な「表象」などでは、そもそもご飯は、「味わう」ことができない。
 判断済の、うわっぺり見栄えだけになっち、まうからだ。
 まずいプラスチックコーティング米食ってるようなもんだ。

 味を騙して旨そうに仕立てる、詐欺目的の危険物だが。
 癌の原因になるこれを、旨いという享有人がいるんだろうか。
 共有者ならおるだろうがの。
 味わいは、「享有」だけのもの。

 「風味」に至るには、どうしても先に享有認識に基づかねば至れないのである。
 人の感性は、日常的な時空においてには、「味わい」を確認できている。
 おいらたちは、「享有を理解するがゆえに」、日常を味わうことができている。

 つまりここで行われる判断とは。
 対象の性質を認識する事によって行われる、科学的共有判断ではなく。
 「日常の個人享有判断」なのである。
 (そもそも、科学的共有判断は、できん。)

 表象がすべてを網羅し裁断するというのなら、その享有判断にない別の、ネガチブな時空の判断となっちまう。
 細断も裁断も、あげくは死んだメシアの<祭壇>になっちまうからだ。

 つまり「享有判断が、表象の時空とは違う時空にある」、ということを先生は言ってんのだが。
 そういった論議は徹底されずに、無視されてしまった。
 なぜか「美」や「崇高」が唐突に、しゃしゃりでてくる。

 つまりこれは、伝統の古典ギリシャ思想が共有世界を見張っているため起こる事。
 優生学判断済みの科学的認識を、逆さに時間経過を遡ってひんむくことはできなかった、ということなのである。
 ネガチブな図式は<構想されえない>のである。
 だから、アルケーへのとっかかりが、ないのだ。

 判断前の享有「風味」から、判断後の共有「嗜好」に、なぜか論議の重点がずれて移ってしまうのである。
 これは世間がそう誤解した、ということもあるが、そんだけじゃあるまい。
 その前に「西洋の古典ギリシャ」という、西洋が越えられない問題があるのだ。

 カント先生は敬虔主義者のカトリック信者。
 つまりトランプ派。
 なので「崇敬」には拘ったとしても、メシア志向なんぞはゼロのはずだし。
 「科学者」でもあったので、優生学をコキ下ろしたい意図なんぞも、皆無のはずだ。
 だから「優生学に沿ったもの」、という評価ができてるわけだが。
 これは批判書であって、肯定書ではないつーこと、忘れたらあかんえ。

 そもそも先生は科学的啓蒙著作の数々でフリーンメーソン達に注目され、それで哲学教授の座を得て、貴族に伍して、贅沢に辛子を擦って食いつなげたのであるから。
 破綻には熱心でないのはもちろんのこと。
 表象の時空と違う、享有時空は、結局構想されずじまいで終わって当然のように一見見えるのである。

 しかし純粋理性批判で形而上学の先験的誤謬を見出したような、画期的な泥沼整理がなかったのか、というと。
 オイラたちに、その泥沼が満足に見えてえへんもので、著作をきれいに読み取れてない、つうのが正解だろう。
 少なくともウイキの世間理解は、ぜんぜんダメである。
 オイラの理解も未だ中途半端なんやが。


 <哲学的理解へのヒント>

 ヒントはある。
 「美」という優生学判断においては、「想像力と悟性の一致が見られる」のかもしれんというのだ。
 しかし「崇高」という、直に図式としては見えてない<ネガチブな図式においては>という、お預け物なのだ。
 カトリックはわざと認識をねじれさせて、特異点を、ミステリーを作る。
 その操作が「想像力」と「理性」との間に<矛盾がある>ようにみせてしまうのだ。


 つまり想像力というものは、理性に沿って「理性の法則で動いている」感性的なナニカではなくて。
 間になにかがある。
 つまりここではまったく別の、<ネガチブな図式>が働いているにすぎんのだが。
 ミステリー時空にすり替える。

 それを証明するのが、「矛盾あり」という数学論理だ。
 この「あり」は享有特有のものなので、数学も中途半端なわけだ。

 そして「崇高」と言うネガチブな(見えてない高みがある)、とする。
 崇高は共有では見えてない。
 図式というのは構想力であり。
 見えてない時空間そのもののことでもある。
 つまり見えてないものをも含む、客観的にも可能とする、感性形式なのである。

 この<居る、時空間>や、未だ未知の<ネガチブ、図式>がなければ。
 そもそも構想自体が働かない。
 純粋悟性概念の図式を働かせるに足る、カテゴリー命題がなければ。
 知的対象認識のものですら、一切ない、わけだ。

 (構想は、オイラという享有者が知的に構想してるだけじゃなくて、ネガチブな図式にもポシティブな図式にも、共有的に動かされているのか?)
 想像力には、「ネガチブな図式」が控えるんだが。
 つまり、知らんままにこれ(ネガチブ図式)に操られてると思ってんだが。
 少なくとも形式で引っかかってるんで、真に知らんままに、ではないというわけだ。

 この立ち位置は、敬虔主義の、その敬虔認識をもたらす崇高の、<さらにその背後には何が居るのか>といった。
 <判断済テーマの反省のはず>なんである。
 (一度図式に思惟させられた科学的思惟の、それを、反復して反省してるわけだ。)

 「想像力」と「理性」との間には、矛盾がある、という命題。
 これはもちろん、純粋理性批判で「先験的に確かめ済」だった。

 判断力批判は、そもそも「純粋判断力批判構想」などでは絶対にない。
 日常に「ある」優生学判定済の理由を尋ねて、日常に「ある」享有に問いかけた、哲学なのである。
 科学の死霊調査ではなく、現に生きてるフィリアへのスリスリなのである。

 反復の反省、なのである。
  「個人の趣味」とウイキにあった。
 (だからこれの批判なんで、破綻はもともと決まってるんだが。)

 神を求める神学ではないし。
 切り刻んで科学する宇宙論でも、生きる方途を尋ねる修辞学でもない。
 ポシティブ1本槍じゃないので。
 そもそも「信仰が動機じゃない」のだ。

 科学なんぞじゃないのは、もちろん。
 科学的にわかりたかったつうのも、もちろん違う。

 動機はやっぱ、「フィリアちゃんにスリスリしたいな」、だ。

 もう一度、信頼を受け取り直し(反復つうこと)したい。
 だから先生はヴァーチャリターをまるで理解しようとしない現実<主義者>たちに、捕まり得たのだ。
 先生は、世間がそう考えてるような「形而上学構想」ではなく、到底ムリな「オルガノン構想」をやろうとしてたんだと思う。

 批判意図を破綻させるつもりなんぞも本当はなくて、それは「単に予定」で。
 享有判断を純粋に見出して、哲学の真髄を示し。
 次に<ネガチブな図式をむき出しにし>。
 最後に客観の客観を尋ねるようなことにまで、手を出して。
 破綻してこれを示す予定だった。

 4つにくくれるカテゴリーを駆使して。
 図式の4つある時空のカタログ。
 4つあるポジ・ネガ、を、批判目的で反省したのだ。

 しかもこれらを、科学的に「科分離方法で哲学」してた。
 これが本当の科学哲学構想。
 もちろん、不可能はわかっちょる。
 理解すること、それも(つまり科学も)忘れてえへんかったつうこと。

 逆向きの反省思惟はしかし、科分離思惟では<絶対に不可能>なのだ。
 科学的思惟は一切、<反省できないから>である。

 しかし信仰が動機じゃないのに「崇高」な他者なんぞが出てくるなんてのが、まさに科分離思惟でない証拠じゃん?。
 享有美に対し、共有のフィボナッチ数列や黄金律を見出し問うような、一見、科学的態度。
 (不可能な破綻思惟反省。)

 数学的共有実在を混同した追及テーマなんぞじゃない、のはもちろん。
 崇高に何かを真摯に問いたい、わけなんぞでもなくて。
 ズレた崇敬に、人倫の理由を問わせて稼ぐカトリック宗教でもなく。

 単に<無知だから知りたい>だけ、だ。

 ただ。
 知りたいは、必ず、「知らされたい」でもある。
 図式の操る、感性的働きの反省。
 時空的には必ず、これは4つのカテゴリー的課題側面を持つのだ。

 これをちょっと脱存して科分離併記すると、何かが見えてくるように思えてしまうのでやってみる。

 ポジ時間、ネガ時間、ポジ空間、ネガ空間、が、カタログ的に構想できる。
 範疇的にではなく、倫理的な拘束力を持つカタログ。
 カテゴリーそのものではないが、そのような機能も当然あるわけだ。

 ポジ部分は、享有が理解できてる明るい面の図式分で。
 ネガ部分が、暗い共有図式である。

 時間・空間は、これは感性形式なので、ポジにもネガにも対応できてるわけだが。
 普通は見えてない。
 形式として、感性の枠を支えるだけだ。
 これが鋳造される範疇と誤解される。
  鋳造ではなくカタログ提供なのだ。

 但し、思惟や理解には、必ず「カテゴリーの制限」がある。
 オイラが時間旅行などありえんと述べる理由だ。
 理解の枠を超えようってんだから。

 空間旅行はできる?
 実はオイラが移動してるにすぎんのやが。
 <時空は一体の感性形式>にすぎんので、空間をそのままに、時間だけ対象とはならない。

 ポジ時間やポジ空間は、享有できるが。
 ネガ時間、ネガ空間はそもそも、<享有できようがない>。

 そしてポジ時間や、ポジ空間は、これはなんと・・・<共有できない>のである。
 <有は、享有のみ>だからだ。
 享有は、ネガチブな共有。
 共有は、ポシティブな享有と、役割分担はっきりしちょる。

 ネガ時間やネガ空間が共有できないのは当然と思うかもしれんが、まるで逆なのである。
 「ネガ時間やネガ空間は<共有できる>」のである。

 むしろ、ポジ時間や、ポジ空間は<共有できない>という問題がでてくる。
 (やっと見つけたナ。)
 つまり共有という事態は、ネガチブ専用品御用達、ゆえに共有なのである。

 なのにこれを、みんなでポジティブ専用御用達に使ってるから。
 おかしなおかしな命題が出てくるわけなのだ。

 享有は、固有のオル・カノン時空を持つ。
 共有は持たない。
 なので、そう「なる」んだろう。
 持たない共有に、ムリヤリ時空ずらせてでも生成させる。
 それが共有的に<有る>ということ、同義反復=他者としての神である。

 共有は、それ固有の時空を持たないゆえに、共有。
 共に有る<空想、想定>にすぎんから、というのが存在理由だ。
 見えてない図式が引きずり出した共有には当然、<客観の客観が立たない>。
 これが客観の客観が立たない真相の、いわく由縁だ。
 
 ポジ時間や、ポジ空間は、カテゴリーでの制約上、絶対に共有ありとはできないんである。
 つまり<ある>と言えない、わけだ。
 共有の仮想時空には置けるやろ、と思うかもしれん、純粋にすればいいかと思うかもしれん。
 事実、そうなされて来たんだが。
 仮想時空だとか、中性的変容だとか、そんなもんは、ほんまは<ない>。

  ある、のは<享有世界の証拠>が<ある>のみ。
 共有には、<ない>、のみ。
 これは、以前はオイラ気が付いてなかったが、超重要な命題である。
 オンという共有存在は=無の理由でもある。

 共有は、享有する図式の<ネガチブな領域にすぎん>ということだ。
 図式にもポジ、ネガ両面あって、ネガ図式部分が共有。 


 <判断力批判に戻る>。

 「いかなる天才といえども趣味判断を(天才に)服属させることはできない。」
 「恣意的な概念作用よりも、芸術の内実的な美的技術、すなわち趣味が決定的に優先される」
 これらの趣味を判断するのは主観であり、<享有>である。
 享有が必ず先にあって。
 <あり>がそこから始まる。

 共有は、それらに<ネガチブな関与>ができる、だけである。

 これはオイラの<自然観>でも確かめられる。
 先生の論議でもこれが出てくるからだ。

 オイラはしつこく、「自然というのは名詞ではなく感性の言葉だ」と言い続けて来た。
 ヘラスでは、隠れ無き事(ア・レ-テイア)、という形容詞フィシス。
 昔の日本では、しぜんと、出来事に付随して感性補助で出てくる「副詞なんだ」と。
 自然学はアリストテレスにとって超重要な学問であったが、その自然は「自然対象物を意味しない」ということ。

 「自然の所産においての目的の原理は、自然の特殊な法則を探究するための発見的原理である。」

 オイラに言わせれば発明品なんだ。
 つまり以下もオルガノンのことを述べているのだが。

 「全自然の理念は、原因はつねに目的論的に判断されねばならないという課題を課すものである。」
 つまり「全自然の理念」なんつうものは、個人享有者の妄想にすぎんのである。
 そして共有者にとっては、ネガチブに働くので、ことごとくメ-・オンとなる。

 (科分離思惟では)「目的論的に判断されねばならない」という課題が立ちふさがるので。
 図式はおろか、カテゴリーがより分けた区分さえ、怪しくなるのだ。
 自然を全きもの、<それ自らあるもの>、としてしまうと。
 その「原因は、つねに目的論的に判断されねばならないという課題」となるだけなのだ。

 課題が出来ちまうだけ。
 ネガチブな領域の、目的論に囚われの図式が出来てしまう。
 そしてこれがカルト、ということなのだ。
 カント先生が「崇敬」を見出すその先。

 先生はカルトの一員として、美のような共有目的を持つ、道徳に日常を頼る。
 まあこれは、宗教組織当局者に追及されないようにするための、ある種の偽装妥協かもしれんが。
 先生はフリーメーソンリーだが、当局はカトリック最優生だったので。
 (しかし先生がカルトだとしても、当初の<批判の目論見>は破綻しているのである。)
 カルトでなくなってる、自分の無知をちゃんと自分で、見出してる。

 カント先生の判断力批判は、まったくもって優生学批判にはならなくて。
 世に共有するキリスト教の諸道徳に頼る、へんな結論となった。
 これは当局の監視があったという理由からではなくて、<人が常に優生学的課題を背負っているから>、である。
 生きにゃならん。

 その課題が共有論議に(ある、空想される)。
 そのネガチブな図式的制約の結果である。

 判断力批判の最大の成果は、これだと思う。
 <享有認識は、あるを語り>。
 そして<共有認識はネガチブ領域専売特許の認識である>、つうこと。

 これは虚無や超越がもたらした認識ではなく、論議の破綻がもたらしたものなのである。








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最終更新日  2024年09月12日 08時46分16秒
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