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2024年11月12日
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カテゴリ:哲学研究室

 「知性」

 知る、「知性」ということをここで考えてたようだ。

 知性は、「単独」行動してんじゃない。
 しかも「客観的にそれが像化作用をする」ことなどは、ありえない。

 知性は、瞳を対象に置いて瞳着し「一体化する」のみのはずだからだ。
 それが知る、ということのはず。
  機能の瞳ではない、心の瞳。
 表象であるなら機能だが、表象ではないはず。

 物事の客観化には、自分と別に客を置く。
 だから必ず単独ではなく「複数の視点」が要るんだし。
 知的な像化つまり像の認識には、動詞行動も、知る行動の場つまり立居場所の時空も、必要なんだし。
 そういった「モト」がないと、知性として像化させられない。
 瞳着的インスタンスコピーは、できないはずなのだ。

 知性が表象認知してんのじゃないし、知性が「アリ」を形成してんのでも「ない」、つうこと。
 (一神教命題は間違っているんでは、と言いたいのだ。)
 つまり「感性」が<もともと「ない」>となると、知性も単独では、ありえ「ない」、と言いたいわけだ。

 感性と、さらに「無の命題」が必要。
 生命活動が必要。
 (だからカント先生は、モノ自体の無を命題化し、(みえん)純粋悟性概念の図式を想定した。)
 知性単独での知的な客観像形成などは、ムリ(無・理)だし、不可能なものなんである。

 人の知性には必ず、感性の形式みたいなもんが、知性権能と同時に導いている。
 カント先生が言う、あんよひも、があるはず。
 この導きが、「命題におけるカテゴリーの作用」であり、「享有者に働く倫理」としておいらたちの日常に関与してるもの、である。
 カテゴリーも倫理も、便宜的な仮のもんではないのだ。
 実在のもの。

 つまりつまり、知性そのものであるという、西洋の唯一神は。
 オルガノンが出来上がっていくと、人の感性無くしては、なんにもできないことになっていく、わけである。
 だから西洋では、神は最初から「全知全能」にして超越させてしまった。
 人の感性すらも、知的に単に表象的に「ある」、ことにしたわけなんだが。

 (アル、の立位置がおかしいだろ?時空の上に立つモノなのに、足元が空虚。)
 (ネガチブな客観無も、無視されてるだろが?、と、ここでオイラ言ってるわけだ。) (詐欺があるんでは?と。)

 「知る」ということには、無知ではなく知識が相手だから、必ず始まりと終わりがある。
 その矢口となる対象への「コピー能」みたいなもんが働いたと、確かに、みなせはする。
 図式が働いた?あるいはそれが知性という力?、と想定ができる。

 それは「オクケンの空想」なのであるが、それはいい。
 そのコピーのさまの事を「命題」にした、しかも、「知る」は動詞なのである。

 すでに動き出している知性と言う命題では「ない」のに、命題提示し、しかも「・・・した」のだ。
 インスタンスという、瞳着の動作が、その知性動作の<反省・演繹>のために導入されたというわけだ。

 インスタンス的な、剽窃ともいえる「同一化」が、ここに突然「ある」ことになり。
 数学的に、<帰納・判断的>に、合同化を図ることになる。
 これが知性的かつ客観的に「ある」、という事態なのだ。

 「あり」も「無」も、演繹も帰納も、重なる。
 このことが、この<重なること>が。
 「知る」ということのためには必要不可欠でもあるんだが。

 命題では「同義反復」といい。
 あるいは動詞的に、これを「瞳着」と、命題みたいにいう。
 しかし瞳着には後先がある。

 優生の判断が、つまり優勢学的「帰納作用が」、ここで起きているのである。
 但し時間・空間無視のままで、図式上の空想において。
 空想の戯れじゃない、図式の指導下で。
 (オクケンが起きてるんでは?)

 あり、が、つまり享有図式が、ここには(みえんままに、無として)働いている。
 なんと、「あり」、が「ある」、ことになっている。
 同義反復になっているのだ。


 瞳着的な、つまり<モトからの>知的な「瞳指摘・動詞的」一体化。
 これが「ある」、ということ、つまりつまり、これは「判断」なんで。

 だから主観が先、モトのもの、時空のあるもの、なんではあるが。
 「知る」には瞳着も必ず要るし、感性も必ず要る、のだ。
 判断前に「ある」のは、「ありえへん」やろ?


 理論的オクケンとしてムリヤリ取り出したが、つまりオルガノン的には、一体の不可分なもののはずなのだ。
 瞳着像には、決してならないはずなのである。
 つまり表象など、ない。

 だから客観的対象認識などは「でき・ない」はず。
 (純粋悟性概念が、判断済でなければ、できない。)
 (つまり優生学抜きには、決してできない、っつうこと)
 しかるに、優生学前に「客観的対象認識像がある」ということは、此処に何らかの「詐欺がある」としか思えないのだ。

 客観像に、その(ズレたものを意味するような)「変容はない」、はずだし。
 表象が「モトの像を再形成」したりもしないはず。
 科学命題は人の側のモノであって、モトモトある感性とは違う。

 (科学的認識を得る、つまり「科学的に知る」という事態は、どことなくおかしいい、っつううことを、オイラ此処で言ってるわけだ。)
 (単に、「客観的認識」といって、済ませるんだが、すまんだろうと。)
 (オルガノンの立場からみると、おかしいのである。)

 そこに合同化が、複数化しての合同化が「ある」、のは間違いないのだが。
 瞳着が「ある」んだから、ある。
 これは、ズラして別物になっていくだけでは、「ない」のか?
 ネガチブな何かじゃないのか?。

 (おいら、過去にはそう思っていたが、別の理由があるのかも。)
 瞳着というこの知性のコピー作用が、「知性の作用」だと、つまり「瞳着だ」とみなされ。
 能動的に、動詞的に、その過程が知性として「客観性を持つ」かのように理解される。 時空手順すらも疑問だらけ、なのに、そっちは無視される。
 (その無視の理由が知りたいのである。)

 造化が、新知識の担い手となる、新事態がおきる。
 それは、わかるかも。

 コピーしたもんであっても、それが像となって新しく(うふぉ)「認知」されれば新知識となり、表象を通じて、伝達する役割をも持つ。
 ただ、「享有者」が自分の瞳に写すんだから、瞳着・合同させるんだから「その客観」、というのはムリだろう、と思ってしまうのだ。

 享有者を「包摂」しなくてはいけなくなる。
 「全貌」を理解しなくてはいけない。
 享有はわからんもの、なのに。
 (神なら確かに可能だろうが、それはどこからの認識なのか。)
 (オイラ自身はわからんのに。)

 本来、知性のモトは「享有主観」なのであるはず、とも感じていたから、こんな事言ってるのだ。
 感じなきゃ、像化は起こらんので。
 感性が必ず最初にあるあず。

 なのに。
 瞳着も実体は主観的な「あり」行為なんだから、享有主観なのであるはず。
 なのに。

 「象化あり」となり、「創造あり」となり。
 知性が感性から区分される。
 創造された像が、客観像となっている。

 どこか、なんかおかしいというか、腑に落ちんのである。
 (思惟のすべてを説明できんで、此処で思惟が混乱してるので、ようわからんだろう。)
 (ややこしいし憶測ばかり騙ってるので、そうなるんだが。)

 知性も必ず、まず「主観から、おいらから始まる」んであって。
 「お客さんから」は始まらないはず。
 なのだから、なんだが。
 (西洋の一神教徒はもちろん違う意見で、すべてを神に帰する)。
 プロテスタントなんて、客観から物事を始める。 

 客観から一切が始まるんだ、となると。
 客として置いて(主観が)観る、ことになるはず、なので。
 客体の像が、「主導権を握ってしまう」のは数学論理的にもおかしい、変だ、とオイラ言っているのだ。
 主観は、どこへいった?つうことになるからだ。

 お客さんは「お客さん」であって、神様になんか、なるはず、ないんである。
 なのにわが国では、お客様は「正体不明をいいことに」、神様になって君臨する。
 (わが国では視点が複数あって神は複数なので、客観的でないのに、客にするから、なんだが。)

 西洋では、認識の知恵が神様となって、複数の人々の間にモトモト君臨している。
 (視点がモトモト単数。)
 (神はこれも単数なので、客観的にはなりえんはずなのに、なる。)
 (客観的に世間をカルト化して、詐欺る。)
 科学的客観化は、一神教と論理的に矛盾する。

 客観的認識の、客体の立場の、地をいくモト部分が、ぜんぜんおかしいのだ。
 つまり西洋のそれでは、現実認識がぜんぶ、メタメタになる。
 倫理観なし、カテゴリー無視となる。

 (だから倫理のかわりに、エチカ使ってエチケット導入。)
 (カテゴリーの代わりに範囲カタログを鋳造し、範疇化した。)

 メタメタの理由のそれは、「表象」といった「誤り理解の事態」とは関係なくて。
 単に<客観がネガチブ認識できない、その理由から>。
 きてるんではないのか。
 ということが、ここで言いたいことの一つである。

 オルガノン的な理屈が、ここにも、つまり客観的認識の詐欺的事態にも、働いてるのであるまいか。
 「こころ騙し形成の」図式利用が、図式「悪用」が、ここになされている。
 そういえるんでは?。
 (と、オルガノン的には想定しえるかもしれんと考えたのだ。)


 「数学法定式」だとか、「メタバース」だとか、悪用は現実にあるのである。
 数学無視の「ヘーゲル論理学」や「記号論理学」悪用の事を思い出してみよう。

 これらは<定義された人工の時空の上でのみ>、図式利用で可能となって、理論化されるはずのもの。
 客観的知性(がある)主張の、その根拠、となっているものだ。

 主張は首長。
 おれや、おれや、という、「優勢主張」の、あれ。
 つまり、優生学が此処にあって先取り特権を主張している。

 客観ブツであることになった自然(感性的認識の事)が、モノとなったり主人となったりするのは、これは西洋の事例だが。
 お客様の地位は、「客体」使ってはじめて「同義反復的な享有利用」が「ある」ことになる。

 ある、とは、「可能」になっている、というわけだが。
 単に可能じゃなく、先取り特権を主張している。
 しかもそれが(本来の)知性の働きというものかもしれん、のである。
 そういう(見えてないネガチブな)オルガノン規則が、つまり図式が「ある」のかも。

 但し数学上なら、「時空定義するので全く問題ない」のだが。
 それを「現実に応用する」のは大問題というか、これがダメなのだ。
 ぜったいに堕目、ダメ。
 現実にはやっちょるけど。

 おいら、「知的な認識に伴う、・・・である図式の真相」についてのオクケンを騙ってる。
 (騙りの、そのつもりであって、知性を貶めるつもりなんぞは、もちろんないので、間違わんようにしていただきたい。)

 知性が(ある)というのは「享有主体」のモノのはず、なのに。
 共有「(「ない」が此処にあるが、見えてない)客観を支える根拠理由の憶測」になってしまってる。
 その問題を採り上げてるのだ。


 客観認識のさい。
 その認識の元となる主観では、象や像が、直の「あり」の主題ではすでに「なくなっている」。

 主観が関わる直の「あり」は、お客様、という命題なのである。
 無意味なものである。
 主観の主観では「ない」し、むしろその場に「ない」ものである。

 主観が、ありとした(みえてない)客観にたゆたう、「表象」されたもの。
 だから、瞳着的「知性が成り立つ」ともいえるんやが。
 そういう仕組みが客観的に「ある」ので、客観が成り立つ。
 というのはまちがいなのだ、と言いたいわけだ。

 知性偏重。
 瞳着偏重が起きている?。
 いや、詐欺があるんだ、と言いたい。

 象や像がはっきりせんプラズマ様のもの、量子様のもの、だから?。
 ここは、前節で思惟を誤ってるのかもしれん。
 読み取れん部分が、ある。

 享有体が「主題」であって、「客体」が主題ではない。
 享有体はUFOのように、何もかもはっきりせん、のは確かだが。
 それが現実なので、はっきりせん。

 数学的に言うなら、次元ものとなる、ヒジョーに曖昧な物なんで。
 じぶんの足場の時空をさしおいて、現実を数学のように軽薄には騙れんのはまちがいないのだが。
 だからといって、それで能を先に出して、そこで現実に面被らせて。
 「主題」を、主体から客体にすり替える。
 これでいいはずない。

 我が国でも、「能」とか「幽玄」とか言って、じつは西洋の「表象」と同じようなことやっているんでは?。
 そのような気がしてきた。

 はっきりとは、わからん部分なのだ。
 デジタル化論議は導入できまへん、そっちは一切なじみまへん。

 ファンタシアは、イコンより「能動図式」、「能図式」といった、動きのある図象的意味相が確かに近い。
 それはまちがいないのだが。
 肝心の「能」部分にこだわると、それが、間違い起こす「もと」となるのだ。
 ファンタシアの言いたいことは、「主題」であって。
 つまり命題であって。

 「目的利用」じゃない、命題。
 無意味な物。

 動詞的関与ではなくて、名詞が、つまり命題「だけ」が問題。
 (命題に拘ると、すべてが間違う、その理由説明のつもり。)

 無知の知を認識する、それも「無知な本人の様」なのだ。
 つまり無のネガチブさに隠れて(つまり共有にして)、有を騙る。
 享有する図式の働きが、「あり」(なし)得るのだ。

 (この、(なし)が見えてえへんことで、詐欺が起こっている、と言いたいのだ。)
 (享有、共有は、オルガノン的には不可分の、同じものである。)

 しかし「ある」、「ない」を知的に問題にする以上、この区分は欠かせないし。
 ある、ないも、同じものかもしれんのだが、主観、客観を騙るにも、欠かせない。
 知るためには絶対に欠かせない。

 しかし論議がどこかで、ちゃんとした理論に成り立たんなるのだ。
 (それを図式の働きのせいにしてきたが・・・。)
 (詐欺がある?悪意がある?)
 泥沼深くなってきた・・・ずぶずぶいきそう。







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最終更新日  2024年11月12日 10時23分36秒
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