「図式」つまり誘因部分がみえて、本体がみえないまま、(うふぉの)象ものや「表象」となってしまって。
それが知性を導いて。
(西洋は)これで道を誤ったんだと思う。
その様が、ファンタシア解釈の辿った「誤った過去の道」哲学史として、オイラたちに見えてるのだ。
科分離のような「知的な理解」への思惟が、もちろんそこには絡んでたし。
(これは、目的が先にあって、それに併せて殺して分けて瞳着コピーした、っつうこと)。
哲学の「抹殺」と「改変」に、知的な理解者が優生学でもって積極従事利用した。
そのことも大きい。
さらにその「利用」にも多々あって。
科学での「細分化」は果てしないし、「時空定義の厳密化」も今や果てしない。
ここが底、はないのだから。
該知の部分が機械技術、マシーナリー・テクニークとなり、その未知の部分がアジェンダにすらなるのだ。
アジェンダがある、つうことは。
予定企画が「ある」、っつうことだが。
それにネガチブな「共有」視点が「投企」されたものがアジェンダ。
ネガチブは彼ら拒否するので、一切見えてない。
目的企画された「陰謀がそこにある」、のはまちがいないのだが、底もない
この陰謀は、モトがムリな「あり」、「なし」の区分に由来するのでは?
っつうこと。
オルガノン的認識においては、そうなる。
(但しオルガノンは「ある」、わけじゃないので要注意。)
「ある」のはオイラという「享有者」においてのみの出来事。
「能図式」として客観論議を扱うと。
主題にあるはずの「享有の感性」が、「消える」。
親しく論議してるはずの主題が、気が付かん間に全くのベツモノになってしまう。
それゆえ、オルガノンにおいては、<能図式は客観化できない>、のだ。
ファンタシアは、実体のあるオルガノン構想である。
その「中身の実体」のこと。
悟性的に、共有的に働く「お客さん」、じゃない。
実体をネガチブにして、享有させて、働かせ、感性を利用して。
しかしウソの創造させるんじゃなしに。
カテゴリーへと導いて、牢獄に閉じ込める。
そういった図式(構想力)としか言いようのない、「働きのもの」なのだ。
しかしそないなもんは、「客観的には、ない」のである。
主観的に在っても、客観には「ない」。
どこに「ある」のかはっきりさせようとなると。
あるのは「主観的にのみ」あるのである。
思惟が無限ループする同義反復領域となる。
(能図式・想像?=ファンタシア)の反芻
想像共有(共同幻想)であっても、じつは「必ずなにがしかの享有があるはず」。
(コレはムリな命題かも?だったんだが)
能図式=?ファンタシア。
これはその点、それを期待して想像された<感性枠そのもの>という(むりな)オルガノン用語なのである。
なので、感性は、ここにも必ずみつかるはず、としたが。
但し「図式そのもの」は形式なので、一切見えてこない。
しかも<モノ自体は感性的には、ありえない>はずなので、「無」になるんだが。
つまり、(あるかどうかも、確かめようがない)のだが。
この紙一重、つまり<神単>が、「二重の意味を併せ持たせている」ようだ。
つまり重要な意味を持たされている、のだ。
「純粋悟性概念」であり、同時に、「感性の図式」というこれは、重要。
カント先生の、知性と感性の融合論議。
(科学的に思惟し、それを逆に哲学的に辿った、ような。)
1:感性でもって人の心を構えさせ、出来、させる。
「客観的にはネガチブな図式つまり”無”」である部分と。
****11
2:感性として構えた人の心を反省し「もともと無知である」ことを認識させる。
「主観的にポシティブな図式”有”」の部分、にムリに分けられる。
****12
オルガノンにつきものの二つの原則を、この「紙一重が仕立てている」と、みなせうる。
つまり神を単一にすることが、「みなし論議を立てうる」、原因なのだ。
科分離してるので、それが「知ることを可能にする」、ということ。
そして神を単一にしないと立たない、多神教上では絶対立たない。
おいらたちが・・・である、という時、そこに「想像」と「悟性認識」の一致が起こっているのだが。
この二つの原則がそろって、はじめて人は一人前なので。
片方だけ、感性のみ、知性のみの、うすっぺらいものでは、ダメなのである。
左脳だけでは計算高くてもダメ、右脳だけでは感情溢れてダメなのと同じ理屈。
双方そろった「無」が必要。
****13
なので西洋は「神の単一」を選んだんだろう。
それが哲学への道を誤らせた。
これなしには、つまり「無知なしには、認識は成り立たない」のであるが。
しかし単一を選んだことで、哲学も成り立たないことになった。
無知の知の認識は消えてしまった。
ましてや<客観単独で原理論にもなったりは、絶対に、しない>のだが。
そういったウソの論議をも、「可能」にしてしまった。
ファンタシアの絡むオルガノン想像においては、しかも享有者においては。
必ず、「倫理」が絡むのだ。
倫理が絡んで、スジを通す。
オイラたちは現実に生きているんだからだ。
カテゴリーの制約に、享有者がモトモト「絡めとられてる」、つうこと。
(享有の「あり」ということが、倫理として働いて、カテゴリーを有効化させている、と言える。)
****14
ネガチブな(ネガチブが見えてない)共有においては、だから倫理は理論上無視できる。
そうであるかのように、一見、見える。
しかし必ず、「倫理はオルガノンの枠からは出られない」、はずなのだ。
倫理観なき単なる想像などは、現実には、「ない」、と言えるからだ。
(自分の枠しか見ないのだから、何も(見えて)ないことになる。)
想像も、倫理を伴う。
悪魔的想像は「悪魔」なので、「倫理無視」なのであるが。
そうなると、<悪魔も神の権能の一部であるはず>となってしまう。
悪魔を創り出してるのは、宗教の(ダメな)思惑なのだ。
まっとうなどんな場合にも、しかし図式が必ず働いているので。
日常の共有行為も含め、人の側では、すべて<図式の導きに従っての現実>となる。
(共有の)無に導かれて、享有の有に導かれ。
オイラたちは、そこの(享有の)カテゴリーに囚われて、初めて「ある」、と言えるんだが。
実際には<共有の無に導かれて>「ネガチブ」な道をも進んでしまう。
倫理制約下の有限な(幽玄な)ものの「無」が、すべてを支配しているとも言える。
****15
そういうわけだ。
すべて、現実がモトで、感性が導いて、認識が経験的に起こる、んであって。
(純粋な)認識がモトでげんじつになる、んじゃない。
そのはずなのである。
なのに客観論議ばかり、享有撲滅では。
モトモトの(ありえない)認識が現実となる、ように見える。
それはやはり「表象」という<誤訳が原因>なのだ。
構想力の自由な戯れ、なんてのは、そのずっと手前の「空想」なのである。
<現実は、「ファンタシアとして生きている時空」と言える>。
****16
たとえ共有上であっても、その些細な想像にも、「生身の人間」が必ず要るのだ。
全知全能の造物主神や、AI自動機械などでは、だから創造などできっこないといえる。
****17
AI自動機械は、真似し、しかできん。
切り貼りしか、できんはず。
自由な戯れで創造はできない。
どこまで行っても、いくら細分化して厳密化しても、所詮切り貼りである。
対象一般の共有空想では、だから、「ある」ことが希薄になる。
人工のホログラムにしか、なんない、と言えるのかも。
まともな想像(創造)には、ならんのだ。
想像にしろ現実にしろ、具体的な、「あり」、の実体が必要。
つまり「時空」での「経験」がなきゃ 話にならん。
(敬虔の伴わない時空は、まさにニセモノの特徴である。)
****18
動詞から可能体で現実を考えると、客観的「空想」が可能になるが
これは享有をもとにしたウソ事である。
唯一の神を考えることも、ウソ事に属する、ことになる。
但し純粋な享有(あり)だと空想される唯一神は、自分に対してウソつけないのでは?
そういった疑問が生まれるだろう。
日本人が、自分にウソつける、ってのは、事実がいっぱい証明しているのだ。
だから西洋人は、日本人のことを「ウソツキ」と呼ぶ。
(西洋人が他人を騙すのは、ウソつきとは言わないんだそうだ。)
(その極端な典型が、ユダヤ人のウソである。)
日本人が自分にウソつけるこれは、「享有」が唯一の神ではなく、自分というものの複数対象のことなので、可能なのである。
自分自身は必ず複数の人格を持ち、一人ではない。
これは「事実」である。
人格は、形式だけで中身のない魂なんかじゃない。
一人だと、また一人でないと、理論的に首尾一貫しないので、それが正しいと思い込んでいるだけだ。
したがって、<人の思考は唯一神由来ではない>と、わかるはずなんやが。
もちろん「多様な戯れ」でもない、のだ。
(能図式・空想?=ファンタシア)
「想像」には必ず、像となった「過去の時空」がモトに「ある」。
ある、は過去に、経験としてある享有の“有”。
オルガノン図式が働くからそうなる。
それに対し「空想」は。
モトの時空を持たない、過去の経験を持たない。
しかし知的な「絵空事」。
西洋は、すっかりこちら偏重になってしまっているのだ。
想像(創造)は、じぶんだけでは空想できないという「事実」の支配下なので。
絵空事でない時空を(たとえそれがネガチブであっても)過去に置いて持たざるを得ない。
その必要がある。
(共有のオルガノン図式は、だからファンタシアのネガチブな{仮想の}能図式なのだ。)
客観立てた仮想世界。
西洋は、ネガチブな能図式に嵌ってしまっている。
能図式・表象では、ファンタシアの表(おもて)だけを像化して科分離するので。
この時空が、人工の「選ばれし者」になる。
誰が選んでるのかっうと、神じゃない。
人工なんで、人が表象して選ぶんだよ。
これが、「優生学」、っつうことの介入の真相なんだ。
知らぬ間に、別物にすり替わってしまうことの真相。
真相だから、隠ぺいしてカチカチにして、キリスト教の教義(カルト)にもなってしまっているわけだ。
表の象は、像化が終わった後の、部分表現だから、優生学「判断済」に、ならざるを得ないのだが。
しかし図式なので、必ず、「モトの時空がある」。
だから。
可能的に在る判断済の選んだ享有モノを持ち込んで、摩り替える。
胡麻化すわけだ。
共有世界のはずの時間旅行を、こっそり個人だけでやってる、みたいなもん。
図式が見えていないので、そのネガチブ部分を排除すれば。
全くの人工物にすり替わって、真実に見えちまうことになる。
空想も、ほんとうはそれ固有の時空を持つのだろうが。
常に「ネガチブ」は「拒否」するということなので。
共有世界では、この「すり替わり」が起きてても何も見えない。
(すりかわり、すらも見えてない。)
客観というのはホントは、「みえない共有態」ということ。
「ある」は享有のみの出来事なので、客観にすると「ある」が消える。
なのに、そこに享有をムリヤリ持ち込み、見えるようにするのだ。
ネガチブで、拒否の、共有図式が働いて。
全貌が見えんままに、すり替え行為をも一緒くたにして、判断済優生学持ち込んで、ヤラセてしまう。
可能性の、能という世界が、宙ぶらりんにできる。
しかも見えん(図式)もので操ってる。
さらにこれをもとにした共有論議となると・・・。
ホンマ、メタメタどころの騒ぎじゃなくなるわけだ
現実にある、「享有」と「共有」の綾織る見えてない全貌をオルガノンという。
それを科分離して帰納させたものが「知る」、ということで。
哲学して演繹したものが、これもまた同義反復のオルガノンだ。
真相の極些細な一部がが見えて来たように思うんだが?
アホなオイラは、ここですでに頭痛い。
同義反復は無限ループなので、機械だと暴走しちまう。
無数の命題が出てきたが、記憶にも満足に残らないのでちょっとだけ反芻してみた。
やはりオルガノンの領域は手に余るようだ。
哲学史はまだ終わっていないが、未完のまま一旦閉めて。
次は哲学概論に取り掛かろうと思う。