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2024年11月18日
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カテゴリ:哲学研究室

 「図式」つまり誘因部分がみえて、本体がみえないまま、(うふぉの)象ものや「表象」となってしまって。
 それが知性を導いて。
 (西洋は)これで道を誤ったんだと思う。
 その様が、ファンタシア解釈の辿った「誤った過去の道」哲学史として、オイラたちに見えてるのだ。

 科分離のような「知的な理解」への思惟が、もちろんそこには絡んでたし。
 (これは、目的が先にあって、それに併せて殺して分けて瞳着コピーした、っつうこと)。
 哲学の「抹殺」と「改変」に、知的な理解者が優生学でもって積極従事利用した。
 そのことも大きい。

 さらにその「利用」にも多々あって。
 科学での「細分化」は果てしないし、「時空定義の厳密化」も今や果てしない。
 ここが底、はないのだから。
 該知の部分が機械技術、マシーナリー・テクニークとなり、その未知の部分がアジェンダにすらなるのだ。

 アジェンダがある、つうことは。
 予定企画が「ある」、っつうことだが。

 それにネガチブな「共有」視点が「投企」されたものがアジェンダ。
 ネガチブは彼ら拒否するので、一切見えてない。
 目的企画された「陰謀がそこにある」、のはまちがいないのだが、底もない
 この陰謀は、モトがムリな「あり」、「なし」の区分に由来するのでは?
 っつうこと。

 オルガノン的認識においては、そうなる。
 (但しオルガノンは「ある」、わけじゃないので要注意。)
 「ある」のはオイラという「享有者」においてのみの出来事。

 「能図式」として客観論議を扱うと。
 主題にあるはずの「享有の感性」が、「消える」。
 親しく論議してるはずの主題が、気が付かん間に全くのベツモノになってしまう。
 それゆえ、オルガノンにおいては、<能図式は客観化できない>、のだ。

 ファンタシアは、実体のあるオルガノン構想である。
 その「中身の実体」のこと。
 悟性的に、共有的に働く「お客さん」、じゃない。

 実体をネガチブにして、享有させて、働かせ、感性を利用して。
 しかしウソの創造させるんじゃなしに。
 カテゴリーへと導いて、牢獄に閉じ込める。
 そういった図式(構想力)としか言いようのない、「働きのもの」なのだ。
 しかしそないなもんは、「客観的には、ない」のである。
 主観的に在っても、客観には「ない」。

 どこに「ある」のかはっきりさせようとなると。
 あるのは「主観的にのみ」あるのである。
 思惟が無限ループする同義反復領域となる。


 (能図式・想像?=ファンタシア)の反芻


 想像共有(共同幻想)であっても、じつは「必ずなにがしかの享有があるはず」。
 (コレはムリな命題かも?だったんだが)

 能図式=?ファンタシア。
 これはその点、それを期待して想像された<感性枠そのもの>という(むりな)オルガノン用語なのである。
 なので、感性は、ここにも必ずみつかるはず、としたが。

 但し「図式そのもの」は形式なので、一切見えてこない。
 しかも<モノ自体は感性的には、ありえない>はずなので、「無」になるんだが。
 つまり、(あるかどうかも、確かめようがない)のだが。

 この紙一重、つまり<神単>が、「二重の意味を併せ持たせている」ようだ。
 つまり重要な意味を持たされている、のだ。
 「純粋悟性概念」であり、同時に、「感性の図式」というこれは、重要。
 カント先生の、知性と感性の融合論議。
 (科学的に思惟し、それを逆に哲学的に辿った、ような。)

 1:感性でもって人の心を構えさせ、出来、させる。
 「客観的にはネガチブな図式つまり”無”」である部分と。
****11

 2:感性として構えた人の心を反省し「もともと無知である」ことを認識させる。
 「主観的にポシティブな図式”有”」の部分、にムリに分けられる。
****12
 
 オルガノンにつきものの二つの原則を、この「紙一重が仕立てている」と、みなせうる。
 つまり神を単一にすることが、「みなし論議を立てうる」、原因なのだ。
 科分離してるので、それが「知ることを可能にする」、ということ。
 そして神を単一にしないと立たない、多神教上では絶対立たない。


 おいらたちが・・・である、という時、そこに「想像」と「悟性認識」の一致が起こっているのだが。
 この二つの原則がそろって、はじめて人は一人前なので。
 片方だけ、感性のみ、知性のみの、うすっぺらいものでは、ダメなのである。
 左脳だけでは計算高くてもダメ、右脳だけでは感情溢れてダメなのと同じ理屈。

 双方そろった「無」が必要。
****13
 なので西洋は「神の単一」を選んだんだろう。
 それが哲学への道を誤らせた。

 これなしには、つまり「無知なしには、認識は成り立たない」のであるが。
 しかし単一を選んだことで、哲学も成り立たないことになった。
 無知の知の認識は消えてしまった。
 ましてや<客観単独で原理論にもなったりは、絶対に、しない>のだが。
 そういったウソの論議をも、「可能」にしてしまった。

 ファンタシアの絡むオルガノン想像においては、しかも享有者においては。
 必ず、「倫理」が絡むのだ。
 倫理が絡んで、スジを通す。
 オイラたちは現実に生きているんだからだ。

 カテゴリーの制約に、享有者がモトモト「絡めとられてる」、つうこと。
 (享有の「あり」ということが、倫理として働いて、カテゴリーを有効化させている、と言える。)
****14

 ネガチブな(ネガチブが見えてない)共有においては、だから倫理は理論上無視できる。
 そうであるかのように、一見、見える。
 しかし必ず、「倫理はオルガノンの枠からは出られない」、はずなのだ。
 倫理観なき単なる想像などは、現実には、「ない」、と言えるからだ。
 (自分の枠しか見ないのだから、何も(見えて)ないことになる。)

 想像も、倫理を伴う。
 悪魔的想像は「悪魔」なので、「倫理無視」なのであるが。
 そうなると、<悪魔も神の権能の一部であるはず>となってしまう。
 悪魔を創り出してるのは、宗教の(ダメな)思惑なのだ。

 まっとうなどんな場合にも、しかし図式が必ず働いているので。
 日常の共有行為も含め、人の側では、すべて<図式の導きに従っての現実>となる。
 (共有の)無に導かれて、享有の有に導かれ。
 オイラたちは、そこの(享有の)カテゴリーに囚われて、初めて「ある」、と言えるんだが。
 実際には<共有の無に導かれて>「ネガチブ」な道をも進んでしまう。

 倫理制約下の有限な(幽玄な)ものの「無」が、すべてを支配しているとも言える。
****15

 そういうわけだ。

 すべて、現実がモトで、感性が導いて、認識が経験的に起こる、んであって。
 (純粋な)認識がモトでげんじつになる、んじゃない。
 そのはずなのである。

 なのに客観論議ばかり、享有撲滅では。
 モトモトの(ありえない)認識が現実となる、ように見える。
 それはやはり「表象」という<誤訳が原因>なのだ。
 構想力の自由な戯れ、なんてのは、そのずっと手前の「空想」なのである。

 <現実は、「ファンタシアとして生きている時空」と言える>。
****16

 たとえ共有上であっても、その些細な想像にも、「生身の人間」が必ず要るのだ。
 全知全能の造物主神や、AI自動機械などでは、だから創造などできっこないといえる。
****17

 AI自動機械は、真似し、しかできん。
 切り貼りしか、できんはず。
 自由な戯れで創造はできない。
 どこまで行っても、いくら細分化して厳密化しても、所詮切り貼りである。

 対象一般の共有空想では、だから、「ある」ことが希薄になる。
 人工のホログラムにしか、なんない、と言えるのかも。
 まともな想像(創造)には、ならんのだ。

 想像にしろ現実にしろ、具体的な、「あり」、の実体が必要。
 つまり「時空」での「経験」がなきゃ 話にならん。
 (敬虔の伴わない時空は、まさにニセモノの特徴である。)
****18

 動詞から可能体で現実を考えると、客観的「空想」が可能になるが
 これは享有をもとにしたウソ事である。
 唯一の神を考えることも、ウソ事に属する、ことになる。

 但し純粋な享有(あり)だと空想される唯一神は、自分に対してウソつけないのでは?
 そういった疑問が生まれるだろう。
 日本人が、自分にウソつける、ってのは、事実がいっぱい証明しているのだ。
 だから西洋人は、日本人のことを「ウソツキ」と呼ぶ。
 (西洋人が他人を騙すのは、ウソつきとは言わないんだそうだ。)
 (その極端な典型が、ユダヤ人のウソである。)

 日本人が自分にウソつけるこれは、「享有」が唯一の神ではなく、自分というものの複数対象のことなので、可能なのである。
 自分自身は必ず複数の人格を持ち、一人ではない。
 これは「事実」である。
 人格は、形式だけで中身のない魂なんかじゃない。

 一人だと、また一人でないと、理論的に首尾一貫しないので、それが正しいと思い込んでいるだけだ。
 したがって、<人の思考は唯一神由来ではない>と、わかるはずなんやが。
 もちろん「多様な戯れ」でもない、のだ。


 (能図式・空想?=ファンタシア)

 「想像」には必ず、像となった「過去の時空」がモトに「ある」。
 ある、は過去に、経験としてある享有の“有”。
 オルガノン図式が働くからそうなる。

 それに対し「空想」は。
 モトの時空を持たない、過去の経験を持たない。
 しかし知的な「絵空事」。
 西洋は、すっかりこちら偏重になってしまっているのだ。

 想像(創造)は、じぶんだけでは空想できないという「事実」の支配下なので。
 絵空事でない時空を(たとえそれがネガチブであっても)過去に置いて持たざるを得ない。
 その必要がある。
 (共有のオルガノン図式は、だからファンタシアのネガチブな{仮想の}能図式なのだ。)
 客観立てた仮想世界。
 西洋は、ネガチブな能図式に嵌ってしまっている。

 能図式・表象では、ファンタシアの表(おもて)だけを像化して科分離するので。
 この時空が、人工の「選ばれし者」になる。
 誰が選んでるのかっうと、神じゃない。
 人工なんで、人が表象して選ぶんだよ。

 これが、「優生学」、っつうことの介入の真相なんだ。
 知らぬ間に、別物にすり替わってしまうことの真相。
 真相だから、隠ぺいしてカチカチにして、キリスト教の教義(カルト)にもなってしまっているわけだ。

 表の象は、像化が終わった後の、部分表現だから、優生学「判断済」に、ならざるを得ないのだが。
 しかし図式なので、必ず、「モトの時空がある」。
 だから。
 可能的に在る判断済の選んだ享有モノを持ち込んで、摩り替える。
 胡麻化すわけだ。

 共有世界のはずの時間旅行を、こっそり個人だけでやってる、みたいなもん。
 図式が見えていないので、そのネガチブ部分を排除すれば。
 全くの人工物にすり替わって、真実に見えちまうことになる。

 空想も、ほんとうはそれ固有の時空を持つのだろうが。
 常に「ネガチブ」は「拒否」するということなので。
 共有世界では、この「すり替わり」が起きてても何も見えない。
 (すりかわり、すらも見えてない。)

 客観というのはホントは、「みえない共有態」ということ。
 「ある」は享有のみの出来事なので、客観にすると「ある」が消える。
 なのに、そこに享有をムリヤリ持ち込み、見えるようにするのだ。

 ネガチブで、拒否の、共有図式が働いて。
 全貌が見えんままに、すり替え行為をも一緒くたにして、判断済優生学持ち込んで、ヤラセてしまう。

 可能性の、能という世界が、宙ぶらりんにできる。
 しかも見えん(図式)もので操ってる。
 さらにこれをもとにした共有論議となると・・・。
 ホンマ、メタメタどころの騒ぎじゃなくなるわけだ

 現実にある、「享有」と「共有」の綾織る見えてない全貌をオルガノンという。
 それを科分離して帰納させたものが「知る」、ということで。
 哲学して演繹したものが、これもまた同義反復のオルガノンだ。

 真相の極些細な一部がが見えて来たように思うんだが?
 アホなオイラは、ここですでに頭痛い。
 同義反復は無限ループなので、機械だと暴走しちまう。

 無数の命題が出てきたが、記憶にも満足に残らないのでちょっとだけ反芻してみた。
 やはりオルガノンの領域は手に余るようだ。
 哲学史はまだ終わっていないが、未完のまま一旦閉めて。

 次は哲学概論に取り掛かろうと思う。
 







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最終更新日  2024年11月18日 10時54分07秒
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