【愛国心教育:Pledge to the Flag】
今回は、愛国心教育の問題について。愛国心教育の問題について、多くの人がある種の「胡散臭さ」を感じているのではないか、と思います。少なくともぼくは、非常に胡散臭いものを感じていて、自分の子供が出来たとして、自分の子供が「愛国心教育」を受けることに、諸手をあげて賛成するか?と言われると、「うーん、モゴモゴ・・・」と言葉を濁してしまうと思います。その胡散臭さをなぜ感じるのか?うまく説明できませんが、ぼく自身の小学校時代の体験が下敷きになっていると思います。ぼく自身は、5歳から10歳まで、アメリカに住んでいました。アメリカでは、月曜日から金曜日までは現地の学校に通い、土曜日に日本人補習校に通っていました。というわけで、小学校時代に、アメリカの現地校での、「愛国心教育」(らしきもの)について。アメリカの小学校では、毎日、朝礼があり、朝礼で「星条旗への誓い」を全員唱えるというのがありました。ちなみに、「星条旗への誓い」の文章は、以下。歌ではなく(メロディーはありません)、文章です。これを全員が起立して、星条旗を見ながら(人によっては胸に手をあてながら)ぶつぶつと唱えるわけです。-------------------------------Pledge to the Flag「星条旗への誓い」I pledge allegiance to the flag of the United States of America and to the Republic for which is stands, one ntion under God, indivisible, with liberty and justice for all.(アメリカ合衆国国旗とそれがあらわす共和国、神のもと1つの国家として、不可分であり、すべての人に自由と正義を与える国に忠誠を誓います。)-------------------------------考えてみれば、アメリカ国籍ではない人が、クラスの1/3程度いましたから、みんなでこれをぶつぶつ唱えることに何の問題もなかったのか?と問われると自信が無いのですが、おぼろげな記憶ではみんな結構素直にやっていたと思います。ぼく自身も、これに対して「やらされ感」「何らかの思想を押し付けられている感」というのは全く無く、割りに素直に、特に疑問も持たずにやっていました。それはなぜか?まぁもちろん、子供だったのでそんなに深刻に考えなかったというのもあったんだと思いますが、この「儀式」(あるいは、アメリカ国旗・アメリカという国に忠誠を誓うこと)が、非常に緩いものであった、ということが一番大きいと思います。星条旗に誓うときの基本的なスタンスは、人種もいろいろ、宗教もいろいろ、個人個人の信念もいろいろ、みんな自由である。というんがアメリカの良いところである。ただ、そんないろいろな人を束ねる上での最低限のルールとして、「いろいろな人がいて成り立ている国」なりの共通認識は持ちましょうね。それが星条旗への誓いであり、この国に対する忠誠ですよ。というものでした。つまり、「基本、個人個人はバラバラですが」「基本、自由ですが」という前提が付いた上で、「自由を認める上で最低限の共通事項」としての、星条旗への誓いがあったことが理由だと思います。(子供心にそういう意識があった、というのは、おそらく学校でそういうことを教わったんでしょうね。この辺は記憶が曖昧です)つまり、道徳・倫理・信念の大部分については、個人(及びその家族)の自由にゆだねられており、学校教育は基本的にその部分に関知しないというスタンスがあったように思います。もちろん、星条旗にちゃんと忠誠を誓ったかどうかが、成績につけられる、なんてことは全くなかった。では、同じことが日の丸でできるのか?難しいな、と思ってしまいます。まず一つには、「星条旗への誓い」が、『基本自由だが、最低限これだけは守って』というスタンスであるのに対し、「日の丸」が求める日本人がかなり「全人格的」ものを要求するような雰囲気を感じてしまう点です。「ここまでは自由・ここからは共通の了解事項です」という線引きが非常に難しいと思います。これは、アメリカと違って日本は単一民族であることから、避けられないことではないかと思います。また、「日本人であること」を理由に国家が国民を間違えた方向に導いた過去がある、というトラウマがあります。国家に忠誠心を持たない人を「非国民」と称して多くの日本人が不幸に陥れられた、という歴史を実体験として知っている人は少ないですが、それでも何となく「愛国心」という言葉に胡散臭さを感じるくらいの「刷り込み」は受けているように思います。で、最後の理由は、「日本人であること」のコンセプトって何?ということが、共有されていないことだと思います。数十年前までは、「資源も無くて、国土の狭い日本が成功するには、とにかく身を粉にしてせっせと働くしかない」という共通了解事項があったように思います(実際にその時期に社会に出ていたわけではないので、本当のところはわかりませんが)。なのでそういう、「せっせと働く人」を量産する教育も社会の要請にマッチしていたし、「せっせと働く人」を量産する教育システムに乗っていけばある程度の成功が保証される、という暗黙の了解事項があったんだと思います。ところが、今はせっせと働いても「勝ち組と負け組み」がいるし、いつの間にか「実力主義=自分の身は自分で守れ」という価値観が強くなっているし、「日本人として、どんな価値観を選択すべきか」(=「何をすれば、国として・個人として成功するか」「国として何を世界に発信するか」)が、非常にファジーなわけです。格差社会の中で、自分がどう生き延びるのか?と言うことの方が切実で身近な課題である、と言う人が多いのではないか?なので、「愛国心」と言う言葉がもたらすメリットが不明であるのに、トラウマだけがある。そして「わかった。愛国心を持ちます」と言った瞬間、何を了解したことになるのかがわからない。ということが、何となく感じる胡散臭さの正体ではないか。そんなことを感じました。続きはまた。