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カテゴリ:小学生の頃
3年生の時だけ、通った学校は、戦災で半分焼失していたから
授業は2分授業と言って、午前の部と午後から登校する子供達に別れて 授業を受けたものだ。だから、宿題が半端じゃなかった。 4年生から6年生まで通った小学校では、かろうじて戦災の焔から 免れた校舎だったから、普通に授業が行われていた。 それでも、先生が皆、戦死したり、復員していなかったりして 代用教員ばかりで学校は授業が進んだ。 私の先生は70代のお爺ちゃんだった。 校庭の端っこに大正時代風の音楽室が建っていた。 壁には、 バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツアルト、ベートーベン、 シューベルトの絵が貼ってある。 そこのグランドピアノをがんがんたたきつけるように弾くお爺ちゃん。 迷子の子ヒバリの歌を歌った時、 「あれ?こんな元気な音楽だったかな~~~? 母の歌と、お話は、悲しい悲しい物語だったのに~?おかしいな~~」 音楽が全く異質のものになった。 隣の教室の女の先生は、まるで、外人のような美しい先生で ふわっと体を回すと、ピンク色や水色のペチコートがちらりと見えて、 戦後の何もないあのころ、うっとりするような下着が、女生徒の 大きな関心事だった。 ある日、私のクラスの先生が休まれたので、悪い子グループが、あこがれの 隣の女先生の教室の窓に群がって、きゃぴきゃぴしていた。 すると、代わりに来た体操の若い教師が激怒した。 「おまえら======!!!!連帯責任だ====!!! 全員並べ======!!!と叫んで、端っこからビンタを張った。 びしびしびしびしびしびしびしびしびしびしびしびしびしびしびし びしびしびしびびしびしびしびしびしびしびしびしびしびしびしび びしびしびしびしびしびしびしびしびしびしびしびしびしびしびし 全員ほっぺたをしたたかにやられた。 後にも先にも私の人生でたった一回のビンタだった。 先生は、若くて、体中が筋肉質で、精悍な、生き生きした、 天然パーマを短くカットした、かっこいい男だった。 自分が受けた軍事教練でのビンタを、いつか子供たちにやってみたいと、 虎視眈々とねらっていたに違いない。いやな男だ。 人間には、時々、権力を持つと、 弱い者いじめをしたがる残虐性を秘めている人がいる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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