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カテゴリ:父
両親が亡くなって久しい。
父の日には、 元気がなくて かき込みできなかった。 今日は、 皆様の支えがあったので、元気を出して 書いてみたいと思います。 夫の両親も遠に亡くなり、私の父も逝ってしまうと、 実家の母は、ずっとひとりぼっちで暮らしていた。 晩年、私達夫婦は、母と一緒に暮らしたいと考え、 一度、一緒に暮らす練習をしに来てもらったことがあった。 夫は、母に優しくて、母が食事に来ると、 すぐに椅子を引いてあげて、 座るまで、椅子の加減をみたりして、 まるで、外人の男性のように母に対してくれたし、 なにくれと世話をしてくれた。 ある日、 母が私に、小さな声でこそこそ耳打ちした。 「お願いだから、椅子を引いたりしないでほしい」と。 母は、外人の男性の様な、やさしいいたわりを、 明治生まれの夫から受けたことが無かったから そんな優しさに慣れていないのだ。 落ち着かなかったらしい。 私の父は、 一旦、こうと思ったら、まっしぐらに進む男だった。 20代の頃、 朝鮮に渡って、一旗揚げようと決め、先ずは、結婚相手を探した。 お見合い13人目で、母と出会った。 とにかく、日本を出てみたいと思っていた母は、 「結婚して、朝鮮に渡る」という父の言葉が気に入った。 1932年、 二人は、朝から、近所に挨拶まわりをした。 夕方になって、母は、お腹が空ききって、 「何か食べてから帰りましょう?」と、父に言った。 「え?!!君は、まだ食べるのか?!!」と、 父はひどく驚いたと言う。 父は、豪放磊落な男で、出される物は、どんどん食べ どんどん飲んで、お腹が満腹だった。しかし 戦前の日本では、花嫁は、 挨拶まわりで食べるなんて、はしたないことであったので、 何も口にすることはできなかった。 しかし、父は、母の状態に、全く気が付かなかったのだった。 両親が、中年になって、結婚式の仲人をする日だった。 揃って、出かけた時、 仕事の事をすませようと、父は上司の事務所にちょこっと寄った。 母は、部屋の外の椅子に座って待っているよう言われ じっと待った。しかし、あまりにも遅いので、 おそるおそるのぞいて見ると、父はいなかった。 「おや、大分前に、あちらのドアから出て行きましたよ」と上司。 父は、仕事の話が終ると、母を待たせているのを忘れ、 別のドアから出て、一人で式場に向かったのだった。 母は、自立した女だった。 夫にぶらさがらず、一人で、ぐんぐん生きた。 賢い女だったから、結婚以来、父の性質を良く分かり、 前しか見ないような、真っ直ぐな夫のまわりで、 気配りの一生を送った。文句を言わず、上手に手綱をとった。 しかし、晩年の母は、私達夫婦とちょっと暮らしてみて、 「ああ、私は、反省したわ。あなた達のように、 もっともっと、お父さんに、やさしくしてあげたらよかった」 と、しみじみつぶやいた。 しかし、私は、知っている、 あの時代、戦前戦中戦後。 二人は、タッグマッチを組んで、激動の運命と戦っていたのだから。 「偉かったね!お父さん!お母さん!よくぞ乗り越えましたね! ありがとうございました。」 そう言ってあげた。 ところで、母は、あのように言ったけれど、実は 私は、あまりにも夫に優しくしないので、 子供達から、叱られるのです。 子供達との、電話では、いつも、 何かにつけて、最後に 「お父様に、やさしくね!」と、言って電話を切られるのです。 涙、猛反省! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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