今回は、コメンテーターのシンカさんのお話です。
シンカさんは信州のご出身で、10歳の時にお父様の仕事の関係で愛知県豊川市に移りました。
現在86歳です。
豊川は当時、東洋一と言われた海運工廠が有り、急に人口が増えて市になった処なんですよね!!
食料がなく、校庭・グラウンド・道路、全て畑と化しました。
その頃は肥料もなく、6年生は各家庭の下肥を貰いに歩き、天秤棒の真ん中に『肥桶』をぶら下げて、生徒2人で担いで畑まで運びました。
学校から「藁」を背負って帰り、「縄」をなって学校に持って行く。
家では枯れ枝や、焚き木になる様な物を山に拾いに行ったり、大きな地震が1ヶ月に2回も有ったり、B29は頭のを毎日のように飛ぶ・・・。
今では、想像も出来ない様な事をしておりました。
この海軍工廠は、B29の124機による空爆で壊滅しましたが、広島原爆の次の日(8月7日)でしたので、あまり報道されませんでした。
死重軽傷者1万人とも言われ、学徒(今の中学生以上)が大勢亡くなり、悲惨だったと言われています。
(中学生になると学徒動員されたんですね!)
※ 豊川海軍工廠(とよかわかいぐんこうしょう)とは
愛知県豊川市にあった日本海軍の工廠。
機銃、弾丸の製造を行った。
東海地区では勿論、当時は東洋随一の規模とされた。 (wiki)
昭和19年12月、5年生の授業中のことでした。
『ゴ~~ワァー!』と言う様な不気味な音がしました!!
生徒は一斉に立ち上がりました~!!
先生が
「こんな音ぐらいでびくついていては、戦争には勝てんぞ~」
と怒鳴った瞬間!
グラグラと揺れだし・・・皆、這って表に飛び出しました!
最後の生徒が出終わった途端、瓦がバラバラ落ちだし、80パーセント以上落ちてしまいました。
この頃は地震が多く、年が明けて昭和20年1月、真夜中に和ダンスや茶ダンスなどが倒れてしまい、中の物が皆、割れてしまった!!!
そんな大きな地震でした。
ちょうどこの頃から空襲が始まり、当市は名古屋方面を空爆するB29の通り道でしたので、学校に着いた途端に「警戒警報」。
1年生の手を引いて家に帰る途中で、B29が頭の上を通過して行く・・・。
そんな日々でしたね!
当時は子供でしたし、『死・重・軽傷者1万人』とか言われていた大惨事なのに、新聞には『損害軽傷』とか、戦時中のことであり、情報がハッキリしていない点は多いのですが・・・。
東南海地震に続いて1か月後に起きたのが、三河地震の様ですね。
とに角、毎日の様に揺れていた~~!
結構、何か月も揺れていて、怖かった!
そんな記憶が有りますね!