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カテゴリ:パソピア通信
「文久2年夏〔8月〕に佐久の草越集落に大流行したコレラで、草越の死者は何人か教えてください。」 文久2年〔1862〕に佐久の草越集落に大流行したコレラによる死者数については、寺院過去帳の記録から分析してみましょう。草越集落に大流行したコレラは、長崎から侵入し東進して全国的、広範囲に広がってしまった。 この流行地域では、死者数も多かったと考えられます。ただし、具体的な草越集落に大流行したコレラ死者数については、私の利用可能な情報源には直接的な記録は含まれていないために詳細な数値を提供することは出来ません。 若し更なる詳細を知りたい場合は、他の資料を調査することをお勧めします。 この時期のコレラ流行は、幕末の重大な出来事であり日本の歴史に大きな影響を与えました。 草越の古文書によれば村民の約3割63名のコレラ感染死亡者あり、大惨事でした。 我が家でも4人が亡くなり曾祖父が11歳の時に父親が、14歳の時に母親が亡くなり、20歳まで母親の実家で養育されていました。 追分本陣の裏門 「江戸時代の追分宿は ⁇?」 追分宿は、中山道六十九次のうち、江戸から数えて二十番目の宿場、現在は長野県北佐久郡軽井沢町追分に位置しており、古代から整備された交通の要衝で、浅間根腰の三宿(軽井沢、沓掛、追分)の一つとして江戸時代には繁盛していました。 江戸時代、追分宿は参勤交代により大きく発展し急速に繁栄した宿場です。中山道と北国街道との分岐に位置したこともあり、人馬の往来も激しく、貞享(1684年~1688年、徳川綱吉の時代で元禄の前)当時の記録によると、旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒、その他5軒もの大きな宿場に成長しました。後の元禄には、戸数152軒、人口892人、男354、女534,出家4、追分宿には、本陣1、副本陣2、問屋1が置かれ、宿場町として他にそれとは比べ物にならぬほど整備されていました。 追分通りは「追分宿」の信号から再び国道18号に合流します この事をよく表しているのが「追分節」です。宿の最盛期には200人から270人もの飯盛女たちの情けを歌い上げて、追分節は日本各地に歌い継がれ全国各地に広がりました。 2024年4月発行 担当:元:元気なスキーヤー 88歳 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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