テーマ:韓国!(17292)
カテゴリ:韓国よもやま話し
[休日再掲シリーズ 今日は、韓国よもやま話し ]
中国人や、韓国人との会話のなかで、 「一人、一人は、絶対にわれわれが優秀だ。強い人間だ。」という話題がある。 「三人ではダメだが、一人でなら世界征服できる。」と中国の俗語にもある。 日本人に対しては、「個人、個人では、日本人は弱い。集団になると強い。」と言う。 これは本当か。違うのではないか。元々個々人が強いから、強いのではないのか? 例えば、野球にしろ、サッカーにしろ、スポーツの世界を見ればはっきりしている。 弱い選手ばかりでは、健闘はしても勝てない。 勝つというのは、強いからだ。 初代若乃花だったと思うが「強いから勝つのではない。勝つものが強い。」と言っていた。 すなわち、日本の技術者、生産技術者、事務、企画、営業部員にいたるまで、ずこぶる強い。 市場で勝つ会社の社員は、皆、強いのだ。そこまでするのか、という極みで仕事している。 だから日本1になり、世界1になる。 最近、日本の世の中は、トップエリートではなくて、 「貧乏人で、働くのが嫌いな、さぼりの人間」がマジョリティになりつつある。 楽をして、豊かな生活をしたい人にとって、楽園のような国になりつつあった。 ハングリー精神は無く、エリートでもなく、社会奉仕もしない。 ぶら下がり人間だ。働かないから貧乏なのに、不平等に反対する。これを恥知らずと言う。 一見すると、お年寄りや、障害者に厳しいような政治判断があるが、私は仕方ないと思う。 しかしながら、男は黙ってサッポロビールだ。 黙して働く男達が大勢いる。会社を、社会を、家庭を支え続けているのだ。 心から、両手を合わせて拝みたい。あんたは偉い。話しが逸れた。 つらつら考えると、日本人は、自我と自己は、別物である。 自我を強く主張することは、自己主張ではない。日本人は無我を以って善しとするのだ。 本来、自己主張とは多くの人々に喜ばれるものでなくてはならない。 何かのものごとから、新しい地平を開いてくれる、革新への個人の意見の発露こそが、 正しい自己主張(意見の開陳)と言うのだ。 他人の嫌がる主張は、そのほとんどが自我の主張でしかないことを知るべし。 強い自己主張は、新製品や、会社、社会に対して発現するのである。 居酒屋の目の前にいる外国人に、自己主張しても仕方が無い。無意味であろう。 そして、そうした意味で、本当の自己主張の個人の能力、力量において、 日本人はとうてい弱いとは言えないし、中国人や、韓国人が優れているとは思えない。 ただ、一般的に小規模な会社のなか、親族のなか、居酒屋のなかでは、 ゴリ押しの強い自己主張(自我のみ)が相当の有効性を発揮するのは否定しない。 日本人は一般的にそういう態度(やくざや、ゴリ押しする人たち)には、 負けを決め込み、争わないのも事実である。 韓国の友人には、「負けるが勝ち」という日本語をお伝えしたい。 文字通りだけの意味に止まらず、深い言葉だから。 怖い妻であったり、上司のわがままには、見かけ上、「わかりました」と従っていても、 身勝手に強権を振りかざしている者に、負けを決め込んでいるだけなのだ。 強いと思い込み、その結果、「裸の王様」にはなり下がりたくない。だから、大きい、 慈しみの気持ちで懸命に奉仕したい。モッピョルル カジゴ ヘンドン ヘヤ ハンダ。 以上、韓国の人たちへではなくて、自分自身へ自戒を込めて。 記:とらのこども お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.12.01 20:30:37
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