※注 ド素人のくせに思いっきり上から目線で偉そうなことを書きますので、どうぞご了承ください。また、こちらは松本潤ファンとしてではない視点からの感想になります。松潤ファン視点の感想は別に書きます!(書く気満々)
まず、視聴後の感想は以下の3点。
・まだ1話であるということを踏まえて、可もなく不可もなし。
・大雅が嫌味なキャラクターではなかった。
・竹内結子と松本潤は演技のタイプが似ている。
掴みはOK,とは思えなかった初回でした。ありていにいえば、楠大雅が松本潤でなければ私としてはテイストが合わずにリタイアした可能性もあるドラマです。(それは松本潤ファンだからということではなく、たとえファンではない状態で見たとしても、松本潤の演じる楠大雅はリタイアを押しとどめたであろうという意味です。)
でも嫌いかと言えば嫌いじゃない。
視聴後感は爽やかだし心地よいものがあります。
なにせ、「スマイル」が大好きな人間ですよ。まああれも、ストーリー的にはおいおいと思う所は無きにしもあらずですが、しかし非常に愛着はある。
つまり、ワタクシの好むものは数字が取れない!ということを前提でお読みください。相当、一般とはずれていると思われます。
引きが弱かった要因は、これといって山場のない構成にあります。
ダラダラ話が流れていった。
けれどもまだ1話で連続ドラマとしてはキャラクター紹介の段階です。エピソードが直列つなぎに見えるのも仕方ない面もあり。今回は大雅と父親航太郎との関係性が最重要項目、そこに詩織を無理やり絡めてきた感じでしょうか。後述しますが、ダラダラの原因はこの詩織のキャラクターにもあるかと思います。
しかし、では次回を見たくないか、と言えば、ちょっと見てみたいという気にはさせてもらえました。ということで演出的には差し引き-1、ってところかな。(偉そう)
二番目。大雅が嫌味のないキャラクターに仕上がっていた。
松潤ファン目線ではないということで、控えめに表現させていただいてます。
テレビ誌で情報を得た段階では、「自分の状況に対する愚痴ばかりこぼし、全て人に責任転嫁するダメダメな青年。頭でっかちで小心者」というキャラクター像だった楠大雅。
これは危険だなと感じました。一歩間違えばかなり嫌味な共感できない人物になります。設定からしていけすかない。一番やなタイプじゃないですか。
が、しかし、ドラマで描かれた大雅は、設定どおりでありながら、ちっとも嫌味がありませんでした。ぐちっていても、カラッとしてる。明るくて軽い。
口数は多いけれど、肝心なところで言葉を失い押し黙る。(そして言葉にできない想いを目で語る)その拙さと不器用さ。
強烈な自我と比例する劣等感。自分がダメなことを自覚しつつ、自分のせいだと認めたくなくて他の要素に原因をおしつけようとする。これは逆もまた真なりで、他に押し付けつつ、実は全て自分に起因することを自覚している。
両親の愛情を全身に受けて育った、基本素直な青年。感情の屈折すらストレートで分かりやすい。
おそらくは演技関係の本で埋め尽くされた部屋。しかもその夥しい書籍はきちんと整理整頓されているという。
頭でっかちで暗中模索する青年を、愛すべき存在として成立させられているのは演出と演者の手腕だと思います。
冒頭の場面。数字が出てから嬉々として叩こうとしてる面々が口をそろえて「道明寺と同じ演技!」なんて見当はずれもいいとこの寸評をしてますが、そのイメージの根拠になったであろうレッドカーペットですね。
確かに歩いているところは道明寺テイスト。表情も道明寺を彷彿させます。おそらく演出も道明寺とかぶらせることを意図したのでは。非常に無駄な、むしろ止めた方が良かった演出だと思いますが。
ただ、演出意図としては多分、そのあとのホール客席での大雅の姿を対照的に浮かび上がらせたかったかなと思います。そこでの大雅こそ、楠大雅そのものだからです。
居心地悪そうに、ちょこんと座席に収まっている青年。
スポットライトを浴びる父。素通りされる自分。インタビュアーは俳優のはしくれである自分の名前すら言わず、「楠航太郎さんの御子息」という言い方しかしない。一生懸命インタビューに答えようとしても、途中でぶち切られる。おざなりな軽い扱いしかされない自分に辟易するも、なすすべなし状態であることへのいら立ち。
そういった大雅像がきちんと描かれている上手い冒頭であります。
それが大雅の本質であるにもかかわらず、レッドカーペットを歩くときには懸命に堂々と見せかけて肩で風切って歩く「見え方を気にする」大雅像をみせようとしたのでありましょう。
まあわからないではない。自分で書きながら、無駄でもないかと思いなおす(笑)
松潤演じる大雅君の細かい演技の妙についてはまた別にエントリします。
きちんと見てればそういう「妙」も随所にあったのですよ!
ただ、あちゃーと思うところもありましたが。
それが、三番目の項目につながります。
・竹内結子と松本潤の演技のタイプは似ている。
先に謝っておきます、ワタクシ竹内さんの出演作品はSPドラマくらいしか見たことがありません。実はそれほど得意な女優さんというわけではないので、あまり注意してみたことがないのです。ですから彼女の演技は全く知らず、今回が初見ということになります。
さて、その竹内さん演じる詩織。
この女性がさっぱりつかめない。
感情の波が支離滅裂で頓珍漢。まるで意図的に感情移入を拒絶するキャラクターにしているかのごとく、全くどんな女性かつかめないのです。
だから、最後の大雅のモノローグ、「おおざっばで乱暴で、よく笑い良く喋り、綺麗な涙を流す君に」が上滑ってしまう。
言われればその通りで、各項目に該当する詩織はドラマ中できちんと描かれてはいるのです。
大雑把に大雅を助け、乱暴でよく殴り、よく笑うし泣いてるところもあった。が、それが一つの人物として結びつかない。つまり統合されてない、つながりなく点在している状況。
これは竹内さんのせいではなく脚本家の責任だと思うのですね。
このドラマの引きが今一つ弱かった最も大きな要因は、この肝になる詩織のキャラクター性の弱さなのではないかと推察します。
逆にいえば、この「詩織」の姿が形を成し始め、彼女の心情が視聴者に分かるようになってきたら、このドラマは大化けする可能性があるのではないでしょうか。かなりの確信を持ってそう書かせてもらいます。
で、演技のタイプが似ているってのはどういうことかというと、演者側としても、視聴者側としても、「時間がかかる」タイプなんじゃないかなって。
まだまだ浮いて見えるところが双方にあって、歯車がうまくかみ合ってない感もあるのですね。しかし、それが致命的かというとそうでもない。まだなじみが浅いかなと言う感じ。
松本潤さんはそうなのですよ。そして、2話で徐々に馴染み、3話で確変する。これに該当しなかったのは初回から素晴らしかったスマイルくらいです。
竹内さんにも同じ匂いを感じるんですよね。
その意味でも、このドラマ、見続けてると化ける。
と思うのであります。
以上、すっごいザッパな感想でありました。