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カテゴリ:映画
試写会1回、舞台挨拶生中継つき2回、都合3回鑑賞しています。
ここではおおざっぱな感想だけにしておこうと思っていますが自信はありません。
ネタバレがお厭な方は、どうぞ読まないでくださいませ。

ただ、実は自分はこの映画に於いて劇中の「秘密」自体はそれほど重要な要素ではなく、前提に過ぎないと思っています。
いわゆる「オチ」にはなっていません。
その前提の上で描かれるものがこの映画にはある。
だからこそ、複数回の鑑賞に堪える作品になっています。
「オチ」の驚きにしか価値がなければ、一回見ればそれで十分です。
でもこの作品は、何度も見ることによって感動の質が変わってくる。
そういうつくりになっていると思います。(アバンタイトルですでに勘の良い方はぴんとくるかと。でもそのアバンタイトルがとてもノスタルジックでいいんだ!大好きだった)

 おもわず聞き返すと、お義母さんが笑って答えた。
「最近、猫を飼い始めたんです。うちは主人と二人暮らしなんですけど、いい歳してなんだか無性に子供が欲しいという話になって。それでこの間、ご近所から仔猫を譲ってもらって」
「名前が、真緒なんですか?」
 お義父さんが頷く。
「あまり猫らしくない名前でしょう。でも、どういうわけか名前はそれ以外にない気がしたんですよ。飼ってみたらこれがもう、娘のようにかわいくてね。猫を飼うのは初めてなのに、昔からずっとそばにいたように馴染んでしまって。ほら、親馬鹿でしょう」
 そういってお義父さんはラミネートされた写真を財布から取り出した。そこには、人の指にじゃれつく幼い茶トラが一匹写っていた。
 真緒、たしかに親ってすごいよな。
 僕は心の中で真緒に語りかけた。
 彼女はきっと、何もかも消して行ったつもりだったのだろう。しかし、両親の中にはおぼろげながら真緒の存在が残っている。きっとこれは真緒の不手際ではない。血こそ繋がっていなかったかもしれないが、真緒はたしかにこの夫婦の娘だったのだ。会社の同僚や近所の住人の記憶を消去してしまう不思議な力も、親の愛には歯が立たなかったのだ。


原作で唯一私が涙した場面です。

正直に言うと、私はこの原作がそれほど得意ではありませんでした。
どうしても「秘密」「嘘」の部分が受け入れられず、とりあえず「鶴の恩返しとか、人魚姫とか。その類その類」と自分に言い聞かせて読んだのです。
でも、そういったおとぎ話の構造があるからこそ、こういった普遍的な「愛の強さ」という気恥ずかしい理想が臆面もなく提示でき、かつ胸を打つんだとも思いました。

その構造はたぶんこの映画にも生かされている。

残念ながら上記の原作の場面はそのまま映像化というわけにはいかなかったようです。

原作との決定的な違い。

それは、「浩介」の「記憶の抹消」です。

真緒が姿を消した後、浩介は偶然真緒の両親と街で遭遇します。
けれども浩介は彼らが真緒の両親であることも当然忘れています。
両親も然り。でも、お父さんが――潜在意識の奥を探るような表情を一瞬浮かべるのです。
記憶の底に何かが残っている、という描写が挿入され、それでこの場面は終了です。

代わりに「真緒の存在」をその身中に残していたのは「浩介」でした。

それがラスト。自分がこの映画で最も心打たれ、もっとも強く印象に残った場面です。

劇中効果的に使われるビーチボーイズの「素敵じゃないか」
これが体の中に残る記憶の残滓を呼び覚ます。

私は後半から何の涙か自分で判別のつかない涙が溢れてきて、この場面で一気に正体不明の感情が爆発してしまいました。

悲しい涙ではない。感動の涙でもない。辛い涙でも、切ない涙でもない。
一体何への涙だったのか。

多分それは、言葉にするとしたら「光と君へのレクイエム」なんでしょう。


存在とは何によって証明されるものなのか、なんて、古来哲学のメインテーマでさんざん語りつくされてきてることなんでしょう。
その道に明るくないので詳しくは存じませんが。

この世は無常で万物は流転します。そんなこと、誰でも知っているし実感していることです。
草木は枯れ、また芽吹く。人は死にそして生まれる。

存在の証明が「触れられる可視の実体」だというなら、死んでしまえば全てなかったことになってしまう。
でも、人はその実体が目の前からなくなっても、「記憶」の中にとどめておける。
或は「記録」として存在の証を時空を超えて残すことができる。
だから悲しいけれど、どこかに感情の逃げ場があるのだと思うのです。

その意味では、原作の浩介の悲しみは(読者の感じる悲哀も)人の死の悲しみに類するものです。彼の持つ記憶以外のすべての存在確証が失われてしまっても彼は覚えているのだから。

でもこの映画では、「真緒」は完全にその存在を失ってしまいます。
最初からそういう契約で、それを分かっていてもなお、真緒は浩介に人間として巡り合うことを願った。どれだけ強い思慕だったことか。(ここからすでに涙腺怪しい)

涙が溢れて止まらなかったのは、たぶん真緒の実体の喪失のせい(死んでしまうこと)ではなく、浩介と真緒が中学時代から積み上げてきたあの美しいかなしい記憶の集積がすべてなくなってしまうからなのです。
文字すらも消えてしまうからなのです。

二人が本当に大切に想い合い向き合っていたからこそ、その喪失がかなしい。

前半で二人の思い出を笑いを交えて丹念に積み上げ、後半それを剥奪する――という高低差の激しい構成は上手いなと思いました。
つなぎ役としての夏木マリさんの起用も功を奏していると思います。

何より「メモリー」の核になる中学時代の映像が素晴らしかった。葵わかなさんがとてもいい。彼女のおかげでこの映画の印象が極めてピュアでリリカルで懐かしさに満ちたものになったと思う。映像も実に美しかった。


最後。

蛇足のようなあのエンディングを、ハッピーエンドととるか、そうでないととるか。

存在と記憶に重きをおくならアンハッピーエンド。
二人の想いに重きをおくならハッピーエンド、というところでしょうか。

私はあれを浩介のことを覚えていて浩介に会うためにまた生まれ変わってきた「真緒」だと思いましたが、全く別の本当の「人間」と受け取ることも可能かと思います。
そういった受け止め方の違いでも、最後の印象は変わってくるでしょう。
それもこの映画の面白さのひとつかなと思います。


ということで、とりあえずの雑感です。

もっと何回も見たらまた感じ方が変わってくると思いますし、細かいところ突っ込もうとしたらやっぱりきちんと画面で確認しないといけないので、詳細感想はいずれ。

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Last updated  2013/10/13 02:00:03 PM
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