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カテゴリ:陸上
ブログを見ていると、英検2級、仏検3級でフリーランスの翻訳者をめざしているというのがある。そのレベルでよくもまあと思うが、このぼくも英検は3級しかもっていない。
中学のとき、半ばだまされたようなかたちで試験を受けさされ、一次に合格したものだから、二次試験を受けにいくはめになった。 その日はちょうど福岡国際マラソンと重なっていて、マラソン史上初めて2時間10分を切った歴史的なレースを見のがしてしまった。 それから37年後、世界マスターズロード選手権の30キロ競歩に参加するため、ニュージーランドのオークランドに行った。 練習場で体をほぐしていると、妻が呼びに来た。何でも、外国選手が話しかけてきたらしいのだが、ほかの日本選手はことばがわからず、妻はことばはわかってもマラソン事情にはうとい。 「ニュージーランドの人で日本にも来たことがあって、何かのレースで君原の次に入ったとか言ってるんやど、知ってる」 ええ、だれだろう。マギーか、それともジュリアンか。マギーと君原の対決は記憶にない。ジュリアンが優勝して、君原が2位に入ったレースはあるが、その逆は浮かんでこない。 ぼくはできるかぎり時間をかせいで、「ちょっと待ってね。当ててみせるから」と何度も言ったが、結局答えが浮かばず、ついには相手に名を名乗らせてしまった。 「ライアンです。マイク・ライアン」 そうか。ぼくはちょっとまぎらわしい情報をつかまされていた。それなら、いっそ何も聞かない方がよかった。日本に来たと言っていたから、日本のレースばかり考えていた。メキシコオリンピックで苦しそうにゴールをめざす君原選手にひたひたと迫ってきたのが、今ぼくの横にいるライアン選手だった。エチオピアのマモ・ウォルデが優勝し、君原が銀、ライアンが銅だった。 「中学の時にはテレビでライアンさんを見ましたよ。福岡で広島選手とゴールまでもつれたレースはものすごくよく覚えてます。そのときのライアンさんの記録、ちゃんと覚えてますから、何なら言ってみましょうか」 2時間14分04秒6 当時は10分の1秒まで計測していた。そのゼロコンマ1秒まで正確に覚えていることに、当のライアン選手は「よくそこまで覚えてくれてましたね」と感激してくれた。名前を当てられなかった「失策」分はこれで取り戻した。 さて、いよいよ話は本題に入る。あまり成績のよくなかったレースは思いだしたくないかもしれないが、これこそ、ぼくにとって忘れようにも(見ることができなかったのだから)忘れられないレースなのだ。 広島選手に競り勝って優勝した次の年にも、ライアン選手は福岡に来た。 レースの模様は父や弟から聞いたことや、新聞で読んだことから再構成するしかなかった。20キロまで59分59秒という当時としては無謀とも言えるペースでレースは進んでいた。ライアン選手ともうひとり当時無名のオーストラリアの選手が並走していた。 レースが動いた。「出ましたね」というアナウンサーの声を聞いて、父は当然ライアン選手が前に出たのだと思った。だが、そうではなかった。2時間18分台の自己記録しかなかったオーストラリアのクレイトンがそのまま突っ走り、2時間9分36秒4という大記録を打ち立てた。 ライアン選手はクレイトン選手にペースを乱されて後半くずれ、2時間15分台で9位に終わった。 記録では完全に遅れを取ったライアン選手ではあったが、オリンピックではみごとに銅メダルを獲得した。一方のクレイトン選手は肝心の大舞台では7位に終わった。 こうしてぼくは、37年前に英検のために見ることができなかったレースの「偉大な脇役」と話をすることができた。 ただ、残念なことがひとつある。ライアン選手と二人で取った写真を父に見せたら、きっと感激してくれると思っていた。当時、外国選手のなかでは父にとって、いちばんなじみのある選手だったのではないかと思う。ところが、写真を見せて「ライアン、ほら、あの広島日出国と競技場までいっしょに帰ってきた。メキシコでも君原の次に入った」と言っても、もうひとつピンとこないようだった。目に見えてボケが進んでいるように見えない父ではあるが、あの頃の記憶はもうかなり薄れているのかもしれない。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年12月01日 00時31分17秒
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