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カテゴリ:日本語
 翻訳講座と並んで日本語講座を開始した。

 もともと翻訳講座というものは、外国語が十分にできて、きちんとした日本語が書ける人が、ただその間の橋渡しとなると不慣れなところがあるので、そのあたりのコツを学びに来るところであるはずだ。

 ところが、翻訳を習いに来る人のなかに、英語のお勉強をしに来る人がいる。自分の解釈が正しかったかどうかだけを確認して、それで終わり。

 英語のお勉強をしに来る人がいるくらいなら、日本語のお勉強をしに来る人がいてもよさそうなものだが、そういう人にはまずお目にかからない。日本人だから日本語は大丈夫と思っているらしい。正確に言うと、翻訳をするうえでの問題はないと思っているらしい。


 たとえば、「おかしい日本語」について書かせると、たいては日本語本に書かれているような内容のものが返ってくる。当然、こちらが求めているものとはちがう。それなら、出題するときに、「おかしい」とはどういうことを言うのかきちんと定義するべきだという意見もあるが、最初に定義してしまったら、日本語のいったい何が問題だと思っているのかを聞き出すことができない。


これまで「的を得る」だと思っていましたが、本当は「的を射る」が正しいことがわかりました。「怒り心頭に発する」というところを、このごろ「怒り心頭に達する」という人が増えています。


 そういうことを書いてくる人がほとんどである。

 もちろん、まちがいがないのにこしたことはない。まちがってもいいと言っているのではない。まちがいを奨励しているわけでもない。しかし、いったい上に書いたたぐいのまちがいが、現在の日本語が抱えている問題のなかで、それほど重要なものなのであろうか。

 ぼくは、日本語の問題を考えるとき、次の4点を基準にするのがよいと考えている。

1.情報伝達に支障があるか。
2.本来の表現と異なることに気がつかずに広まるおそれがあるか。
3.(外国語等の)異物と母語とを見分ける感覚に影響が及ぼすことがあるか。
4.日本語全体に取り返しのつかない影響を及ぼす可能性があるか。 


 「的を得る」と「怒り心頭に達する」を、この4点について考えてみると、情報伝達の支障はまったく考えられない。本来の表現と異なることには、遅かれ早かれだれかが気がつくはずだ。となれば、そこで止まってしまう。それ以上の影響は考えられない。

 もうひとつ、どの立場から日本語を見るかということが、本当は重要な問題なのである。巷に溢れる日本語本も、テレビでやっているような「正しい日本語にまつわるクイズ」も、要するに、お上の立場から庶民に通達するようなかたちになっている。日本語本は、学者がお上の立場から、庶民に対して「みなさん、これが正しい日本語ですよ。これが美しい日本語ですよ」とお説教しているようなものであるし、テレビのクイズはマスコミが間に入っているだけのことだ。

 お上+学者+マスコミ対庶民という構図は非常に重要であると思う。それぞれに望んでいるものがちがうのに、それをひとつにして日本語の問題を考えること自体に実はムリがあるのではないだろうか。

 たとえば、薬店ということばがある。もちろん、お上の作ったことばである。薬剤師がいる店は薬局と名乗ることができて、薬剤師がいないと薬店と言わなければならない。そうなると、たちまち基準1に抵触することになる。いくら「店」ということばの意味と「局」ということばの意味を知っていても、それだけでは両者のちがいを区別することができない。発泡酒などもそうで、単に税金と取る目的だけで新しい概念をつくっているわけで、不都合なことこのうえない。

 本来、母語というものは小学校の義務教育で学んだ知識だけで何もかも読み解けるようなものでなければならないはずだ。あれだけ長い年月をかけてせっかく漢字を勉強したのに、発泡酒を「泡の出るお酒」と解釈することが許されない。

 これは、ものすごく庶民をバカにした行為であると思う。

 幼稚園と保育園のちがいも同じこと。マスコミはこういうものを見つけると、思慮分別もなく、知っているか知らないか、知識があるかないかを問いたがる。それぞれ管轄がちがい、前者は文部科学省、後者は厚生労働省。答えることができた者に拍手を送り、出来なかった者に冷たい視線を送る。それはちがうだろう。

 ぼくが提案した基準で考えれば、「的を得る」や「怒り心頭に達する」よりも「薬店」や「発泡酒」、「幼稚園」、「保育園」の方が大きな問題であることになる。

 その意味でぼくの考えている日本語講座とは、お上の使い走りになるのではなく、そういったものには動じず、新たな視座の構築を目指すものである。

 だから、航海図なるものは何もない。当然、羅針盤もない。今でも、そのためにかなりの時間をとられ、自分で自分の首を絞めるものにもなっている。

 それもこれもみな、覚悟の船出である。



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最終更新日  2006年12月01日 00時22分39秒
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