カテゴリ:インテグレーティブ・コーチング
『選択の瞬間』の質問のラスト、10こ目です。
(原文はAm I choosing from divinity?) 前回の「faith」とも重なりますが、この「divinity」という言葉も、なかなかの難物です。 イメージが可能でも、うまく言葉に描けないと思っていて、 この章も書けずにおりました。 「この選択はdivinity、人間としての自己を越えたところからしているか。 それとも人間性を源とする反応か。」 divinityを辞書でひくと「神性」とあります。 一介の人間に「神性」からする選択ってものはあるのか?と、この章を読み始めたときは思いました。 しかし、 私のビジネスパートナーが、私に聞いた質問を思い出して、これと関係あるのかもな、と感じています。 その問いとは、これです。 「私たちが、この時代に、ここに生まれた理由って何だと思う?」 ・・・私は彼女にこう聞かれるまで、 自分がこの時代の、ここに生まれた理由というものに思い至ったことは、ありませんでした。 自分が存在する理由は、おそらくあるとは思うけど・・・という程度で、 その先に何かあるかも、ということすら、思いつきもしませんでした。 その状態でいきなり「私たちが、この時代に、ここに生まれた理由って何だと思う?」と聞かれたら・・・・。 ついつい、私はこの世で何ができるかな、って考えちゃう。 出来るか否か、は後からやってくる事象に過ぎない、 なんていわれちゃうと、思考はがぜん、そちら方面に向かい始めます。 壮大な方向性が出るかもしれないし、とても身近なことが挙がってくるかもしれません。 それは、おのおの自分の「この時代に、ここに生まれた理由」によって異なるでしょう。 異なっていても、おおまかな方向性を自分で気づいていたら、あらゆる選択がしやすくなることでしょう。 また、本文を引用しますと 「人間性とは、決してよくないものではないということです。 それどころか、人間性は美しいものです。 (中略)自己の人間性は、わたしたちが与えられているたくさんの能力の番人です。 けれどもそこには、限界と言い訳、そして利己的な計画が満ち溢れています。 この問うべき質問は、わたしたちの中のどの領域に人生の舵取りを任せるか、 日々の選択をゆだねるか、そのときどきの意識を預けるかといった、選択の余地を与えます。」 日々の選択、時々の選択、そして人生をどっちの方へ向けるかを決めなければいけないとき、 この質問は「どっちの領域で決めようか」を、決定するものとなるのでしょう。 どっちで決めるのが正しい、正しくないではなくて、 どっちが適任だと自分が決めるか、なのだと思います。 最近、私が決めたことに「なにものにもdiscourageされない私がいる。」というものがあります。 (discourage・・・失望させる、落胆させる) 人との関わりから、残念だけど怒りや恐れを感じることって、ままあります。 これらの怒りや恐れがもとで、自分の行動を制限したり、 しようと思っていたことを、むざむざ色あせさせたりすることが、とても多くありました。 怒りや恐れを感じることは、当たり前だしOK。 しかしそれを理由に、したいことを自分で制限することはやめよう。 もう二度と、私は人との関わりを理由に自分を止めることはしない。 自分がやめると決断しない限り、自分で自分を止めない。 そんな気持ちをこめた決断が、「なにものにもdiscourageされない私がいる。」です。 この選択は、私のdivinityからしたものだと思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 7, 2004 04:41:11 PM
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