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韓国の国宝第1号・崇礼門(南大門)全焼のニュースはショッキングでありました。崩壊の瞬間をとらえた映像などは、恥ずかしながら崇礼門というものの存在をニュースを見るまで知らなかったわたしですら、何か自分にとっても重大なものを失ったような喪失感を禁じえませんでした。韓国民の心情はいかばかりであったでしょうか?
さて、ここで「タイ」の歴史的建造物についての考え方を連想してみますと、タイ人の考え方はわれわれ日本人や韓国人とはかなり違っている気がします。 例えば、チェンマイ旧市街を囲む「城壁」ですが、戦前まではメンラーイ王時代の城壁が一部現存していたらしいです。それを戦後に「景観整備」を行った際に古い城壁は跡形もなく取り壊され、煉瓦などの建材が「復興」された城壁に使用されはしたものの、当時の姿は永久に失われました。 同じくチェンマイ旧市街にある「ワット・チェディルアン」ですが、1412年に建造された高さ約80メートルだったという仏塔ですが、1545年の地震で崩れてしまい、その後長く修復されないままだったそうです。近年になってタイ政府の予算とともにユネスコや日本などからの支援を得て「仏塔の修復」を行ったのですが、その際には(建造当時の絵図がなかったこともあるのですが)建築家の斬新なデザインを取り入れて「再建」され、当時の建築様式を再現したものとはなっていないようです。 「アユタヤ」の遺跡群は、みなさんがよく知っていることは「ビルマ軍の攻撃により破壊され、廃墟となった」ということでしょう。それも確かに事実のひとつらしいのですが、アユタヤの破壊の最大の要因は「バンコク遷都の際にアユタヤの宮殿・寺院を破壊して建材を持ち出し、バンコク建設に再利用した」、つまりタイ人自ら破壊した被害が最も甚大だったらしいです。 これらのことをわれわれの感覚で捉えると、タイ人は現代に至っても歴史を破壊する「蛮行」を繰り返している、と考えてしまいます。 しかしこれは「文化」「考え方」の違いとも捉えられるのではないでしょうか。 そもそも仏教思想の基本は「諸行無常」「諸法無我」。つまり、あらゆるものは常に変化している(滅びそして生まれ変わる)、ものごとへの執着を捨て去らなければ真理を得ることはできない。この考えに基づけば、古い建造物の保持に執着するのでなく、建材を再利用して新たな生命を与えることが仏教思想に適った考え方といえるかも知れません。 「保存」「修復」ではなく「再生」することに価値を見出すのでしょう。 タイでみなが訪れる高名な寺院は、その多くが「遺跡」「史跡」という意味よりは「現役の宗教施設」という意識がタイ人にとって濃厚であることを考えると、上の事実はさらに理解しやすいかと思います。 とはいいつつも、日本人としては古き佳きモノは後世にしっかり引き継いでほしいものと願うのですが・・・ タイブログランキングに1票! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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