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テーマ:好きなクラシック(2316)
カテゴリ:ブルックナー
「大作「第5」と最後の三大交響曲の間に挟まれた「第6」は規模が小さく,主題の個性にも乏しく,最初の2つの楽章に比してスケルツォ以下がやや劣るなど,円熟期のブルックナーの作としてはいささかの問題もある」宇野巧芳。
以下,「ブラームスがお好き」の反論。 ひとつ,規模の大小は作品の優劣には関係ない。第6はシンプルではあるが,スケールは決して小さいものではない。 ふたつ,第7・第8・第9におけるワンパターンな「ブルックナーの原始霧」の世界とは明らかに一線を画す第一楽章の特徴的なリズムと独特の寂寥感のある主題からして,客観的に主題の個性が乏しいとは言いがたい。それでも第6が没個性的だというのなら,ブルックナーのどの交響曲を評して主題が個性的だと言うのか。 みっつ,スケルツォ以下が劣ると言うが,第6のスケルツォはむしろ傑作の部類に入る。それに,フィナーレが弱いのはブルックナーすべての交響曲に共通した特徴である。第6におけるそれは,著しくバランスを欠く第7のそれよりも優れて健闘しているほうである。 よって,ウノコウコウの上記ライナーノートには理由がないから,これを棄却することが相当である(笑)。 僕のこの交響曲に対するイメージは,「宇宙戦争」である。 第1楽章,騎馬のリズム,馬蹄の響き。でもそれは飼葉臭く汗臭い歴史上のそれではない。天上の神の僕か,それとも全身冷たい鋼鉄の鎧に覆われた無機質な空想上の軍隊。宇宙空間で鳴る蹄の音。中には古風な戦車も混じっている。騎馬の大軍は時折互いに歓呼の声を上げながら,隊列を乱すことなく粛々とその定められた戦場へと向かう。 第2楽章,ここはどこだろう。草原?荒野?山脈?どこかで見たような,いや現実にはどこにも見ることのできないような,そんな不思議な風景。見たこともない不思議な色のグラデーション。たぶん,ここは違う星だ。これからここが戦場になるのだろう。 第3楽章,スケルツォ。第1楽章の軍隊が戦場に到着。軍隊が無駄なく陣を展開していく。騎馬の塊が勢いよく行き交い,伝令が飛ぶ。すべては粛々にことが運んでいき,戦場は緊張を増していく。 第4楽章,勝利のフィナーレ。何度も繰り返される突撃,何処までも突き進む追撃。凱旋軍の行進。 以上恥ずかしながら,僕の勝手な空想・妄想・ファンタジーである。 僕はこの曲をギュンター・ヴァント指揮ケルン放送響の70年代のステレオ録音で覚えた。 だからだろうか,僕は彼の晩年の同曲の北ドイツ放送響の再録音に対して,「たいそうご立派な演奏だ」と感心はしつつも,「枯れすぎ」「気の抜けたビール」という感触が拭いきれない。 ギュンター・ヴァントは,その晩年,90年代後半から突然降って沸いた「巨匠ブーム」により,「最後の巨匠」としてにわかに人気を得た人である。 ベルリン・フィルとの競演など,その「巨匠ブーム」によりもたらされた優れた録音が多数残されたことは否定できないが,彼のベストはその心身がもっとも充実していた70年代,80年代にあったように思う。 少なくとも,この第6については,晩年の再録音よりも,ケルン放送響の旧録音の方が,もっともっと音楽が活き活きしており,躍動感に満ちている。 「最後の巨匠」というCDの売上のための宣伝文句でしかないキャッチフレーズに吸い寄せられたクラシック・ファンたちは,彼になにを求めたのだろう。そして,彼はその人々に対し一体なにを表現しようとしたのだろう。 彼の芸術は,その晩年,次第に老成し,円熟していったことは間違いない。 では,「巨匠」以前の彼は,ただの準備段階として,簡単に無視してよいものなのか? 彼の表現の本質は何だったのか。 彼の芸術のピークは果たしてどこにあったのか。 そんなことを考えるのも,あながち無駄ではあるまい。 と,偏屈な自分を慰める。 少なくとも,僕にとっては「巨匠」以前の彼の方が魅力的だ。 お偉い評論家サマたちが金を貰って書いたライナーノートや,うわついた広告の宣伝文句にばかり踊らされてないで,たまには自分の耳で聴くことだ。 たとえそれが幼稚なファンタジーであっても,それは僕だけの音楽,あなただけの音楽。 それでよいのでは? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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