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テーマ:好きなクラシック(2316)
カテゴリ:ブルックナー
シューリヒトの彫りの深い豪壮華麗な演奏も、 クナッパーツブッシュの広大無辺のスケールを持つ演奏も、 マタチッチの剛直な録音も、スクロヴァチェフスキの精緻の極致をきわめた録音も、 そして敬愛なるジュリーニの「非の打ち所のない」芳醇な演奏を知っている。 でも、しかしながら、である。 「この録音」はまったく別格のものだ、 と、僕はいわざるを得ない。 「この録音」とは、 ヘルベルト・フォン・カラヤン 指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1988年の録音。 この録音は、 おおかたの大衆的人気の中のカラヤンのイメージである 「早くて軽くてしかもべったりとしたレガート」という定型を 180度覆した 「真のドイツ=オーストリア音楽家」カラヤン渾身の記録である。 この録音を嫌う人が多いことは知っている。 いわく、「末端肥大症的演奏」と。 でもあえて僕は、この忙しい年末の時間を割いて その人たちに対して「不毛な」反論はしない。 『僕はこの録音が好きだ。』 以下の文章は、そこから始めよう。 ここで聴く音楽は、「この世ならぬところ」から、来ている音楽だ。 「この世ならぬところ」とは、われわれが住むところとは別の世界、 すなわち「あの世」にほかならない。 黄泉の国から響く音楽である。 もしあなたが望むなら、それを「宇宙」と言い換えてもいい。 僕はただ、それくらいこの音楽は「非・日常」であることを言いたいのだ。 ところで、ダニエル・バレンボイムの指摘を待つまでもなく、 このブルックナー第8交響曲の構成は、ベートーヴェンの第9のそれと 大変よく似ている。 でも、無用の誤解がないように言っておくけど、 その世界観は「だいぶ」「かなり」異なっている。 (というよりも、相容れないほど「異質」ですらある。) 「第9」がより能動的・躍動的・人間的・感情的であるのに対して、 「ブル8」はより構成的・超越的・宗教的・神学的である、といえばいいだろうか。 もちろんそれは、単なる傾向としての方向性を表現したまでであって、 「第9」に構成力と超越的・宗教的な説得力が欠けている、というものでもないし、 「ブル8」が非能動的・非人間的、ましてや非・感情的であるというわけでは決してない。 いや、むしろ、この2つの交響曲を同時に論じるということは、 異種格闘技の審判を引き受けるようなものだ。 やめよう、そんな無謀なことは。 ひとつの銀河系ほどもあるブルックナーの第8番の深遠かつ広大な世界については、 この交響曲を聴いたことのない人に対して いくら言葉を尽くしても足りるものではないが、 カラヤンの老練の演奏は、星を動かすほどのブルックナーの底知ぬエネルギーを 余すところなく引き出し、表現し尽くしている。 しかしそれが、付加的にマーラー的な妖しさと、素朴な郷愁さえ感じさせるのはなぜだろう・・・ ウィーン・フィルに対してギリギリのところまで徹底した美音を求めておきながら、 その表現はどこまでも(偉大なまでに)単純で素朴なのだ。 ほんとうにブルックナーを知っている(換言するなら、「知ってしまった」)、 「極人」カラヤンだけが成し得た 『この世ならぬ交響曲のこの世ならぬ演奏の記録』、 このようなおざなりな言葉で終わらせたくはないのだが・・・ とにかく、『百聞は一聴に如かず』です。 聴いてみないことにはわかりません。 蛇足ですが、「『聞く』ことはだれにでもできるが『聴く』ことは大変難しい」、 ということは、僕の心情であり、哲学です。 2006年、本当にいろいろありましたが(ーー゛)、 みなさんもその来し方を振り返りながら、この超大な交響曲を聴いてみられてはいかがですか。 毎度毎度つまらぬブログですが、 訪れてくれたすべての方々に感謝! 今年もお世話になりました。 みなさんよい御年を。 また来年も、よろしくお願いします! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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