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テーマ:好きなクラシック(2316)
カテゴリ:ブルックナー
ブルックナーは、第1楽章の第1主題について、こう周囲に説明した。 その夢の中で神は、 「この旋律はお前に成功と栄誉をもたらすであろう」 とも言ったという。 ことの真偽はともかく、 この第7交響曲の第1主題は「神の旋律」と呼ぶに相応しい 神々しい美しさを放っている。 それは、 若く女性的なたおやかさを持つ同時に、年老いた男性的な落ち着きを兼ね備え、 世俗的な歌謡性と自由さと同時に、宗教的な節度を保っている。 曲は「ブルックナーの原始霧」から立ち登る「神の主題」で始まる。 それが繰り返し繰り返し何度となく展開されながら、曲は厳粛に進んでいく。 あるときは毅然として、またあるときは途方にくれて。 あるときは祝福し、またあるときは愛撫するかのように。 横に流れる弦と、真っすぐに立ち上がる金管によって、かたち造られる巨大な十字架。 コーダを控えたクライマックスでは、 地平線からやってくるかのように息の長いティンパニーのクレッシェンドに支えられて、 この「神の主題」が 高らかに歌い上げれられる。 眼がくらむほどにまばゆく輝かしい金色の音楽である。 第2楽章は「ワグナーのための葬送行進曲」と言われることが多いが、 この叙情的で完全無欠の緩徐楽章にはいかなる標題も無用である。 完璧なまでに美しい対比のA-B-A’-B’-A”形式を持つ。 ワグナーの死がもたらした深い哀しみが込められていることは明らかだが、 それを「ワグナー的なるもの」としてとらえる必要はないだろう。 むしろ、鑑賞の邪魔ですらあると思う。 最後のA”のクライマックスにティンパニー・トライアングル・シンバルの3パーカッション群を入れるかどうかの問題があるが、 僕は「3パーカッション群入り」を採る。 オリジナル主義者(←もはや「死語」かもしれないが)に言いたい。 原典を突き詰めるのも結構だが、聴いて感動できないようなら意味がない。 「スイングがなければ意味がない(村上春樹)」のだ。 第3楽章のスケルツォは農民の祭りだそうだが、 僕は高校生のころ、一時期この旋律が一ヶ月くらいずーっと頭のなかで 憑かれたように鳴り響き続けていたことがある。 いつでもそれを譜面に書き写してピアノで弾けるほどに。 それが弟が持っていたブルックナーの第7交響曲の第3楽章の旋律だと気付くまでは。 そのCDが、この僕が生まれる10年前に、オイゲン・ヨッフムがベルリン・フィルを指揮したもの。 そしてその兄が弟に駄々をこねて譲り受けたCDは、 聴き続けてもう15年になるが、いまだに僕のブルックナー体験の原点として、 他者とは比べようのない別格の「心の友」となっている。 第4楽章について、ダニエル・バレンボイムは「短すぎる」と言ったが、 確かに、大規模の前3楽章を受け切るには、このフィナーレは短すぎる。 しかし、決して弱いわけではなく、 洒脱にあふれ、不安定ながらも非常に充実しており、 こう言っては語弊があるが、 ブルックナーのフィナーレに時折見られる偉大なる退屈さ・・・ に陥ることから免れている。 が、この「短すぎる」フィナーレ楽章でこの交響曲をどのようにまとめ上げきれるか、 というところに指揮者とオーケストラの力量が問われるところでもあるのだが、 僕は、このヨッフム=ベルリン・フィル盤の コーダの金管のリズム感・・・と言うより「呼吸感」と呼ぶべき ネイティヴ特有のイントネーションがとても気に入っていて、 聴くたびに「ああ」とか「おお」とか心の中で叫んだりため息をついたりしている。 よい曲です。 *ちなみに、「神の主題」というのはワタクシ「ブラームスがお好き」の造語というか、勝手な呼び方です。あしからず。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年01月19日 22時38分25秒
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