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テーマ:好きなクラシック(2316)
カテゴリ:チャイコフスキー
と妻に言われた。 否定はしない。 が、 飲まずにはやってられない、 というほど毎日の状況はそれほど切迫してはいない。 でも、自然と手が伸びてしまう。 今の部署は絶え間ない消耗戦をやっているようなセクションで、 狐と狸の化かし合いか、飽きもせず堂々巡りのイタチゴッコをやっているような 労多くして実の少ない仕事である。 派手なドンパチはないけれども、 しとしと降る長雨が堤防を少しずつ侵食していくように、 次第にどこかが侵され綻んでいくのを 事前に察知はするけれども目新しい策を講じることもできず セオリーどおりの対策を繰り返してなんとか大洪水となることを防いでるだけような、 地味~な作業。 北方謙三の「水滸伝」に例えるなら、 青蓮寺の李富のような存在です(僕は彼のようにドラスティックで隙のない果断のできる切れ者ではないけれども)。 そのうち僕も老人のように声がしわがれて 髪も醜く真っ白になってしまうだろうか。 フルトヴェングラーの『悲愴』はいいですね。 まるで人生そのものみたい。 『悲愴』という言葉で表現するのは軽すぎる。 彼のスケールは完全にチャイコフスキーを凌駕してしまってます。 しかしなんという、しみじみとして、かみ締めるような音楽なのでしょう。 悲嘆に暮れるだけで終わるのじゃなくて、 そこには何か必ず「実り」や「救い」がある、 少なくとも、あるように感じさせてくれる。 なんという・・・大きくて、豊かな世界! 清濁併せ呑む仲代達矢みたいな芸風ですね。 偉人たちのタフさの前では、 僕のひ弱さは情けない限りです。 でもいいのです。 僕は所詮108の星のひとつどころか 青蓮寺の李富にもなれないかもしれないけど、 僕は僕の人生を歩むのです。 ただひたすらに それが僕の宿命なのですから。 たとえそれが、 報われることのない労働ばかりで、 ちっぽけで無意味な存在であるとしても。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008年05月13日 00時06分58秒
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