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テーマ:好きなクラシック(2316)
カテゴリ:ワグナー
ワグナーを「作品」として聴ける 冷静さを持つようになったのだろう。 それは感情の磨耗か、琴線の擦り切れか。 純粋に「作品」としてワグナーを聴く。 それはそれで悪くない。 というよりも、むしろ大人の特権であるような気がする。 昔は、ワグナーは自己同一化の音楽以外何者でもなかったのだが。 ところで、「カラヤン・イン・ザルツブルグ」のワグナー。 「タンホイザー」に始まり、「ジークフリート牧歌」 フィナーレは「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死。 まるでシンフォニーのような出来。 大学時代の思い出のいっぱい詰まったCDなのだけど、 いまは「作品」として冷静に聴くことができる。 それは寂しくもあり、贅沢でもあり。 「『若きウェルテルの悩み』が自分のためこそに書かれた小説だ!と叫んだことのない人は、寂しい人生だと言うほかない。」 とゲーテがどこかに書いていたのを記憶している。 私が言いたいのはそういうことだ。 『若きウェルテルの悩み』も、今読めばただの「作品」に過ぎないであろう。 私が言いたいのは、そういうことだ。 さて、明日は当直。 早く寝よう。 それが大人というものだ。 今夜は雷が止まない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008年08月30日 00時39分46秒
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