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ユダヤが解ると真実が見えてくる

ユダヤが解ると真実が見えてくる

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2012年04月23日
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カテゴリ:ユダヤ史
↓(注)以下、ユダヤ擁護の視点で解釈された史観だが藪蛇になっている



トロワ
1288年のフランスのトロワでの異端審問裁判にて、13名のユダヤ人が儀式に使う血を採取するために子供を殺した廉で、火刑に処せられている。

トレントのシモン

『トレントのシモンの物語』(ハルトマン・シェーデル 1493年)の挿絵1475年、イタリアのトレントで、ユダヤ人の家の井戸の中からシモンという名の少年の遺体が発見された。おそらく、キリスト教徒の殺害者が安易に罪を逃れようとして遺体を投げ込んだものと見られる。地域のユダヤ人たちはそのように推定したものの、当局に対して立証する手立てが何もないために動揺した。

さっそく、ユダヤ人の家の中から子供の泣き声がするのを聞いたと証言するキリスト教徒が現れた。尋問は凄惨を極めたため、家族の者は事件への関与を認ざるを得ず、当局の調査内容に沿った事件の詳細を供述した。首謀者とされたユダヤ人は水磔、他の者たちは白熱したやっとこで肉を割かれた後、火刑に処せられた。この事件では13名の命が奪われ、残されたトレントのユダヤ人たちも町から追放されてしまった。

その後、ローマのユダヤ人たちの請願が通じ、教皇庁は事件の再調査を命じた。すると密告者が現れ、彼は身の危険を案じながらも、ユダヤ人に対して行われた裁判が公正な訴訟手続きを踏まないまま、尋問による自白のみを頼りに進められたことを暴露した。この調査結果を受けて教皇庁は事件の究明委員会を設置したが、最終的に採択された決議は玉虫色のものであった。つまり、インノケンティウス4世の禁止令を改めて批准する一方、トレントでの訴状手続きが適正であり、これ以上委員会が干渉する理由はないと結論付けたのである。

後代になると、シモンの伝記が複数執筆されたが、いずれの内容にも様々な奇跡譚がちりばめられていた。その奇跡のおかげで彼は1588年、教皇シクストゥス5世によって列聖されている。ただし、1965年になるとパウルス6世によって列聖は無効とされた。トレントの教会には現在、次のような碑文が彫られている。「かつてこの場所では、人類史上の黒い一頁として記載されている耐え難い出来事があった。」

イスラエルの歴史家でバル・イラン大学の教授アリエル・トアフは、教皇庁の依頼に応じて当件の調査にあたり、その結果を著書"??? ?? ??"(血の過越)にまとめたが、同書では、シモン殺害は戒律を破ることさえも厭わないユダヤ人急進派による行為であると結論付けている。それによると、当時集められた証言を検証したところ、公判記録に残っている血と砂糖を取引していたとされるヴェネツィア出身の商人の実在が裏付けられるなど、証言には十分な信憑性があるとしている。

しかし、彼の著作はイスラエルでは酷評に晒され、非科学的で査読に堪えない書物を大衆に公表したとして、学者としての姿勢もろとも糾弾されている。彼に対する反論の主なものは、過去に十分検証され尽くした資料を強引に解釈する、その方法論に向けられている。また、500年以上も時を経た今日に至っては、過去の証言だけではいくら検証し直しても、尋問を否定するに値する情報を見出すことは不可能であり、仮にその証言に信憑性があると判断するのなら、中世ヨーロッパの魔女裁判において、サタンとの情交の嫌疑で火炙りにされた何千人もの女性の自白さえも認めざるを得なくなってしまうと述べている。

ラ・グアルディア -心臓の中傷 [編集]1491年、すなわちユダヤ人のスペイン追放前夜、ラ・グアルディアにおいて多数のユダヤ人が、儀式において子供を惨殺した上、遺体から心臓を取り出したという嫌疑で告発された。しかし、子供が行方不明になったという報告はなく、死体が見つかったという記録さえも残されていない。にもかかわらず、告発されたユダヤ人たちは極刑に処された。現在では、殺されたという子供自体がそもそも実在していなかったと見られているが、この話を広めた者たちは、子供が犠牲になった瞬間に地震が起こり、太陽が暗闇に覆われたなど、あたかもこの事件がキリストの受難の再現であるかのごとく吹聴していたのである。また、遺体が見つからないことに関しては、天に召されたからだと言って納得させていた。

一部の歴史家たちは、この事件が不測の事態から生じたのか、あるいはスペイン追放を控えた時勢を鑑みれば、土地を接収するために取られた計略の一環だったか、その真偽についての解明を進めている。

ラ・グアルディア発祥のこの物語は後代に戯曲化され、スペイン文学史において数百年の間、歌い継がれた。

近現代
ポーランドとロシア [編集]17世紀になるとポーランドにも血の中傷が波及し、西ヨーロッパと同様の現象が起きた。ただし、同国のカトリック教会は時勢に惑わされることなく、伝統的な教義から逸脱することはなかった。

18世紀から19世紀の初頭にかけて、ポーランドとロシアにおいて血の中傷が波状的に流行し、殺人事件をも含む様々な虐待行為が惹き起こされるようになった。ポズナン、ザスロウ、ジトームィル、ベリジュといったゲットーのある地域では特に酸鼻を極めた。

1736年、ポズナンにおける血の中傷で4人のユダヤ人指導者が虐殺された。
1747年、ザスロウで過酷な拷問の末に4人が命を落とした。
1753年、ジトームィルで12人のユダヤ人が生きたまま切り刻まれた後、火炙りにされた。
1823年、ベリジュにて多数のユダヤ人が牢獄に監禁され、その後数年間も拷問を受けた。
ロシアでの血の中傷裁判 [編集]19世紀のロシアでは、儀式的殺人の廉で告発されたユダヤ人の裁判が複数回執り行われたが、1件の例を除いたすべての件で無罪が確定している。にもかかわらす、時の皇帝ニコライ1世は1817年における布告で、「ユダヤ人の中にはキリスト教徒の血を必要としている者が多数いる」と公式に述べた。特殊な例としては、1852年から翌年にかけて、サラトフで多数のユダヤ人が血の中傷によって告発され、2名のユダヤ人が15年もの間、牢獄で拷問を受けていたというケースもある。

ただし、1855年には血の中傷に関する調査委員会が設置されており、いずれもがデマでしかなかったことが立証されている。

イズミールとコンスタンティノープル [編集]1872年から1874年にかけてのオスマン支配下のイズミールとコンスタンティノープルで広まった血の中傷は、当地のユダヤ人に様々な悲劇をもたらしたが、その多くはギリシア人によるものであった。

ダマスコ
1840年にダマスコで起きた血の中傷にまつわる事件は、世界中のユダヤ人社会に凄まじい衝撃を与えた。

この時期はムハンマド・アリーによるフランス傀儡政権がダマスコを統治しており、イギリスとオーストリアを後ろ盾にしていたオスマン帝国との交戦中でもあった。血の中傷の背景には、1840年2月5日にトマソという名前のイタリア人修道士と付き人のイスラム教徒が、ユダヤ人街の市場を訪れたのを最後に行方不明になるという事件があった。

ダマスコのフランス領事ラティ・メントンは反ユダヤ主義者として知られていたが、彼はこの機会を逃さず、すぐさまユダヤ人が関与しているとして告発した。一方、フランスの首相アドルフ・ティエールは政府主催の代表者会議をダマスコで開催し、エドモンド・ジェームズ・ロスチャイルドとの話し合いの中で次のように述べている。

「もし中世のユダヤ人たちの儀式的殺人への関与が自明であるなら、今日のダマスコの薄汚いユダヤ人が彼らと同じことを行わない理由とは何なのか?」
すると、あるユダヤ人に疑惑の目が向けられたので、さっそく取調べが始まった。厳しい尋問によって自白せざるを得なくなった彼は、苦し紛れにユダヤ人共同体の7人の有力者の名前を挙げた。彼らはすぐさま逮捕され、尋問の挙句に数人が命を落とし、残された者たちは観念して自白した。この事件の首謀者とされたのはハイム・ファルヒという実業家で、ユダヤ人によるパレスチナ開拓や教育をはじめとした、公共施設に多額の献金を行っていた人物である。彼は様々な尋問を受けたものの、幸い嫌疑不十分で釈放された。同じく容疑者としてダマスコの著名なラビ、ヤアコブ・アンテビも拷問を受けたが、後に名誉を回復している。

この間、ユダヤ人街から豚のものと見られる骨が発見された。ところが当局によって修道士の骨として公表され、教会内で厳かに埋葬された。これを受けて、ユダヤ人が貯蔵していると噂される血のありかの捜査が始まったが、当局はユダヤ人からの自白を引き出すため、3歳から10歳までの彼らの子供たち60名を誘拐するなど手段を選ばなかった。

ダマスコでの事件は、噂となって世界中のユダヤ人の耳に届いていたものの、当初はわずかな援助しか差し伸べられなかった。ところがこの誘拐事件によって関心が高まり、子供たちの救出へ向けての各方面からの働きかけが増加した。これは多分に民族、及び宗教闘争の要素を孕んでいた。この過程においてモーシェ・ハイム・モンテフィオールの努力が実り、オスマン皇帝アブデュルメジト1世によって、帝国内の事件でないにもかかわらず、血の中傷の流布を厳禁する布告がイスラム教徒に出されたりもした。中でも目立った活動をしたのはドイツの詩人でパリ在住のユダヤ人キリスト教改宗者ハインリッヒ・ハイネであった。彼は血の中傷への反論を声高に叫び、その迷信に内包された反ユダヤ主義者のコンセンサスを明らかにした。また、イギリス政府も罪なき被害者の救出活動に全力を注いだ。ダマスコでの血の中傷がユダヤ民族史上の一つのターニングポイントとなったことは間違いないであろう。この事件を通じて、中東のユダヤ人とヨーロッパのユダヤ人との間の溝が埋められたのである。

一方、ロスチャイルド家のメンバーはオーストリア領事の協力を得て、事件の詳細を文書にまとめ、それを新聞を通じて世界中に配布した。すると思惑通り、国際世論から激しい非難の声が上がった。そのため、アドルフ・クレミューを団長とするフランスのユダヤ人使節団がエジプトに赴き、事件の仲裁に乗り出すようムハンマド・アリーに働きかけた。こうして、2ヶ月にも及んだ監禁生活から子供たちが解放されたことにより、事件そのものの一応の決着を見た。また、この事件の責任を問われたダマスコの知事は処刑されている。

1986年、シリアの国防相ムスタファ・タラスは、公表した書籍の中でダマスコでの血の中傷に触れ、儀式用の血の採取を目的としたユダヤ人による修道士の殺害は実際にあったことだと述べている。イスラエルの劇作家アロン・ヒルはこの事件をモチーフにした小説(修道士の死)を2004年に発表した。





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最終更新日  2012年04月27日 06時41分00秒
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