カテゴリ:■ ご先祖様の、日本史探訪。
(1)1月1日、香椎宮へ、初詣。 先祖が、祀られている。 今年は、1月1日に、初詣をした。 1日に、行くのは、単独では、初めてである。 仕事を、終えた後、食事をする所が無かったので、香椎宮の近くの、「不老庵」と言う、そば屋へ行ったが、あいにく、3日間は、休みと言う事で、入る事は、出来なかった。 そこで、香椎宮の中の、テキヤの店で、イカ焼きを食べた。 大きかったので、一つ、食べただけで、十分だった。 この、香椎宮には、先祖が、祀られている。 ・「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)」 ・「神功皇后(じんぐうこうごう)」 ・「応神天皇」 ・「武之内宿祢(たけのうちすくね)」 ・「中臣烏賊津(なかとみのいかつ)」 (2)私の、他の、ご先祖様達との関係。 1、「ヤマトタケル命(みこと)」、「仁徳天皇」 「ヤマトタケル命」の、御子が、「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)」であり、その御子が、「応神天皇」である。 さらに、この、「応神天皇」の、御子が、有名な「仁徳天皇」である。 2、鎮西八郎為朝 香椎宮は、2世紀に、建てられたらしいが、本格的に、創建されたのは、724年である。 それから、430年程して、 それは、「保元の乱」の、少し前あたりであったか、先祖の、鎮西八郎為朝が、この、香椎宮に、狼藉を働き、それが、元で、父が、解官されてしまった。 そして、その、「保元の乱」に敗れてしまい、伊豆大島に、流されたが、ある時、急流に流され、琉球に、たどり着き、ここでも、暴れて、琉球王朝を、打ち立てた。 その、証拠が、「沖縄地頭」、と言う形で、残っている。 これは、鎌倉時代に、琉球が、幕府の統治下にあった事を、意味している。 3、「武之内宿祢(たけのうちすくね)」と、孝元天皇、蘇我氏 この他、「武之内宿祢(たけのうちすくね)」が、祀られた、「武内神社」が、摂社として、存在していたが、これも、私の先祖である。 私の、先祖に、「蘇我馬子」など、蘇我氏が居るので、それを、たどれば、「武之内宿祢」に、行き着くのである。 「武之内宿祢」は、どちらかと言えば、天津教の、「竹内文書」に関しての方が、有名である。 また、武之内宿祢、自身の素性は、8代「孝元天皇」の、ひ孫である。 「武之内宿祢」は、仙人、と言う、伝説があり、蘇我氏は、「我、蘇り」で、これも、仙人の様な、名前である。 また、一族の、聖徳太子も、空を、飛んだとか、やはり、仙人の様な、イメージがある。 これに対し、藤原氏は、天児屋根命(アメノコヤネのミコト)の子孫であり、アマテラスが、岩戸隠れの時、祝詞(のりと)を、奏上した神として、知られている。 つまり、言霊と、関係あるので、音声波動と言う、最近の、スピリチュアルな、流れと、関係ある様な、イメージである。 また、和歌なども、藤原氏から、始まっている様な感じである。 しかしながら、それより、遥かに、古い、「スサノオ命」の歌が残っていて、蘇我氏が、全く、歌を、やらなかった、と考える方が、不自然である。 おそらく、歌も、少しは、やっていたのではないか、と思われるが、乙巳の変で、蘇我入鹿が、死ぬと、蘇我蝦夷が、邸宅に、火をかけ自害したが、 その時、多くの書物が、失われ、その中には、歌が記された、書物も、あったのではないか、と思われる。 万葉集、石川 内命婦(いしかわ の うちみょうぶ)、蘇我氏の傍系。 (2024年3月9日。 加筆。 ) 4、「中臣烏賊津(なかとみのいかつ)」と、藤原氏 「中臣烏賊津(なかとみのいかつ)」も、先祖である。 私も、初めて、この名を、知ったが、 これは、先祖の、藤原氏を、辿ってゆくと、行き着く。 「藤原」と言う名は、実質的には、中臣鎌足の息子、「藤原不比等」から、名乗られている。 従って、他の、中臣氏は、藤原氏とは、名乗れなかった事になるが、「中臣烏賊津(なかとみのいかつ)」の場合、「藤原不比等」の先祖と言う事になる。 (3)数年前、この、香椎宮で、翡翠の、勾玉を、買った。 すると、「国の石」が、「水晶」から、「翡翠(ひすい)」に変わった。 香椎宮は、調べて行くと、色々と、先祖との、関わりが深い、神社である事が分かる。 私は、イカを、食べながら、参道を、見たが、行列が、出来ていて、本殿まで、行けないな、と思った。 そこで、裏口から、入り、本殿の、土産物売り場へ行った。 そして、そこで、天然石の、勾玉を、買った。 天然石は、ローズ・クォーツであった。 以前、ここで、翡翠の、勾玉を買って、母に、プレゼントした。 それから、数日して、「国の石」が、「水晶」から、「翡翠」に変わる、と言う、シンクロが発生した。 (4)神功皇后の、「三韓征伐」の、歴史的背景。 ここでは、歴史的背景を、述べて行く、事にする。 この説は、私が、提唱したものであるが、ピッタリと、各国の、出来事が、マッチして来る。 1、朝鮮半島の、先住民は、縄文人であった。 2、前漢の時代になり、戦国七雄の一つであった「韓族」が復活する。 3、「韓族」は、漢を、出て「匈奴」と共に、漢帝国と、戦ったが、紀元前196年、敗れて、四散する。 4、その、残党の一部が、朝鮮半島を、南下し、「三韓」を、建国する。 5、先住民であった、縄文人達の一部は、難民となって、日本に逃れる。 6、これが、「弥生時代」の、始まりである。 7、景行天皇の時代、「ヤマトタケル」が、九州の、熊襲(くまそ)タケルを、討ち取った。 8、その時、福岡の、白木原などで、難民を、発見する。 9、ヤマトタケル命は、三韓征伐の、準備をする為に、東北などの、鉄の、産地を、巡る。 10、しかし、志半ばで、三重で、死す。 11、「魏」の、使節が、日本に、来て、卑弥呼など、支配者達と、同盟を組む。 12、仲哀天皇、神功皇后は、三韓征伐の為に、福岡まで、やって来る。 13、 238年、日本の、朝貢船団は、遼東の「公孫淵」の元へ、向かった。 14、三韓征伐の、準備中、仲哀天皇は、熊襲の矢に当たって、戦死。 15、公孫淵は、日本の朝貢を、待っていたが、来たのは「魏」の、司馬懿仲達であった。 16、神功皇后は、魏との盟約を守る為に、仲哀天皇の代わりに、身ごもったまま出陣する。 17、三韓は、戦わずして、降伏。 神功皇后は、対馬まで行ったが、引き返し、出産。 18、この時、生まれたのが、応神天皇である。 (5)今日の、ご先祖様。 中臣烏賊津(なかとみのいかつ)、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと) 仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武之内宿祢、ヤマトタケル命、仁徳天皇、 景行天皇、五百野皇女(いおの)、伊和志真皇女(いわしま)、忍熊、倭姫命、 鎮西八郎為朝、孝元天皇、成務天皇、蘇我石川宿禰、蘇我馬子、藤原不比等 天児屋根命(アメノコヤネのミコト)、(アマテラス) 「赤字」は、新たに、判明した、方々。 「青字」は、以前、紹介した、ご先祖様たち。 「命(みこと)」は、命(いのち)であり、 普通の、人間に、わざわざ、「命(みこと)」と、言う言葉を、使う必要は無いのである。 古代において、特に、「命(みこと)」と言う言葉を、使う場合は、 人間に入っている魂が、ただの「魂」ではなく、「神霊」である事を、意味するものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年03月09日 12時46分52秒
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